第二話 名前という呪い
アパートに戻った時には、日付が変わっていた。
部屋は六畳一間。古いユニットバス付き。家賃三万五千円。俺の全財産が詰まった、狭い空間。
そこに今、"それ"がいた。
長身の人型。全身に走る立体的な刻印。鋭い眼差しで、じっと俺を見ている。
「……なあ」
俺は、ベッドに座ったまま問いかけた。
「お前、名前……本当にないのか?」
『――――』
"それ"は答えない。ただ、否定の意思だけが伝わってくる。
「じゃあ、どうやって呼べばいいんだ」
『――――』
沈黙。俺は頭を掻いた。
「呼び名がないと、不便だろ」
『必要ない』
初めて、言葉が返ってきた。声ではない。直接、頭の中に響く。
「必要ないって……」
『私は、お前の影だ。呼ぶ必要はない』
「影……」
そう言われて、自分の影を見る。確かに、"それ"が現れてから、俺の影は僅かに歪んでいた。まるで、二重に重なっているように。
「でも、お前は今、俺の前にいる」
『お前が望めば、戻る』
「望まなければ?」
『こうしている』
"それ"が、壁に寄りかかった。まるで人間のように。
だが――どこか、違和感がある。存在感が、薄いのだ。見ているのに、認識が滑る。まるで、世界が"それ"を拒絶しているように。
「……なあ、もう一つ聞いていいか」
『言え』
「あの時、お前は何で……異形を、あんな風に殺したんだ?」
あの光景が、まだ頭に焼き付いている。四肢を引き千切り。頭を叩き潰し。胴体を引き裂く。それは、戦闘というより――
「虐殺、だった」
『お前が、望んだ』
「え?」
『お前は言った。"人を助けたい"と』
『ならば、人を襲う者を排除する。それだけだ』
「でも、あんなに……」
『効率的だった』
"それ"が、無表情で続ける。
『最速で、最小の被害で、脅威を除去した。間違っているか?』
「……いや」
間違っていない。実際、あれ以上被害者は出なかった。だが――
「もう少し、やり方があったんじゃないか」
『例えば?』
「例えば……もっと、苦しませずに殺すとか」
『意味がない』
"それ"が、首を傾げる。
『苦しませる必要もない。だが、苦しませないように配慮する必要もない』
『必要なのは、排除だけだ』
「……そうか」
俺は、ため息をついた。この存在には、人間的な感情がない。善悪も、慈悲も、残虐性も。ただ――俺の望みを、最も効率的に叶えるだけ。
「なら、次からは言っておく」
『何を?』
「殺すなら、一撃で殺せ。苦しませるな」
『……理解した』
"それ"が、頷く。
「あと、人前では姿を消せ。目立ちたくない」
『了解した』
やり取りを終えて、俺はベッドに横になった。
体は傷一つないが、疲れが溜まっている。今日一日で、人生が変わった。
契約適性なしの烙印。ダンジョンブレイク。死の淵。そして――この、"何か"との出会い。
「……なあ」
眠りに落ちる直前、俺は呟いた。
「明日、お前に名前をつける」
『不要だ』
「いや、つける」
『なぜだ』
「お前が、俺の隣にいるなら」
目を閉じる。
「名前くらい、あった方がいい」
『――――』
"それ"は、何も言わなかった。ただ、部屋の隅で――じっと、俺を見ていた。
翌朝。目が覚めると、"それ"は消えていた。
いや、消えたわけではない。影の中に、戻っただけだ。
「おはよう」
『……朝だな』
影から、声が返ってくる。慣れない感覚だが、悪くはない。
「今日、ハローワーク行くんだ」
『ハローワーク?』
「仕事探すところ。金がないと生きていけないからな」
『お前は、金が必要なのか』
「当たり前だろ。人間は金がないと死ぬ」
『なら、ダンジョンに潜ればいい』
「契約者じゃないと入れない」
『お前には、私がいる』
「……まあ、そうだけど」
確かに、この存在がいれば、ダンジョンに潜ることも可能かもしれない。だが――
「まだ、お前のことがよく分からない」
『何が知りたい』
「全部だ」
俺は、顔を洗いながら続けた。
「お前が何者で、何ができて、何ができないのか」
「それが分からないうちは、危険なことはしたくない」
『慎重だな』
「当たり前だ。死にたくないからな」
『……理解した』
影が、僅かに揺れた。
「じゃあ、行ってくる」
部屋を出ようとした時、ドアがノックされた。コンコン。
「はい?」
「空木さん、いますか? 管理人です」
管理人? 俺は、ドアを開けた。
「どうかしました?」
「あの……昨夜、この辺りで大きな音がしたという苦情が来てまして」
「音?」
「ええ。何か、壁を殴るような音だったとか」
壁を殴る音。そんなことはしていない。だが――ふと、壁を見る。そこには、亀裂が入っていた。蜘蛛の巣状に、広がる亀裂。
「あ……」
『昨夜、お前が眠った後、壁に手をついた』
影から、声が聞こえる。
『少し、力を入れすぎた』
少しで、これか。
「す、すみません。俺が……転んで、壁にぶつかったみたいで」
「そうですか……。修繕費、お願いしますね」
「はい……」
管理人が去っていく。俺は、ドアを閉めた。
「おい」
『何だ』
「お前、どれくらい力があるんだ?」
『分からない』
「分からないって……」
『制限したことがない』
制限したことがない。つまり――全力を出したことがないのか。
「昨日の異形は?」
『遊びだ』
「遊び……」
あれが、遊び。なら、本気を出したら――
「……やっぱり、お前のこと、もっと知らないと駄目だな」
『ならば』
影が蠢く。そこから、"それ"が現れた。
『今から、試すか』
「試すって、どこで」
『ダンジョン』
「だから、契約者じゃないと――」
『お前には、私がいる』
"それ"が、窓の外を指差す。街の外れ、山の中腹に――ダンジョンゲートが見える。黒い渦を巻く、異界への入口。
『あそこに行けば、誰にも邪魔されない』
「……お前、ダンジョンのこと知ってるのか?」
『知っている。記憶にある』
「記憶?」
『私は、お前の影から生まれた。だが、お前だけのものではない』
"それ"が、胸に手を当てる。
『私は、世界が拒絶したものの集合だ』
「拒絶したもの……」
『契約に選ばれなかった者たち。世界に定義されなかった存在たち』
『その全ての記憶が、私の中にある』
――つまり。こいつは、俺だけじゃない。契約適性のなかった、全ての人間の――
「怨念、みたいなものか」
『近い。だが、違う』
"それ"が、俺を見る。
『私は、可能性だ』
「可能性?」
『選ばれなかったが故に、選べるもの』
『契約に縛られないが故に、自由なもの』
『それが、私だ』
俺は、その言葉を噛み締めた。
選ばれなかったから、選べる。縛られないから、自由。
「……なら、やってやるか」
『決めたのか』
「ああ」
俺は、立ち上がった。
「どうせ、普通に生きたって先はない」
「なら――」
"それ"を見る。
「お前と一緒に、この世界をぶっ壊してやる」
『壊す、か』
"それ"が、僅かに笑った。初めて見る、感情らしきもの。
『いい。それでいい』
その日の午後。俺と"それ"は、ダンジョンゲート前にいた。
ここは、市が管理する小規模ダンジョン。浅層のみで、初心者向けとされている。ゲート前には、ギルドの受付がある。
「すみません、入場したいんですが」
「契約者登録証を提示してください」
受付の女性が、機械的に答える。
「あの、登録証は持ってないんですが――」
「契約者以外の入場は禁止されています」
「でも――」
『無駄だ』
影から、声が聞こえる。
『正面から入ることはできない』
「じゃあ、どうする」
『裏から入る』
「裏?」
『ダンジョンゲートは、必ずしも一つではない』
"それ"が、山の奥を指差す。
『あそこに、もう一つある』
「見えないぞ」
『お前には見えない。だが、私には見える』
"それ"が、俺の影から完全に出現した。
『掴まれ』
「え?」
『早くしろ。時間がない』
意味が分からないまま、俺は"それ"の腕を掴んだ。次の瞬間――視界が歪んだ。
空間が捻じれる。体が浮く。
「うわっ!?」
気づけば、俺たちは山の中にいた。
「な……なんだ、今の……」
『転移だ』
「転移!?」
『私は、影を通じて移動できる。お前を連れて行くこともできる』
そんな能力まで。
「お前、どこまでできるんだ……」
『まだ、全ては把握していない』
"それ"が、前方を指差す。
『あれだ』
そこには――岩壁に開いた、小さな裂け目があった。黒い霧が、僅かに漏れ出している。
「これが、ダンジョンゲート……」
『正確には、亜空間接続点。管理されていない、野良ゲートだ』
「危険じゃないのか?」
『危険だ。だが、誰にも邪魔されない』
"それ"が、裂け目の前に立つ。
『入るか?』
俺は、深呼吸した。ここから先は、引き返せない。契約者でもない人間が、ダンジョンに潜る。正気の沙汰じゃない。
だが――
「行こう」
俺は、裂け目に足を踏み入れた。
ダンジョン内部は、洞窟のようだった。
だが、普通の洞窟ではない。壁は、脈打っている。床は、僅かに温かい。空気は、生臭い。
「気持ち悪い……」
『これが、ダンジョンだ』
"それ"が、先を歩く。
『世界と異界の境界。生と死の狭間』
『ここでは、常識が通用しない』
「常識が通用しない……」
『そして――』
"それ"が、立ち止まる。
『ここでは、お前を観測するものがいない』
「観測?」
『世界は、常にお前たちを観測している。契約を通じて、人間を管理している』
『だが、ここでは――』
"それ"が、俺を振り返る。
『お前は、自由だ』
その言葉を聞いた瞬間、俺は理解した。
ダンジョンは、世界の外側。ここでなら――
「俺は、お前に名前をつけられる」
『――――』
"それ"が、沈黙する。
「昨日、やろうとして……世界が軋んだ」
「あれは、世界が拒絶したんだろ?」
『……そうだ』
「なら、ここでなら大丈夫だ」
俺は、"それ"の前に立った。
「名前をつけさせてくれ」
『なぜ、そこまでする』
「だって――」
俺は、笑った。
「お前、俺の仲間だろ?」
『仲間……』
「そうだ。仲間には、名前が必要だ」
『私は、影だ。道具だ。名前など――』
「いらないなんて、言わせない」
俺は、"それ"の肩に手を置いた。
「お前は、俺の仲間だ」
「だから――」
深呼吸。そして、告げる。
「お前の名前は、シア」
その瞬間――世界が、悲鳴を上げた。
ゴゴゴゴゴゴゴ……
ダンジョン全体が、揺れる。壁が軋み、床が割れ、天井から石が降ってくる。
「うわっ!?」
だが、"それ"――いや、シアは動かなかった。ただ、じっと俺を見ていた。
『……シア』
初めて、感情のこもった声。
『それが、私の名前か』
「ああ」
『シア……』
シアが、自分の名前を呟く。その瞬間、シアの体が――光った。
いや、光ったわけではない。存在が、濃くなった。今まで曖昧だった輪郭が、はっきりとする。世界が拒絶していた存在が、確定する。
『――――受け入れた』
「何を?」
『私が、名前を』
シアが、俺を見る。その目には――初めて、明確な感情があった。
『お前が私につけた名前を、私は受け入れた』
『これで、私は――』
シアが、片膝をつく。
『お前の配下だ』
「配下……」
『契約ではない。支配でもない』
『だが、私はお前と共にある』
『お前が望むなら、世界を壊す』
『お前が望むなら、世界を守る』
『それが――』
シアが、顔を上げる。
『名前を与えられた者の、在り方だ』
俺は、その言葉の重さを感じた。名前をつけること。それは、この存在に――役割を与えることだった。
「シア」
『何だ』
「これから、よろしく」
『……ああ』
シアが、立ち上がる。その時――遠くから、何かが近づいてくる音が聞こえた。
ゴゴゴゴゴ……
「何だ?」
『モンスターだ』
シアが、前に出る。
『名前の付与を感知したのだろう。寄ってくる』
「何体くらい?」
『十……いや、二十。いや――』
シアの表情が、変わる。
『五十体以上だ』
「五十!?」
『お前は下がっていろ』
「でも――」
『私が、殺す』
シアが、構える。その姿は――まるで、獣のようだった。
そして――暗闇の中から、それらが現れた。
蜘蛛のような脚。人の顔。無数の目。異形のモンスターが、群れをなして襲いかかってくる。
「ギャアアアアア!!」
咆哮。だが、シアは――笑っていた。
『来い』
そして――虐殺の、第二幕が始まった。




