はるまげどーなっつ
商店街の一番奥、錆びたシャッターの並びの中にその店はある。
看板にはひらがなで、かすれた文字。
「どーなっつ」
ただそれだけ。
学校帰り、私はその店の前を通る。
ガラスケースの中にはいつも同じドーナツが並んでいる。
砂糖がまぶされたやつ、チョコのやつ、ねじれたやつ。
でも、ガラスケースの一番端はいつも空いている。
そこのドーナツはまだ見たことがない。
「はるまげどーなっつ」
名前だけは知っている。
誰が言い出したのかもわからない噂で
――それは棚には並ばない。
――特別な時にしか出てこない。
とみんなが言う。
店番はいつもおばあさんひとり
しわだらけの手でトングを持って、ゆっくりとドーナツを並べ替えている。
「ねえ、おばあちゃん」
ある日、私は思いきって聞いた。
「はるまげどーなっつって、あるの?」
おばあさんは顔を上げて、少しだけ笑った。
「あるよ」
「じゃあ、ちょうだい」
おばあさんはガラスケースの端っこを見る。
「まだだね」
それだけを言って、またトングを動かし始めた。
意味が分からなかった。
うちには、小さな犬がいる。
名前はシロ。
ありきたりだけど、好きなアニメに出てきた犬の名前だから気に入っている。
シロはもう年で、最近はもう走らない。
私が帰っても、前みたいに玄関まで来なくなっていた。
それでもしっぽは振る。
「おかえり」って言ってるみたいに。
弱々しく、でも確かに。
ある夜、シロは静かに動かなくなった。
いつものように寝ているみたいだった。
でも、呼んでも、触っても、何も返ってこなかった。
お母さんは泣いていた。お父さんは黙っていた。
私は‐――何もできなかった。
次の日、学校には行かなかった。
気づいたら、あの店の前に立っていた。
ガラスケースの中はいつも通り。
でも、その端っこに、見たことがないドーナツがひとつだけ置かれていた。
黒い。
いびつな形。
そして少しだけ淡く光っている。
砂糖もチョコもかかっていないのに、なぜか甘そうに見える。
「......それ」
声が震える。
おばあさんはうなずいた。
「今日はあるよ」
「はるまげどーなっつ?」
「そうだよ」
「どうして今日だけ」
おばあさんは少し考えてから言った。
「終わりの日だからね」
その言葉の意味はちゃんとはわからなかったけど。
なぜか妙に納得してしまった。
「.........ください」
おばあさんはゆっくりとそれを包んで、私に渡した。
「大事に食べな」
公園のベンチで包みを開ける。
シロとよく来た場所。
走ることができなくなったけど、隣で座って、風や草の匂いを嗅いでいた。
いびつな形のドーナツをひとくちかじる。
甘い。
でも、ただの甘さじゃない。
砂糖みたいなわかりやすい甘さじゃなくて、
いびつに空いてしまった私の心の奥のほうから染みてくる。
少しだけ余白を残して......
気づいたら、涙が出ていた。
ぼろぼろと、止まらない。
シロが走ってくる。
そんな気がした。
元気なころのシロが、全力でこっちに向かってくる。
耳を垂らして、舌を出して、ぐちゃぐちゃな笑顔で。
「......遅いよ」
思わず、そう言っていた。
でも、その姿は、すぐに消えた。
残ったのは、静かな公園と、あとひとかけらになったドーナツ。
最後のひとくちを口に入れる。
甘さは、少しだけ苦くなっていた。
次の日、私はまた店に行った。
ガラスケースの中は、いつも通り。
「......昨日の......もうないの?」
おばあさんは首を横に振った。
「いつもは置いてないからね」
「また食べたい」
「そうだねぇ」
少しだけ優しく笑う。
「でもね、あれは‘‘そのとき‘‘にしかでてこないんだよ」
「その時って」
おばあさんは答えなかった。
代わりに、普通のドーナツをひとつ包んでくれた。
「今日はこれにしな」
受け取る。
あたたかい。普通のドーナツ。
でも、なぜか少しだけ、昨日よりも甘く感じた。
それから何度通っても、はるまげどーなっつは棚に並ばない。
たぶんこれからも。
でも、私は知っている。
あれはどこかにある。
終わりの日にだけ、静かに現れるドーナツが。
そして、その味を―――私はもう忘れない。
私は猫を飼っています。4匹です。
一番上の猫は17歳です。いつか来る日を考えると、
想像するだけで、胸に穴が空く気がします。
すでにそういう経験をした方の話を聞いたりもするのですが
ペットロスを乗り越えていくのはなかなかに苦労されているようでした。
その空いた心に救いがあることを私は切に願います。




