第三話 配下の意味
最初の一体が、シアに飛びかかった。
蜘蛛の脚と人の顔を持つ、異形。その口から、酸のような液体が飛び出す。
「危ない!」
俺が叫ぶより早く――シアが、動いた。
いや、動いたという表現すら生ぬるい。消えた。次の瞬間、シアは異形の背後にいた。そして――ぐしゃり。異形の頭部が、握り潰されていた。
『一』
シアが、数を数える。
二体目が襲いかかる。シアは振り向きもせず、背後に腕を伸ばす。その腕が――異形の胴体を貫通した。ずぶり。
「ギィィィッ!!」
悲鳴。だが、シアは腕を引き抜き――そのまま、異形を真っ二つに引き裂いた。
『二』
三体、四体、五体。まとめて襲いかかってくる。
シアは、地面を蹴った。跳躍。天井すれすれまで跳び上がり――そのまま、落下。
ドゴォンッ!!
着地と同時に、衝撃波が広がる。異形たちが吹き飛ぶ。壁に激突し、潰れ、砕ける。
『三、四、五、六、七』
淡々と、数を数えていく。それは戦闘ではなく――作業だった。
次々と襲いかかる異形を、シアは容赦なく殺していく。腕を引き千切り。脚を折り。頭を踏み潰し。胴体を引き裂く。
血が飛び散る。肉片が舞う。内臓が床に撒き散らされる。
「ギャアアアア!!」
「グルルル……」
「タスケ……タスケ……」
異形たちが、悲鳴を上げる。だが、シアは止まらない。ただ、淡々と――殺し続ける。
『三十四、三十五、三十六』
もはや、異形たちは逃げようとしていた。だが、シアはそれを許さない。
影から、無数の腕が伸びる。それが異形たちを掴み、引き戻す。そして――引き千切る。
「ギィィィィッ!!」
最後の一体が、絶叫する。だが、その声もすぐに途絶えた。シアが、その頭部を握り潰したからだ。
『五十三』
シアが、俺を振り返る。全身、血まみれだった。だが、傷一つない。
「……終わったのか?」
『ああ』
シアが、血を払う。その血は――床に落ちる前に、霧のように消えた。
「今の……」
『異界の存在は、死ねば消える。痕跡も残らない』
「そうか……」
俺は、周囲を見回した。
床には、僅かに肉片が残っている。だが、それもすぐに霧となって消えていく。
「なあ、シア」
『何だ』
「お前……加減、してたのか?」
『加減?』
「昨日の異形と、今のモンスター。殺し方が違った」
昨日は、もっと――派手に殺していた。だが今日は、最小限の動きで、確実に殺していた。
『お前が言ったからだ』
「俺が?」
『"殺すなら一撃で殺せ。苦しませるな"と』
ああ、そうか。昨夜、俺がそう言ったんだ。
「守ってくれたのか」
『当然だ。お前の命令だ』
「命令じゃなくて、お願いだったんだけどな」
『同じだ』
シアが、首を傾げる。
『お前が望むことは、私にとって絶対だ』
「絶対……」
『それが、配下の意味だ』
配下。その言葉の重さを、俺は改めて感じた。
「なあ、シア」
『何だ』
「お前、俺の命令なら何でも聞くのか?」
『ああ』
「例えば……人を殺せ、とか?」
『殺す』
即答だった。躊躇もない。
「本気で言ってるのか?」
『本気だ』
シアが、真っ直ぐ俺を見る。
『お前が望むなら、私は世界を壊す』
『お前が望むなら、私は全てを殺す』
『それが――』
シアが、胸に手を当てる。
『名前を与えられた者の、在り方だ』
俺は、ゾクリとした。
この存在は――本気だ。俺が命令すれば、本当に何でもする。善悪も、躊躇も、なく。
「……分かった」
『何がだ』
「お前には、絶対に人殺しを命令しない」
『なぜだ』
「だって、俺は――」
俺は、自分の手を見た。
「人殺しになりたくない」
『お前が殺すわけではない。私が殺すだけだ』
「同じだ」
シアが、黙る。
「お前は、俺の配下なんだろ?」
『そうだ』
「なら、お前がやることは、俺がやることと同じだ」
『――――』
「だから、人は殺すな」
シアが、長い沈黙の後――
『理解した』
そう答えた。
『お前が望むなら、私は人を殺さない』
「ああ」
『だが』
シアが、俺に一歩近づく。
『お前が危険に晒された時は、例外だ』
「例外?」
『お前を守るためなら、私は何でもする』
『人を殺すことも、世界を壊すことも』
その目は、本気だった。交渉の余地がない、絶対の意思。
「……分かった。それは、仕方ない」
『ならば、了承した』
シアが、下がる。
「なあ、もう一つ聞いていいか」
『言え』
「お前、どこまで強いんだ?」
『分からない』
またその答えか。
「全力を出したことは?」
『ない』
「なら――」
俺は、ダンジョンの奥を見た。
「もっと奥に行けば、強い敵がいるか?」
『いる』
「どれくらい?」
『契約者でも、死ぬレベルだ』
契約者でも、死ぬ。つまり、相当危険だ。
「なら、行こう」
『なぜだ』
「お前の限界を知りたい」
俺は、シアを見る。
「お前がどこまでできるか分からないと、俺も動けない」
『……理解した』
シアが、先を歩き出す。
『ならば、奥へ行こう』
『そこには――』
シアが、立ち止まる。
『"核"がいる』
「核?」
『このダンジョンの、中心だ』
ダンジョンを、奥へ奥へと進む。
進むごとに、空気が重くなる。壁の脈動が、激しくなる。そして――
「うっ……」
吐き気がする。
『大丈夫か』
「ああ……何とか」
これが、ダンジョンの深層。世界の法則が、歪んでいる場所。契約者でさえ、簡単には入れない領域。
「なあ、シア」
『何だ』
「なんで、俺は平気なんだ?」
『お前は、世界に定義されていない』
「だから?」
『だから、世界の法則に縛られない』
シアが、前を向いたまま続ける。
『契約者は、契約によって力を得る。だが同時に、契約に縛られる』
『契約は、世界の一部だ。世界の法則に従う』
『だが、お前は違う』
シアが、俺を振り返る。
『お前は、契約の外側にいる』
『だから――』
シアが、僅かに笑う。
『お前は、ここにいられる』
「契約の外側……」
俺は、その意味を噛み締めた。契約適性なし。それは、弱さではなかった。それは――自由だった。
「着いたぞ」
シアの声で、我に返る。
目の前には――巨大な空間があった。天井は見えない。壁も、遠すぎて見えない。ただ、中央に――何かが、いた。
巨大な、肉の塊。いや、肉の塊ではない。それは――生きていた。
無数の目。無数の口。無数の腕。それらが蠢き、呼吸し、脈打っている。
「なん……だ、あれ……」
『ダンジョンの核。このダンジョンを生み出している存在だ』
「あれが……」
『ああ』
シアが、前に出る。
『あれを殺せば、このダンジョンは消える』
「消える?」
『核を失ったダンジョンは、維持できない。崩壊する』
「なら――」
『殺す』
シアが、地面を蹴った。一瞬で、核との距離を詰める。そして――拳を、叩き込んだ。
ドゴォォォォンッ!!
衝撃波が、空間全体を揺らす。核が――悲鳴を上げた。
「ギャアアアアアアアアアアア!!」
それは、音ではなかった。概念そのものが、叫んでいた。
無数の腕が、シアに襲いかかる。だが、シアは――それらを、全て引き千切った。一本、また一本と、腕が宙を舞う。
『弱い』
シアが、呟く。
『これが、核か。期待外れだ』
シアが、核の中心に手を突っ込む。
ずぶずぶと、肉に沈んでいく。そして――何かを、掴んだ。
『見つけた』
シアが、引き抜く。それは――光る球体だった。脈動し、輝き、悲鳴を上げている。
「ギィィィィィィ!!」
『これが、本当の核だ』
シアが、それを――握り潰した。パリン。ガラスが割れるような音。球体が、砕ける。
その瞬間――ダンジョン全体が、崩壊を始めた。
ゴゴゴゴゴゴゴ!!
「うわっ!?」
『掴まれ!』
シアが、俺を抱きかかえる。そして――影に、飛び込んだ。
次の瞬間、俺たちは外にいた。山の中腹。野良ゲートがあった場所。だが、そのゲートは――消えていた。
「消え……た……」
『ダンジョンが崩壊した。ゲートも閉じる』
シアが、俺を降ろす。
「お前……あんな簡単に、核を殺せるのか」
『あれは弱かった』
「弱い……?」
『ああ。浅層ダンジョンの核だ。中層、深層に比べれば、虫けら同然』
虫けら。あれが、虫けら。
「なら……深層の核は?」
『殺せる』
即答。
「どれくらいで?」
『分からない。だが――』
シアが、自分の手を見る。
『時間はかかるだろう』
「時間がかかる……」
それでも、殺せる。この存在は、どこまで強いんだ。
「なあ、シア」
『何だ』
「お前より強い存在って、いるのか?」
『いる』
「どれくらい?」
『七つ』
「七つ?」
『この世界には、七つの"王"がいる』
王。
『世界を統べる、絶対的存在だ』
『私では、勝てない』
「……そうか」
シアでも勝てない存在が、七つ。この世界は、どこまで狂っているんだ。
「その王って、どこにいるんだ?」
『ダンジョンの最深層。人類が到達したことのない場所』
「なら、今は関係ないな」
『そうだ』
シアが、空を見上げる。
『だが、いずれ――』
「いずれ?」
『お前は、王と出会うだろう』
「なんで?」
『お前が、世界を踏み越えようとしているからだ』
シアが、俺を見る。
『世界を踏み越える者は、必ず王と対峙する』
『それが――』
シアが、静かに言った。
『この世界の、ルールだ』
俺は、その言葉の重さを感じた。世界を踏み越える。それは、どういうことなんだ。
「シア」
『何だ』
「俺は……どこに向かってるんだ?」
『分からない』
「分からない?」
『お前が、まだ決めていないからだ』
シアが、俺の隣に立つ。
『だが、私は知っている』
「何を?」
『お前が、どこに向かおうとも――』
シアが、俺を見る。
『私は、お前と共にある』
その言葉に、俺は――何も、言えなかった。ただ、頷くことしかできなかった。
その日の夜。俺たちは、アパートに戻った。
部屋の中で、俺はベッドに座り、シアは壁に寄りかかっている。
「なあ、シア」
『何だ』
「今日、色々あったけど……」
「結局、俺は何をすればいいんだ?」
『お前が、決めろ』
「決める……」
『お前は、契約に選ばれなかった』
『だから、お前は自由だ』
『何をしてもいい。何をしなくてもいい』
シアが、俺を見る。
『ただ――』
「ただ?」
『生きろ』
シアが、静かに言った。
『お前が生きている限り、私もいる』
『お前が死ねば、私も消える』
『だから――』
シアが、僅かに笑った。
『生きろ。それだけでいい』
俺は、その言葉を聞いて――ああ、そうか、と思った。
何も、難しいことじゃない。ただ、生きればいい。契約者じゃなくても。力がなくても。シアがいれば、俺は生きていける。
「分かった」
俺は、笑った。
「なら、生きてやるよ」
「この世界が、どうなろうとも」
『――ああ』
シアが、頷く。
その夜、俺は――初めて、安心して眠ることができた。
シアが、傍にいるから。俺は、もう一人じゃないから。
だが、俺はまだ知らない。この選択が、世界にどれほどの影響を与えるか。そして――俺の隣に立つ存在が、どれほど危険なものか。
それを知るのは、もう少し先のことだった。




