第66部:『神の使徒』と、迷える二人の少女
『聖戦』
セントラルシティの歴史書には、こう記されている。 『我らは、カオスの脅威から文明を守るため、聖なる戦いに挑んだ』と。
だが、その実態は、聖書を片手に行われた強盗行脚に過ぎなかった。
かつて、ヘスティア教団は**『聖戦』**を提唱した。 それは、周辺の地下空洞に住むア人種(亜人種)の集落を「カオスの温床」と断定し、武力で制圧する侵略戦争であった。 彼らが求めたのは、教義の純粋性ではない。ア人種が守っていた水源、鉱脈、そして労働力としての「肉体」である。
神官たちは、兵士たちにこう説いた。 「異教徒の財を奪うことは、悪しき力を神の御元へ還す『浄化』である」と。 虐殺は「救済」と呼ばれ、略奪は「奉納」と呼ばれた。 そうして積み上げられた他種族の血と財宝の上に、今のセントラルシティの繁栄は築かれている。
そして、その「戦利品(ア人種)」の扱いを巡り、教団は二つの狂気に分裂した。
**原理主義『ムローニ派』**は叫んだ。 「汚らわしいカオスは根絶やしにせよ」。彼らにとって、略奪した資源は清めるべきものであり、異種族は殺し尽くすべき対象だった。それは、殺戮こそが敬虔さであると信じる狂気だ。
**拡大主義『アッサー派』**は嗤った。 「殺すなど勿体ない。家畜として飼い慣らせ」。彼らは異種族を「生ける資源」として首輪をつけ、死ぬまで搾取する道を選んだ。それは、他者の尊厳を踏み躙ることを経営と呼ぶ狂気だ。
殺して奪うか、生かして奪うか。 『聖戦』の果てに残ったのは、信仰心などではない。 肥え太った神官と、二通りの地獄だけだった。
【視点:スズ】
あの日、あの神官との対話から、優作という男は変質した。
いや、脱皮したと言うべきか。
数時間前の、教会の広間。
あの時、神官は優作にこう懇願していた。
「カオスの子、ハチを討伐してください。……いつまでも教会でくつろいでいないで、一刻も早く。現場は混乱し、民は怯えているのですから」
神官にとっては、ただの催促だったのだろう。
だが、その言葉が引き金だった。
優作は、食事の手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、感情の色が一切なかった。
「……くつろぐ?」
優作は静かに立ち上がると、懐へ手を伸ばした。
足音もなく神官へ歩み寄る。
「ヒッ……ゆ、優作さ――?」
ドスッ。
鈍く、湿った音が響いた。
優作が懐から抜き放った護身用のナイフが、神官の左胸――心臓の位置へ、正確に、深々と突き立てられていた。
「ガ、ぁ……」
神官は、驚愕に目を見開いたまま、悲鳴を上げることもできず、ガクリと膝を折った。
優作は無表情のままナイフを引き抜く。
鮮血が飛沫となってテーブルクロスを汚し、神官の体は糸が切れた人形のように床へ崩れ落ちた。
「……お前たちは、神の使徒である私が『休息』を取ることを、無駄だと断じるのか?」
血濡れのナイフをぶら下げたまま、優作は残された神官たちを見回した。
「神の思考を、神の所作を、人の物差しで測り、急かすなど……。それが『信仰』か? お前たちが信じているのはヘスティア様か? それとも自分たちの保身か?」
広間は、凍りついたような沈黙に支配された。
それは、優作が「恐怖」によって、この場の主導権を完全に掌握した瞬間だった。
そして今。客室。
「……いいか。お前たちは、何も言うな」
血を拭い、服を着替えた優作は、私たちにそう告げた。
その声には、いつものような迷いも、卑屈な震えもなかった。あるのは、凍りついた湖面のような、底の知れない静寂だけだ。
「ここから先、お前たちは何もするな。俺がすべて解決する。この件を片付け、またみんなで旅しよう」
優作は、用意されていた豪奢な椅子に座ることもなく、立ったまま私たちを見下ろした。
「ルカ、お前は『慈悲の使徒』だ。その歌声で民衆を癒やし、ただ微笑んでいればいい。スズ、お前は『戦神の使徒』だ。ルカの護衛に専念し、決してこちら側には関与するな」
「……優作。お前は、何を考えている?」
私が問いただしても、彼は視線を合わせない。
ただ、窓の外に広がる復興途中のセントラルシティを、無感情に見下ろしている。
「俺に任せろ。……お前たちはそこにいればいい。それだけだ」
「話し合おう。私たちも戦える」
「いや、これは戦いじゃない。『演出』だ。」
優作はそれ以上語らず、踵を返して部屋を出て行った。
拒絶だった。
完全に、私たちを自分の「領域」から締め出したのだ。
部屋に残された私とルカの間に、重苦しい沈黙が流れる。
「……行っちゃったね」
ルカが、ぽつりと呟いた。
彼女が纏っているのは、教会があつらえた純白のドレスだ。優作が言うところの『慈悲の使徒』にふさわしい、清廉潔白な装い。
だが、その表情は泣き出しそうに歪んでいる。
「……優作が、刺した時」
ルカが震える声で、独り言のように吐き出した。
「正直、ショックだった。優作は、おじさんだけど、ダメな人だけど……優しい人だと思ってたから」
私は黙って彼女の言葉を待つ。
「竜族の尋問だって、子供には見せられないって自分で引き受けてくれた。私たちを救うために、何度もボロボロになって、命を落として……。そんな人が、ただ『気に障った』みたいな顔で、人の命を奪うなんて」
ルカは、自身のドレスの裾を強く握りしめた。
「私、わかんないよ。コンテナ・ツリー(故郷)にいた頃は、もっとシンプルだった。生きるか、死ぬか。奪うか、奪われるか。邪魔な敵を切り捨てることに、罪悪感なんてなかった。そうしなきゃ、トキもコウも守れなかったから」
「……ああ」
「でも、今は違う。この地底世界には、豊かな水がある。美味しい果物がある。『死』から離れて、『生き方』を選べる余裕がある。……本当は、みんなと仲良く生きたい。殺し合いなんて大嫌いだ。歌を歌って、それが誰かの心に届いて……そんな世界で生きていきたいのに」
ルカの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「でも、私がその『夢』を見られるのは、誰かが泥をかぶってくれているからだよね。優作が、神官を殺してくれたから。優作が『悪』を一手に引き受けて、私たちに『綺麗な役』を押し付けてくれているから」
「……」
「ズルいよ、優作。私、最近思うんだ。心が、どんどん子供に戻っちゃってる気がする。あの乾いた荒野にいた時のほうが、もっと割り切った、大人びた判断ができていたのに……。今の私は、生き死にに責任を持つ覚悟も持てないまま、優作に守られてるだけだ」
ルカの苦悩は、痛いほど理解できた。
そしてそれは、私自身の迷いでもあった。
正義とは何か。
自分のすることに、正当性はあるのか。
私は深く考えてこなかった。いや、考える必要がなかった。
私の十八年の人生で、生存のための理屈は環境によって書き換えられ続けてきたからだ。
食料を奪い合い、多くを得た者が唯一の勝者だった時代。そこでは、人を騙し、奪う者が強者だった。
次に、集団による生存の時代。自分の欲望を殺し、平穏に生存することを第一とする時代。そこでは、和を乱す者は排除された。
善悪などなかった。ただ「生存」という結果だけがあった。
だが今、突きつけられている「善」とは何だ?
優作の行いは「悪」か? だが、それによって私たちは守られている。
(……迷うな)
私は、腰の刀の柄に触れた。その冷たい感触だけが、私の拠り所だった。
私には、自分を守る術がある。迷わない術がある。
それは「剣の道」だ。
世界がどれほど荒廃しても、私は訓練を怠らなかった。その剣を追求する過程において、善も正義も意味をなさない。ただ、刃を研ぎ澄ますこと。
これが、私の核だ。死んでも守る。それが、私の心を唯一守る術だと知っている。
そんな中、優作は「神」になろうとしていた。
どちらかの勢力を大虐殺することになるかもしれない「戦争」へ、たった一人で向かおうとしている。
「……優作は、私たちを巻き込みたくないんだ」
私はルカに告げる。
「自分だけが泥を被り、私たちを『綺麗な神輿』として祭り上げるつもりだ。……あの男らしい、卑屈で独りよがりな自己犠牲だ」
「いい意味でも悪い意味でも、あいつには『自分』がない」
私は自分自身の迷いを断ち切るように、言葉を紡いだ。
「だからこそ、一度『役』に入り込むと、ブレーキが効かない。……今のあいつは、『冷徹な神の代行者』を完璧に演じようとしている。そのためなら、誰の心臓だろうが、何千人の命だろうが、平気で貫くぞ」
「……止めなきゃ」
ルカが顔を上げ、強い瞳で私を見た。
「優作が、戻ってこれなくなる前に」
「ああ。だが、正面から説得しても無駄だ。あいつは今、耳を塞いでいる」
私は腰の刀に力を込めた。
優作は私を『戦神の使徒』と呼んだ。ルカを『慈悲の使徒』と呼んだ。
ならば、その役割を利用してやるまでだ。
私は、テーブルの上に置かれた豪奢な招待状――教会宛に届いていた正規のもの――を指先で弾いた。
これは、優作が「俺たちには関係ない」とばかりに放置していったものだ。
「だから私たちは、このカードを使う。『教会からの正規の使節団』として、堂々と正面から乗り込む」
「えっ……」
「『神の使徒』としてではなく、ただの『演者』としてだ。祝賀の演奏と、演武の披露。……名目はどうとでもなる。正体を隠し、あくまで教会の招待枠として紛れ込むんだ。神官どもは恐怖で支配されているから、私たちが命じれば手続きくらいすぐにやるはずだ」
「ルカ。連携をとるぞ。……優作抜きで、私とルカ、二人だけで動く」
「うん。……どうするの? 優作に何も言わないの?」
ルカが不安げに尋ねる。
「ああ、言わない。言ったら止められる」
私は、窓の外、街の中心部にそびえる『新国王の城(旧行政区)』を睨みつけた。
「あいつの狙いは『ハチ』だ。そして、今夜セントラルシティで最も警備が手薄になり、かつハチに近づける『舞台』は一つしかない」
「……『新国王』の就任パーティ?」
「そうだ。優作のことだ。まともな手順なんて踏むはずがない。おそらく、招待状もなしに、コソコソと裏口からドブネズミのように忍び込むつもりだろう」
互いの思いが交錯し、すれ違いが始まる。




