プロローグ
赤い。
視界の全てが、赤かった。 深淵のように濃い色が、俺の意識を引き裂いている。
――これは、何だ。
身体はまだ思うように動かない。 だが、確かな感覚だけは残っていた。
熱と鉄の匂い。 乾きかけた血の気配。 そして、崩れた肉片。
俺はダンジョンの最深部で目を覚ました。
壁や床を埋め尽くすのは、ただの死体ではない。 肉と骨、血痕が無秩序に貼り付けられた光景は、もはや惨劇という言葉すら生温い。
「……ぐ……ぐ……」
掠れた声が耳に届く。 壁際で震えているのは、生存者……か。
だが、その姿は人の形を成していなかった。 両腕は折れ、片目は潰れ、下半身は動かない。 それでも、生きようとするように必死に声を絞り出している。
――契約者だ。
生きるために魂を差し出した、哀れな存在。 異界の法則と引き換えに力を得るが、その代償はあまりにも重い。 契約が崩れた瞬間、力だけでなく存在そのものが消える。
そのとき、空間を震わせるような低い音が響いた。
『お前たちは、何を求めてここに来た?』
それは人間の言葉ではない。 音ではなく、意味そのものが脳裏に直接叩き込まれる。
「ち、力が……ほしくて……」
震える声が答えた、その直後だった。
右腕が、音もなく爆ぜる。
「――あああああああっ!!」
悲鳴は、すぐに途切れた。
『力か。下らぬ』
冷え切った声音が続く。
『契約。魂の取引。対価と引き換えの力。 人間はそれを進化と呼ぶ』
だが――それは進化ではない。
『それは、延命だ』
人でも魔物でもない、“観測者”のような存在は、契約者の頭を掴んだ。 骨が軋む音が、静かに響く。
「やめ……やめてくれ……。 俺は……ただ……生きたかっただけなんだ……!」
『ただ?』
「世界が壊れていくのが……怖くて……!」
その叫びに、それは淡々と告げる。
『ならば、教えてやろう』
力が込められ、頭蓋が潰れる音が床にこだました。
『世界はすでに――壊れている』
それは、何事もなかったかのように歩みを進める。
その背後で、何かがゆっくりと立ち上がった。
両腕を失い、目のない顔で笑う元契約者。
「アハ……アハハ……世界ガ……壊レテル……」
異形と化したそれは、言葉を吐きながらダンジョンの出口へと走り去る。
それは振り返らず、ただ呟いた。
『始まる。 世界の終わりではない。 世界が終わり方を選べなくなる、その時が』
――同じ頃、地上でも異変が起きていた。
国家管理局・契約者記録部門。 巨大なモニターの前で、職員たちは凍りついていた。
「これ……バグ、ですよね?」
表示されているのは契約者データベース。 約三十万人分の契約者情報が記録されているはずだった。
だが、そのいくつものデータが黒く塗りつぶされている。
名前:■■■■ 年齢:■■ 契約内容:〖ERROR〗 位階:〖観測不能〗 危険度:〖――――〗
「先輩! こっちもです! 三件、五件……十件以上!?」
黒く塗りつぶされたデータは増え続け、モニターは一斉にブラックアウトした。
暗闇に、一行の文字が浮かぶ。
〖世界は、お前たちを観測できなくなる〗
悲鳴が上がり、都市の中心部で警報が鳴り響く。
「第七区、ダンジョンブレイク発生。 制御不能。被害甚大――」
だが、このときの俺はまだ知らない。
この異変が、自分自身と深く結びついていることを。
空木恒一――二十三歳。 三度目の契約適性検査、不合格。 平凡で、何の取り柄もない男。
世界が俺を観測不能なエラーと認定した、その瞬間。
すべては、ここから始まった。




