第一話 契約適性なし
検査室の照明が、やけに白い。
俺――空木恒一は、検査台に座ったまま、結果を待っていた。
三度目の契約適性検査。十八歳で一度目。二十歳で二度目。そして今日、二十三歳で三度目。全て、不合格だった。
「……空木さん」
検査官の女性が、タブレットから目を上げた。その表情を見た瞬間、俺は理解した。ああ、今回も駄目だったんだな、と。
「残念ですが……適性値は、0.02。基準値の5.00を大きく下回っています」
「そうですか」
俺は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「あの……三度目ということですので、再検査の権利は――」
「いいです。もう十分ですから」
検査室を出る。
廊下の待合席には、希望に満ちた若者たちが座っていた。きっと彼らの何割かは、契約者になれるんだろう。そして、俺みたいに弾かれる奴もいる。それが、この世界だ。
外に出ると、街は相変わらず賑やかだった。
ダンジョンが出現して二十年。人類は、異常を日常に変えることに成功した。契約者たちがダンジョンに潜り、資源を持ち帰る。その資源で経済が回り、文明が維持される。
一見、うまくいっているように見える。だが――
「また一人、異形化したらしいぜ」
「マジかよ。契約者だろ?」
「ああ。A級だったって話だ。突然発狂して、仲間を食い殺したらしい」
通りすがりの男たちの会話が、耳に入る。
契約者の異形化。最近、増えている。
契約とは、魂を異界の法則に接続する行為だ。力を得る代わりに、魂を差し出す。だが――その代償は、時に予想を超える。魂が耐えられなくなった時、契約者は人間ではなくなる。怪物になる。
「……関係ねえか」
俺には契約適性がない。異形化の心配もない。ただ、力のない人間として生きていくだけだ。
アパートへ向かう途中、コンビニに寄った。レジには、見慣れた店員――田村がいた。
「よう、恒一。検査どうだった?」
「駄目だった」
「そっか……」
田村は気まずそうに目を逸らした。彼は二十五歳で、契約適性検査に全て落ちた側の人間だ。だから、俺の気持ちが分かるんだろう。
「まあ、生きてりゃなんとかなるって」
「……そうだな」
缶コーヒーを買って、店を出る。夕暮れの街を、ゆっくりと歩いた。
その時、空が歪んだ。
いや、正確には――空間が、裂けた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……
地面が揺れる。周囲の人々が悲鳴を上げる。
「なんだ!?」
「地震か!?」
違う。俺は、街の中心部から噴き出す黒い霧を見た。
――ダンジョンブレイクだ。
ダンジョン内部のモンスターが、外に溢れ出す現象。本来、市街地では起こらない。管理体制が機能しているはずだから。だが――
「うわああああああ!!」
「逃げろ! 化け物だ!!」
人々が逃げ惑う。
黒い霧の中から、何かが飛び出してきた。
それは――人の形をしていた。だが、人ではなかった。四つん這いで走り、口からは泡を吹き、目は虚ろに輝いている。異形化した、元人間。
「グルルル……ガアアアアッ!!」
一体、また一体と、霧から飛び出してくる。十体。二十体。いや、もっとだ。
「契約者は!? ギルドに連絡を!!」
誰かが叫んでいる。だが、ギルドの対応は間に合わない。
目の前で、異形が女性に飛びかかった。ガブリ、という音。首に食らいつく。
「ぎゃあああああああっ!!」
血が噴き出す。女性が倒れる。異形は、まだ食っている。喉を。肩を。腕を。むしゃむしゃと、まるで果物を齧るように。
「ひっ……」
俺の隣にいた男が、腰を抜かした。異形が、そちらを向く。血まみれの口で、笑った。
「ア……アハ……ニンゲン……オイシイ……」
言葉を話す。だが、それはもう人間の言葉ではなかった。
異形が、男に向かって走り出す。男は動けない。
――動け。
体が勝手に動いた。俺は男を突き飛ばし、代わりに異形の前に立った。
「――なっ」
異形の爪が、俺の腹に突き刺さる。ぐちゅり。
「が……っ」
痛みが、全身を駆け巡る。視界が、赤く染まる。
異形が、俺の腹に刺さった手を引き抜く。ずるり。内臓が、一部引きずり出される。
「あ……ああ……」
倒れる。地面が冷たい。空が、やけに青い。
――ああ、死ぬんだな。
契約者にもなれず。力も持たず。ただの人間として、ここで終わるんだな。別に、悪くない最期だ。少なくとも、誰かを庇って死ねたんだから。
視界が暗くなる。異形が、俺の首に手をかけた。
――さよなら。
そう思った瞬間。世界が、止まった。
静寂。完全な、静寂。
異形の動きが止まっている。逃げる人々も止まっている。噴き出す黒い霧も止まっている。全てが、静止していた。
『――――』
声が、聞こえた。いや、声ではない。概念が、直接頭に流れ込んでくる。
『未定義座標。観測不能点。規定外存在』
目の前に、"何か"がいた。
光でできている。いや、影でできている。人の形をしているが、人ではない。それは――俺を見下ろしていた。
『名を持たぬ者。契約に選ばれぬ者。世界に定義されぬ者』
「……なん、だ……お前……」
声が、掠れる。腹の傷が痛い。だが、"それ"は構わず続ける。
『お前は、エラーだ』
エラー。
『世界が、お前を分類できない』
『契約システムが、お前を認識できない』
『お前は――存在してはならない』
「……そう、か」
俺は、笑った。
「やっぱり、俺は……間違いだったんだな」
『だが』
"それ"が、手を伸ばしてくる。
『それゆえに――お前は、選べる』
「選ぶ……?」
『契約ではない道を』
『支配ではない繋がりを』
『世界が、拒絶する在り方を』
光が、俺を包み込む。
『問おう。お前は、生きたいか』
「……ああ」
俺は、答えた。
「生きたい。まだ、死にたくない」
『ならば』
"それ"が、俺の影に手を触れた。
『お前の影から、"それ"が来る』
影が、蠢いた。
ぐにゃりと歪み、盛り上がり――何かが、這い出してきた。
世界が、動き出す。異形の爪が、俺の首を掴む――はずだった。
「――――!?」
異形の動きが、止まった。いや、止められた。俺の影から伸びた"腕"が、異形の首を掴んでいた。
「グ……ガ……ア……」
異形が、悲鳴を上げる。だが、その腕は離さない。ゆっくりと、力を込める。
メキメキメキ……
首の骨が軋む音。
「ギャアアアアアアッ!!」
最後の悲鳴。そして――ぐしゃり。首が、潰れた。異形が、灰のように崩れ落ちる。
俺の影から、"それ"が完全に現れた。
長身。均整の取れた体躯。全身に走る、立体的な刻印。そして――鋭い眼差し。それは、俺を見下ろしていた。
『――――』
声はない。ただ、意思だけが伝わってくる。
――お前が、私を呼んだのか。
「……お前は」
俺は、血を吐きながら問う。
「何者だ?」
『――――』
"それ"は答えない。ただ、俺の前に――跪いた。まるで、騎士のように。いや、違う。これは、忠誠ではない。これは――
「契約、じゃ……ない、のか……?」
『――――』
"それ"が、俺の腹の傷に手を触れる。途端、痛みが引いていく。傷が、塞がっていく。
「なん……だと……」
立ち上がる。
腹には、もう傷がなかった。ただ、血まみれの服だけが、先ほどの出来事を証明している。
周囲を見回す。異形は、まだ暴れていた。人々を襲い、食い、殺している。
「止めないと……」
『――――』
"それ"が、俺を見る。その目は、問いかけていた。
――お前は、何を望む?
「助けたい……人を、助けたい……!」
俺がそう叫んだ瞬間。"それ"が、動いた。
速い。いや、速いという次元ではない。瞬間移動のように、"それ"は異形の群れの中に現れた。
そして――虐殺が、始まった。
一体目。腕を引き千切る。
二体目。頭を掴み、地面に叩きつける。
三体目。胴体を真っ二つに引き裂く。
血が、飛び散る。肉片が、舞う。悲鳴が、響く。
「ギャアアアア!!」
「グルル……ガ……ア……」
「タスケ……タスケ……」
異形たちが、逃げようとする。だが、"それ"は容赦しない。一体残らず、殺していく。
俺は、その光景を――呆然と見ていた。
「なん……だ……これ……」
これは、救済なのか。それとも――
ふと、視界の端に何かが映った。金色の光。それは、遠くの空から降り注いでいた。
光の中に、"何か"がいる。人型。だが、人ではない。光の翼を持ち、表情のない顔で――こちらを見下ろしている。
『――警告』
声が、頭に響く。
『未定義座標に告ぐ』
『お前の存在は、世界秩序の例外である』
『これ以上の逸脱行為は、観測不能領域の拡大を招く』
『速やかに――』
その言葉が、途切れた。俺の前に、"それ"が戻ってきていた。全身、血まみれで。そして――金色の光を、睨んでいた。
ただ、睨んだだけだ。それだけで――光の存在は、後退した。
『……観測継続。記録。報告。以上』
光が、消える。
気づけば、異形は全滅していた。
周囲には、ギルドの契約者たちが到着していた。
「なんだこれ……全滅してる……」
「誰がやったんだ?」
彼らは、俺たちに気づいていない。いや――気づけないのかもしれない。
「なあ」
俺は、目の前の存在に問いかけた。
「お前は、何者なんだ?」
『――――』
答えはない。ただ、"それ"は――静かに俺の隣に立った。対等な位置に。
「……名前は?」
『――――』
ない、という意思が伝わってくる。
「なら……俺が、つけてやる」
その言葉を口にした瞬間。世界が――僅かに、軋んだ。
空間が歪む。遠くで、何かが崩れる音がした。だが、俺は構わず続けた。
「お前の名前は――」
その瞬間、俺の視界が真っ白に染まった。そして――頭の中に、大量の情報が流れ込んできた。
契約。世界。秩序。崩壊。
そして――俺が、これから踏み越えようとしているものの正体。
「あ……ああ……」
膝をつく。吐きそうになる。だが――俺は、笑っていた。
「そういう、ことか……」
世界は、すでに壊れている。契約システムは、延命措置に過ぎない。そして俺は――その延命措置からも、弾かれた存在。
「なら、いいじゃないか」
立ち上がる。"それ"を見上げる。
「俺は、お前と共に――この世界を、踏み越えていく」
『――――』
"それ"が、初めて――僅かに、笑った気がした。
空木恒一。二十三歳。契約適性なし。
彼の人生は、この日から変わった。契約者として、ではなく。契約そのものを、否定する存在として。
そして、その隣には――名前を持たない、世界の例外が立っている。
これは、救済の物語ではない。世界が、選択を放棄するまでの記録である。




