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『異世界人間失格 ~スキル【批評】持ちの独白~』  作者: 猫寿司
【第三章:あるいは、私という人間の泥濘(ぬかるみ)】

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(道場という名の『異界』)

最終部:『自衛』という名の拳

(※高三の梅雨時、Kに泥水の中で頭を踏まれ、自殺を決意した夜……)


(……これだ) 自殺しようと思っていた、冷え切った脳が、急速に熱を帯びていく。 (死ぬのは、まだだ) (俺は、Kが怖い。Kの「暴力」が、怖いんだ) (だが、もし、俺が、あの「力(ヒーローの蹴り)」を手に入れたら?)


ヒーローになりたいんじゃない。 ただ、自衛だ。 二度と、あんなふうに、泥水をすすり、頭を踏みつけられないために。 俺が、俺の「鎧(小説)」を守り抜くために、最低限の「武器」が要る。


(道場という名の『異界』)


翌日、私は、新聞の折り込み広告で見つけた、近所の「実戦空手道場」の門を叩いた。 高三の夏。受験勉強など、ハナから捨てている私には、時間だけがあった。


道場のドアを開けた瞬間、私は、自分がとんでもない場所に来てしまったと後悔した。 汗と、湿布と、獣のような熱気が入り混じった匂い。 そこにいたのは、私のような高校生ではなく、仕事終わりの作業着を脱いだばかりのような、ゴツイ体の「大人」たちだった。 皆、私より一回りも二回りも年上の、社会人。 その中で、洗っても落ちない泥で汚れた跡がある薄汚い制服のまま見学に来た私は、あまりにも場違いだった。


押忍オス!」 腹の底から響く怒号。 私は、卑屈さが染み付いた体で、ビクリと肩を震わせた。 (……無理だ。帰ろう) そう思った時、あの、Kに頭を踏みつけられた、泥水の「感触」が、首筋に蘇った。 (……ここで帰ったら、俺は、明日、本当に死ぬ(自殺する))


私は、震える声で「……お願いします」と頭を下げた。


(ローキックという名の『執念』)


道着に袖を通した。 自殺念慮という、常軌を逸した「熱」だけが、私を突き動かしていた。 私は、週に五日、学校が終わると、あの「異界(道場)」に通い詰めた。


運動神経が鈍い私は、当然、全てがダメだった。 基本稽古では、手と足が一緒に出る。 型は、覚えられない。 そして、組手スパーリング


「かかってこい、ガキ!」 相手は、私より頭一つ小さいが、鋼のように硬い体をした、運送業の男だった。 私は、Kへの恐怖と同じように、ただ、うずくまって殴られた。 「声出せやァ!」 「そんなんで、何しに来たんだ!」


殴られる。蹴られる。 だが、それは、Kの「陰湿な暴力」とは、まったく違った。 そこには「ルール」があり、「敬意(押忍)」があった。 そして何より、彼ら(大人たち)の拳は、Kのそれより、遥かに「速く」、遥かに「重かった」。


私は、殴られながら、あの、泥水の中で芽生えた「決意」を反芻はんすうした。 (死ぬ気で、来たんだ) (死ぬより、マシだ)


私は、憧れた「ハイキック(ヒーローの蹴り)」を、早々に捨てた。 あんな、映画の主人公のような大技は、私には無理だ。 私の「批評眼」が、そう判断した。


私が選んだのは、ただ一つ。 道場で師範代が「基本だ」と繰り返していた、地味で、しかし最も破壊力があるという「下段蹴り(ローキック)」だった。


(これだ) (Kの、あの憎らしい「野球部の足」を、叩き折るための技だ)


週五日。私は、狂ったようにローキックだけを練習した。 稽古が終わった後も、一人だけ道場に残り、ボロボロになったサンドバッグを蹴り続けた。 汗が目に入り、涙か汗か分からない液体が、頬を伝った。


(……一発目) サンドバッグに、Kの顔を思い浮かべる。 「ぐあッ!」という、Kの声を幻聴しながら、蹴る。 (……二発目) サンドバッグに、B君を裏切った、あの日の「私」を思い浮かべる。 「死ね!」と、自分を罵倒しながら、蹴る。 (……三発目) Sを裏切った、あの卑屈な「私」を。 F子の消しゴムを拾えなかった、あの情けない「私」を。


私は、私自身への「憎悪」と、Kへの「殺意」にも似た「怒り」の全てを、そのローキックの一点に込めた。


半年。 素人が、半年で変われるはずがない。 だが、私は「自殺する」はずだった人生の、その全ての残り時間を、ローキックだけに「没頭」させた。 「大人」たちは、そんな私の狂気じみた練習を「根性がある」と勘違いし、あるいは「面白いガキだ」と、時に組手の相手をし、時に的確なアドバイスをくれた。 私の卑屈な「批評眼」は、彼らの「本物の動き」を、スポンジのように吸収していった。


(……Kの突きは、脇が開いている) (……Kの踏み込みは、体重が乗っていない) (……Kの「暴力」は、俺が道場で浴びている「空手」に比べれば、児戯じぎに等しい)


私は、もはやKを「恐れて」はいなかった。 ただ、軽蔑し、分析し、そして、いつかこの「ローキック」を叩き込む「まと」としてしか、見ていなかった。


(小さな「兆し」と、複雑な「感情」)


卒業を間近に控えた、冬の日だった。 廊下で、Kが、また、いつものように私の肩を、わざとらしく突き飛ばしてきた。 「おっと、ワリイ。まだ生きてたのか、キモいの」 半年ぶりに向けられる、あの「王」の、侮蔑の視線。


いつもなら、私は「す、すいません」と謝りながら、よろめいているはずだった。 だが、その時。


私の足は、床に根を張ったように動かず、Kの力を、肩で受け止めていた。 Kの方が「お?」という顔で、バランスを崩していた。


(……遅い) 私は、感じていた。 Kの、無駄な力みに満ちた、素人の「暴力」が、あまりにも「遅く」見えた。 道場の「大人」たちが放つ、もっと速く、もっと重い「突き」を、私はこの半年、浴び続けてきたのだ。


Kは、プライドを傷つけられた顔で、私を睨みつけた。 「……チッ。キモいのが、調子乗ってんじゃねえよ」 彼は、もう一度、今度は本気で、私を突き飛ばそうと腕を振り上げた。


その瞬間。


私の左足が、勝手に、動いていた。 道場で、B君の顔を思い浮かべながら、Kの太ももをイメージしながら、来る日も来る日も蹴り込み続けた、「下段蹴り(ローキック)」だった。


ゴッ! 鈍い音が、廊下に響いた。


Kは「ぐあッ!」という蛙が潰れたような声を上げ、その場に崩れ落ち、太ももを押さえて悶絶もんぜつしていた。 私は、彼を、冷ややかに見下ろしていた。


……時間が、止まった。 周囲の生徒たちが、信じられないという顔で、私と、崩れ落ちた「王」を、交互に見ている。 私は、自分の右足……いや、左足に残った、生々しい「感触」に、震えていた。 骨に響く、鈍い衝撃。 Kの、あの屈辱的な「暴力」の象徴であった肉体を、俺の「暴力」が、貫いたのだ。


(やった) (俺が、やったんだ)


腹の底から、熱い何かがせり上がってくる。 強烈な「高揚感」だった。 中学時代から、俺を支配し続けた「暴力」への恐怖。Kに頭を泥水に踏みつけられた、あの絶対的な「屈辱」。 それが今、急速に引いていく。


(見たか) (これが、俺の「力」だ)


俺は、あの夜テレビで見たヒーローの「ハイキック」ではないが、確かに、この半年間「奮闘」して手に入れた「力」で、このクソみたいな現実を、ねじ伏せたのだ。 これは、紛れもない「達成感」だった。 私は、初めて、逃げなかった。


だが、同時に。 私は、周囲の視線が「侮蔑(Kへ)」から、私への「恐怖(得体の知れないモノを見る目)」へと変わっていくのを感じていた。 (……やめろ) (そんな目で、俺を見るな) 私は、自分の足が、まだ小刻みに震えていることに気づいた。 「高揚感」とは別の、「恐れ」だった。


(……俺は、何をした?) (俺は、殴られた。だから、蹴り返した) (それは、Kが俺にしてきたことと、一体、何が違うんだ?)


この「戸惑い」が、せり上がってきた熱を、急速に冷ましていく。 (……ああ、結局、これか) (結局、俺がどれだけ「感性(作文の賞)」を誇ろうが、太宰を読んで世界を「分かった」気になろうが、この現実を動かすのは、より強い「暴力」でしかないのか)


俺が求めていた「小説」や「批評」は、この現実の前では無力だった。 俺が憧れた「ヒーロー(正義)」は、ただの「暴力(空手)」でしか、体現できなかった。 俺は、Kを、俺が一番軽蔑していた「暴力」で、屈服させてしまったのだ。


この「空手」による自衛は、私にとって、初めて現実をねじ伏せた「達成感」と、恐怖から解放された「希望」の兆しだった。 だが、同時に、私の本質(口先だけの批評家)とは、決定的に「向いていない」と自覚させられる、苦い、苦い「勝利」でもあった。


高校を卒業する時、私の手元には、「最底辺」の卒業証書と、他人を見下すための「小説(感性)」、そして、他人を物理的に排除するための「空手(暴力)」という、ちぐはぐな武器だけが、残っていた。 私の「卑屈さ」は、Kを倒したという事実によって、ほんの少しだけ形を変えながらも、何一つ、変わらないままだった。

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