第61部:温泉と食事の町への旅路
I. 湯煙の彼方へ
レーテを後にした優作たちの足取りは、決して軽やかではなかった。
あの「歪な楽園」の空気に長く触れていることへの生理的な拒否感が、彼らを急き立てていた。
馬車は、地底世界の荒野をひた走る。目指すは、ヘスティアがいるとされる「科学都市」。
だが、馬車の御者台に座る優作の様子が、明らかにおかしかった。
「……ふふっ」
不意に、乾いた笑いが漏れる。
「優作? どうした?」
スズが心配そうに声をかけると、優作はハッとしたように顔を上げ、今度は急に沈み込んだ表情になる。
「……いや、なんでもない。ただ、マユって呼ばれてたウサギ……あいつ、幸せそうだったなって……」
そう呟いたかと思うと、優作の目から、ツーっと涙がこぼれ落ちた。
「え!? 優作、泣いてるの!?」
ルカが慌てて覗き込む。
「あ? ……あれ、なんだこれ。目にゴミが入ったかな」
優作は乱暴に涙を拭うが、その手は震えていた。
『……限界だね』
ピュティアが、優作の寝顔を見ながら、スズとルカにだけ聞こえるように囁いた。
「限界? 優作がか?」
『うん。オルフェウスでのハチの件、そして今回のレーテでの嘘と罪悪感。……優作の精神は、もうキャパシティを超えてるよ』
『彼は「汚れ役」を演じてるけど、中身はただの繊細なオジサンだからね。このままだと、科学都市に着く前に心が壊れちゃうかも』
スズは、優作の寝顔を痛ましそうに見つめた。
「……そうか。私たちは、こいつに甘えすぎていたのかもしれないな」
ルカも、不安そうに眉を寄せる。
「優作……。ねえ、ピュティア。どっかで休めないの? このままじゃ優作が可哀想だよ」
『……あるよ。ちょうどいい場所が』
ピュティアが地図データを展開する。
『ここから少しルートを外れるけど、地熱を利用した保養地があるんだ。昔、地上の富裕層が秘密で作らせた、温泉と美食の町……通称「湯源郷」』
「温泉!? お風呂に入れるの!?」
ルカが目を輝かせる。
「食事も……まともなものがあるのか?」
スズも、喉を鳴らす。
『あるよ。地底湖の魚や、地熱栽培の野菜を使った料理がね。……何より、そこのお湯には、精神を安定させる「成分」が含まれている。今の優作には、絶対に必要な処置だね』
優作が目を覚ますと、馬車の進路が変わっていることに気づいた。 「おい、こっちは科学都市じゃないぞ……?」 「ああ。少し寄り道だ」 スズが、短く答える。彼女は最初から御者台に座り、慣れた手つきで手綱を操っていた。 優作は、隣でぼんやりと揺られていただけだったが、その顔色は土気色で、今にも倒れそうだった。
「お前は後ろで寝ていろ。……リーダー命令だ」 「は? 俺がリーダーだろ……」 「今の顔色の悪いリーダーになど、命は預けられん。……少しは休め、馬鹿者」
スズの不器用な優しさに、優作は反論する気力を失い、大人しく荷台に転がった。
揺れる馬車の中で、優作は泥のように眠った。夢には、もう誰も出てこなかった。
II. 桃源郷の賑わい
馬車が長いトンネルを抜けると、湿った空気と共に、むせ返るような硫黄の香りと、甘い食べ物の匂いが流れ込んできた。
目の前に広がったのは、巨大な地下空洞を極彩色に染め上げる、異界の絶景だった。
「うわぁ……! すっごい!」
ルカが歓声を上げる。
そこは、地底湖から汲み上げられた湯気が雲海のようにたなびく中、幾重にも重なる赤い提灯が、まるで龍の鱗のように連なり、闇を照らしていた。
木造の巨大な宿屋や商店が、複雑怪奇に増築を重ねて崖に張り付くようにそびえ立ち、その間を縫うように無数の橋や階段が入り組んでいる。
現実離れした色彩と、圧倒的な熱気。地底世界とは思えない極楽浄土が、そこにあった。
街全体が巨大な温泉街であり、同時に巨大な市場でもあった。
狭い路地の両側には所狭しと屋台が並び、香ばしい匂いと活気が溢れている。
優作たちは、その賑わう屋台通りを練り歩いた。
「へいらっしゃい! 新鮮な地底マグロだよ!」
威勢のいい声に足を止めると、そこでは巨大な魚の解体ショーが行われていた。
2メートルはあろうかという巨大魚を、店主が巨大な包丁一本で見事にさばいていく。
「ほう……」
スズの目が輝いた。
「こんな大きい魚がいるのか……。なにより、あの包丁さばき。骨の継ぎ目を的確に断ち切っている。『切る』ということにおいては、あの店主も達人だな」
武人としての視点で料理人を評価するスズの横顔は、久しぶりに生き生きとしていた。
ルカはと言えば、屋台から流れてくる異国情緒あふれる音楽に酔いしれていた。
「へえ、面白いリズム! 地上じゃ聞いたことないよ!」
彼女は串焼きを片手に、リズムに合わせて体を揺らしている。
優作は、その喧騒の中をぼんやりと歩いていた。
赤い提灯、ソースの焦げる匂い、行き交う人々の笑い声。
それはまるで、日本の縁日のようだった。
(……懐かしいな)
心の奥底にあった「平和な記憶」が呼び覚まされ、とても居心地が良かった。
だが、その表情はまだ、どこか遠くを見ているかのようにぼんやりとしたままだ。
III. 晩餐と、スズの荒療治
一行は、適当な大衆食堂に入った。
卓上には、地底湖の魚の煮付け、地熱野菜の天ぷら、そして久しぶりの白米(代用品かもしれないが)が並ぶ。
「いただきまーす!」
ルカは猛烈な勢いで食べ始めた。メニューの端から端まで全て平らげる勢いだ。
「うん! 美味しい! これも、あれも!」
スズは、相変わらず左手で器用に箸を使っている。
以前はぎこちなかったが、今ではとてもスムーズに魚の骨を取り除き、口に運んでいた。
「……悪くない」
短く感想を漏らし、静かに、しかし確実なペースで食事を進める。
優作も箸を進めるが、やはりどこか上の空だ。
そんな優作を見かねてか、食後、スズが懐から革袋を取り出し、ドンとテーブルに置いた。
「優作」
「……ん?」
「女でも買いに行け」
「……ぶっ!」
優作は飲みかけたお茶を吹き出した。
「な、なに言って……」
「男の気晴らしなど、だいたいそれでなんとかなるものだろう」
スズは真顔で、とんでもないことを言い放つ。
「どうせお前は、その辺の女に声をかける度胸もなかろう。金で解決できるなら安いものだ」
「お、お前な……! 俺をなんだと思ってるんだ!」
優作は顔を真っ赤にして、少し怒ったように言い返す。
だが、スズは聞く耳を持たず、路銀の入った革袋を優作の胸に押し付けた。
「行け。……スッキリした顔になるまでは、戻ってくるな」
「ちょ、待てよスズ!」
優作は抗議しようとしたが、スズの腕力には敵わない。
背中をど突かれ、食堂の外へと放り出されてしまった。
IV. 狐面の少女
スズに放り出された優作は、賑わう大通りを離れ、静かな場所を求めてさまよっていた。
「女郎街」や「置屋」と呼ばれる区画の前を通ったが、客引きの声にも、艶めかしい光にも、心は微塵も動かなかった。
(……そんな気になれるかよ)
革袋の重みが、スズの不器用な気遣いであることを理解しつつも、今の優作には誰かの体温を金で買う気力さえなかった。
優作は、喧騒から逃れるように、街外れへと足を向けた。
そこには、地底湖から引かれた清流が、街の中を縫うように流れている静かなエリアがあった。
赤い提灯の明かりもまばらで、聞こえるのはせせらぎの音だけ。
古びた木造の欄干に寄りかかり、ぼんやりと川面を覗き込んだ。 澄んだ水の中を、蛍光色に光る小魚が群れをなして泳いでいる。 (……綺麗だな) ただ魚を目で追うだけの、無為な時間。それが今の優作には心地よかった。
その時だった。
視線の端に、ふと「異物」が映り込んだ。
欄干の少し先、柳の木の下に、小さな人影があった。 8歳くらいの少女だ。 闇夜に浮かぶ月光のような、眩いばかりの銀髪。それを顎のラインで切り揃えた、古風なおかっぱ頭にしている。 身に纏っているのは、深い紺色に鮮やかな花模様があしらわれた、上等な和服。 帯の赤色が、夜の闇に鮮烈に映えている。
仮面の下に覗く顔は、透き通るように白く、涼しげだった。 大きな瞳は、愛らしさの中にどこか妖艶さを秘めたつり目で、夜の闇を見通すように金色に輝いている。 口はやや大きく、悪戯っぽく端が吊り上がっている。 鼻筋は、子供とは思えないほどスッと通っていて、整いすぎたその顔立ちは、生きている人間というよりは、精巧なビスクドールのようだった。
(……なんだ?) 優作がまた顔を向けると、やはり少女は消えている。 まるで、優作の意識が「魚」に向いている時だけ現れ、「少女」に向けられると消えてしまう幻影のようだ。
(……あんな時間に、子供か?)
優作が顔を向けて、その姿を捉えようとした瞬間。
フッ、と少女の姿が掻き消えた。
「……え?」
見間違いか? 疲れているのか?
優作は目をこすり、もう一度あたりを見回す。
誰もいない。柳の葉が揺れているだけだ。
気を取り直して、再び川面の魚に視線を落とす。
するとまた、視線の「端」に、あの子が現れた。
今度は、反対側の岸辺に立っている。
(……なんだ?)
優作がまた顔を向けると、やはり少女は消えている。
まるで、優作の意識が「魚」に向いている時だけ現れ、「少女」に向けられると消えてしまう幻影のようだ。
「……待てよ」
優作は、無意識のうちに欄干を離れ、少女がいたはずの岸辺へと歩き出していた。
なぜか、気になった。
あのお面の奥にある目が、何かを訴えかけているような気がしてならなかったからだ。
優作が歩き出すと、少女はまた視線の端に現れた。
今度は、路地裏の入口だ。
手招きをするわけでもなく、ただそこに佇み、優作が近づくと、フワリと路地の奥へ消えていく。
(……追いかけっこか?)
子供の頃、近所の神社で遊んだ「かくれんぼ」の記憶が蘇る。
優作は、吸い寄せられるようにその路地裏へと足を踏み入れた。
賑やかな「湯源郷」の表の顔とは違う、薄暗く、どこか寂しげな裏通り。
狐面の少女は、優作との距離を一定に保ちながら、迷路のような路地を奥へ、奥へと進んでいく。
いつしか優作は、自分が何のためにここにいるのかも忘れ、ただその「狐の少女」の背中を追いかけることに没頭していた。
その先に、この街の「もう一つの顔」が待っているとも知らずに。
V. 異界『桃仙郷』
気づくと、周囲の音が消えていた。
赤い提灯の色が、いつの間にか淡い「桃色」に変わっている。
行き交う人々の影が、人間の形をしていない。長く伸びた影には、獣の耳や尻尾のようなものが揺らめいている。
「……ここは?」
振り返っても、元の湯源郷への道はなく、ただ桃色の霧が立ち込めているだけだった。
そこは、人間が足を踏み入れてはいけない、忘れられた者たちが暮らす異界――『桃仙郷』だった。
「おじさん、ここがどこか分かる?」
古い神社の境内で、狐面の少女が待っていた。
少女がお面を少しずらすと、そこには愛らしい少女の顔があったが、その瞳だけが金色に輝き、縦に割れていた。
「……死んだような目をしてるから、仲間かと思ったよ」
少女は「コハル」と名乗った。
彼女は優作の手を引き、桃仙郷の不思議な屋台へと案内した。
「ほら、これ食べてみて!」
コハルが差し出したのは、ガラス細工のように透き通った『星屑の金平糖』だった。
恐る恐る口に含むと、甘さと共に、懐かしい縁日の記憶――子供の頃、両親に連れられて見た花火の情景――が脳裏に鮮やかに蘇り、胸がじんわりと温かくなった。
「こっちは『夢見の茶』! すごくいい香りだよ!」
湯気の立つ茶碗を受け取り、一口飲む。
すると、肩にのしかかっていた鉛のような重みがフッと消え、体が羽毛のように軽くなる感覚に包まれた。
「……不思議な場所だな」
優作は、いつしか警戒心を解き、コハルの無邪気な案内に身を任せていた。
彼女もまた、親とはぐれてここで修行しているという身の上話を、ぽつりぽつりと話してくれた。
その横顔に見え隠れする「寂しさ」が、優作の中に眠っていた、ハチやルカに対して抱いたのと同じ、小さな庇護欲を呼び覚ましていた。
二人は、桃色の霧が漂う不思議な街を、あてもなく歩いた。
影踏み鬼をしたり、水面に映る月を眺めたり。
それは、優作が長い間忘れていた、何の損得もない「ただの時間」だった。
VI. 異界の掟と契約
そんな風にして、コハルと他愛もない時間を過ごしていた最中だった。 神社の石段で、二人は昔懐かしい「グリコ」遊びに興じていた。
「じゃん、けん、ぽん!」
コハルの元気な声が響く。 優作はパー、コハルはグーを出した。
「あーっ! 負けたー!」 コハルが悔しそうに頬を膨らませる。 優作は少し得意げに、石段を見上げた。
「パーだから、『パイナップル』。6歩だ」 「むぅ……おじさん、強いなぁ」
優作は、「パ、イ、ナ、ツ、プ、ル」と一歩ずつリズムよく石段を登っていく。
石段の途中、中腹あたりで優作は足を止め、下で見上げているコハルを振り返った。 夕暮れのような桃色の光に包まれた石段。 その光景は、優作の記憶の奥底にある、遠い昔の―まだ何も失っていなかった頃の記憶―と重なった。
「次は負けないもん!」 コハルが再び小さな拳を構える。 その無邪気な笑顔を見ていると、ここが異界であることも、自分が「死にぞこない」であることも、すべて忘れてしまいそうになる。
「よし、勝負だ」 優作もまた、童心に帰ったように笑い返した。
「じゃん、けん……」
その時だった。 コハルが勢いよく踏み出した足が、石段の苔に滑った。
「あッ!」 「……!」
「やった! 私の勝ち!」
コハルが無邪気に笑い、石段を駆け上がろうとして――足を滑らせた。
「あッ!」
「……!」
優作はとっさに体を動かし、落ちてくるコハルを受け止めた。
その腕の中に、少女の体がすっぽりと収まる。
「……軽い?」
優作は、違和感に目を見張った。
8歳の少女にしては、あまりにも軽すぎる。まるで、小さな子犬か子猫を抱いているような重さしかない。
この「質量」の欠落は、一体……?
コハルは焦って優作の腕から飛び降りるが、着地に失敗して石段に派手に転がってしまった。
その拍子に、彼女の姿を維持していた「ナノミスト(湯気)」のヴェールが乱れる。
少女の姿がノイズのように揺らぎ、着物の裾から、本来あるはずのない「ふさふさとした狐の尻尾」や、髪の間から「尖った耳」が露出しそうになる。
「……見ちゃダメ!」
コハルが悲鳴のような声を上げ、顔を覆った。
変化を維持する「ナノミスト」が霧散しかけ、着物の裾から金色の毛並みの尻尾が覗いている。
「おい! そこで何をしている!」
桃色の霧を切り裂いて現れたのは、身の丈2メートルはある巨漢の妖怪たち――桃仙郷の自警団だった。
彼らは、コハルのことを知っているようだった。
「……コハルか。また、掟を破って人間を引き込んだのか」
自警団の鋭い視線が、侵入者である優作に向けられる。
「人間。ここは、お前ごときが入っていい場所ではない」
「どけ。……『半端者』には、相応の罰を受けてもらう」 自警団の一人が、優作をゴミのように突き飛ばそうと、丸太のような腕を伸ばしてくる。
「……やめろ」
優作は、倒れそうになりながらも、コハルをかばうように割って入った。
「やめろ! こんな子供に何をするんだ!」
優作の叫びに、自警団の動きが止まる。
「……子供、だと?」
鬼のような形相の男が、侮蔑と、深い問いかけを含んだ目で優作を見下ろす。
「人間よ。お前は、この子の『悲しみ』や『業』を知っているのか?」
「……は?」
「知らぬだろうな。この子がなぜ、半分だけの力しか持たず、人間界と異界の狭間で彷徨っているのか。……その重さを背負えぬ者が、軽々しく手出しをするな」
優作には、彼らの言う「業」の意味など分からなかった。
だが、目の前の少女が震えていることだけは、事実だ。
優作は、震える足で立ち上がり、精一杯の虚勢で、適当に言い返した。
「……知るかよ」
「業だの悲しみだの、そんな高尚なことは分からん。……だが、俺はこいつに案内を頼んだ『客』だ。客の連れに手出しするなんて、無粋なマネはしないよな?」
優作の答えは、的を射ていない、ただの減らず口だった。
だが、その「適当さ」の中に微かに混じる覚悟を、自警団は値踏みするように見つめた。
「……ふん。変わり者の人間だ」
自警団のリーダー格が、金棒を下ろした。
「よかろう。その言葉、忘れるなよ」
「……ただし」
男は、去り際に低い声で告げた。
「その子を拾ったのなら、最後まで面倒を見ろ。……その『契約』を破れば、それ相応の『罰』が下ると思え」
自警団は、霧の中へと消えていった。
それは単なる警告ではなく、異界の者との「契約」が成立した瞬間だった。
静寂が戻る。
優作は、安堵のため息をつくと、懐をごそごそと探った。
屋台で買ったものの、手つかずだった「お稲荷さん」の包みが出てくる。
優作は、一つを取り出すと、震えているコハルに差し出した。
「……ほら」
「……おじ、さん……?」
コハルがお稲荷さんを受け取り、小さくかじる。
優作は、その頭をポンポンと無造作に撫でた。
そして、ふと目に入った神社の祠に、残っていたもう一つの「お稲荷さん」を置いた。
パンパン、と手を合わせる。
(……契約、か)
(ま、いいさ。どうせ俺は、厄介事を背負うのが性分らしいからな)
こうして、優作とコハルの間には、言葉以上の不思議な絆が結ばれたのだった。
VII. 夢幻の終わり
自警団が霧の彼方に消えていくと、周囲の「桃仙郷」の景色も、徐々に輪郭を失い始めた。 赤い提灯の明かりが遠ざかり、桃色の霧が薄れていく。
優作がふと横を見ると、さっきまで隣にいたはずのコハルの姿がなかった。 手には、お稲荷さんを包んでいた油紙だけが残されている。
「……夢、か?」
優作は、ぼんやりと呟いた。 狐に化かされたのか、それとも疲れが見せた幻覚か。 どちらにせよ、優作には深く考える気力も残っていなかった。
「……帰ろう」
彼は、夢遊病者のような足取りで、元の湯源郷の宿へと戻っていった。 宿の布団に潜り込むと、泥のように深い眠りに落ちた。 隣に、温かい「何か」が潜り込んできたことにも気づかずに。
VIII. 翌朝の衝撃
チュン、チュン……。 小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む朝日で、優作は目を覚ました。
「……ふあぁ……」
大きくあくびをする。久しぶりに熟睡できた気がする。 隣で、もぞもぞと布団が動いた。
「……んぅ……おじさん、おはよぉ……」
銀髪の少女が、優作の腕を枕にして、眠たげに目をこすりながら起き上がった。 はだけた浴衣から、白く華奢な肩が覗いている。
優作は、まだ半分夢の中にいた。 (ああ、おはよう……) 何の疑問も抱かず、少女と一緒に布団を出て、ふらふらと居間へ向かう。
居間では、既にスズとルカが朝食の席についていた。 焼き魚と味噌汁のいい匂いが漂っている。
「おう、起きたか。遅かったな」 スズが茶碗を置いて振り返る。 「優作、顔色は少しマシになったようだが……ん?」
スズの視線が、優作の隣で大きなあくびをしている少女に釘付けになる。 ルカも、箸を止めてポカンと口を開けている。
優作は、二人の視線を受けて、ようやく自分の隣を見た。 そこには、銀髪のおかっぱ頭に、少しだけ狐の耳を生やした少女――コハルが、ニコニコと座っていた。
「いただきまーす!」
コハルが無邪気に箸を手に取る。
優作の脳内で、昨夜の「夢」と、今の「現実」が、凄まじい勢いで衝突した。
「……は?」
IX. スズの雷
カチャン。 スズが持っていた箸が、真っ二つに折れる音が響いた。
「……優作」
地底の底から響くような、低い声。 スズの背後に、鬼のようなオーラが立ち上っている。
「き、貴様……!」 スズが立ち上がり、優作に詰め寄る。 「女を買えとは言ったが……まさか、宿に連れ込むとは……!」 「しかも、こんな……こんな幼子を!!」
「え? いや、違う! 誤解だ! 俺は何も……!」 優作は慌てて弁解しようとするが、言葉が出てこない。 状況証拠(一緒に起きてきた、はだけた浴衣、懐いている少女)は、完全に真っ黒だ。
「問答無用!!」 「子供に手を出すのだけは、人間として終わっているぞォォォ!!」
ドゴォッ!!
スズの鉄拳制裁が、優作の顔面に炸裂した。 優作はきりもみ状態で吹き飛び、障子を突き破って廊下に転がる。
「ぶべっ!!」
「あーあ、おじさん、やられちゃった」 コハルは、焼き魚を頬張りながら、他人事のように言った。 「でも、ご飯美味しいから、いっか!」
こうして、優作の「休息」は、スズの強烈な勘違いと、コハルという新たな「爆弾」を抱える形で、騒々しく幕を開けることになった。 優作の頬は大きく腫れ上がったが、その目からは、あの「死んだような虚無」は消え去っていた。




