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『異世界人間失格 ~スキル【批評】持ちの独白~』  作者: 猫寿司
第12章:あるいは、私という人間の「異世界の【エンプティ・ワンダーランド】

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第58話:砂糖菓子の檻と、冷たい水


I. 蜜の味(洗脳の進行)


忘却都市レーテ」での生活が始まってから、どれくらいの時が過ぎただろうか。 地底世界の過酷さを忘れさせる完璧な楽園。空調は常に春の陽気のように快適で、食事は舌がとろけるほどに美味。 何もしなくても、管理AI「マザー」が住民の思考を読み取り、望むものをすべて与えてくれる。


その甘い毒は、静かに、しかし確実に二人を侵食していった。


広場の噴水に腰掛けたルカは、親友になったポコを膝に乗せ、うっとりとした表情で歌っていた。 だが、その歌声には、かつての荒々しさや泥臭さは微塵もない。


「甘いお菓子のお家に 住もうよ  悲しいことは 全部忘れて  ずっと ずっと 一緒にいようね……」


彼女の歌から「生存への渇望」が消え、代わりにレーテで流れる「甘く、終わりのない、どこか空虚な旋律」ばかりを口ずさむようになっていた。 その瞳は、ドールたちと同じように、穏やかだが焦点の甘いものへと変わっていく。 「もう、戦わなくていいんだね……」 ルカはポコの頭を撫でながら、夢見るように呟いた。


一方、スズの変化も顕著だった。 常に張り詰めていた武人の気が緩み、鋭かった眼光はすっかり影を潜めている。 「戦わなくていい」「誰も傷つけない」という絶対的な安らぎが、彼女の闘争本能を麻痺させていたのだ。


彼女は愛刀を部屋の隅に置き、ドールたちと無邪気に遊ぶ時間が増えた。 「たまには、こういう休息も悪くない……」 柔らかい芝生に寝転がり、ドールたちと戯れるスズの横顔は、かつてないほど穏やかだった。 だが、その穏やかさは、戦うことを放棄した者の、底なしの虚無にも似ていた。


一方、優作もまた、この安らぎに飲み込まれそうになっていた。 だが、彼だけが精神汚染に完全には染まらなかった。 彼が持つ根源的な**「自己否定(俺なんかが、こんなに幸せになっていいわけがない)」という卑屈な思考と、常に最悪を想定する猜疑心が、逆説的に精神汚染への強力な「抗体」となっていたのだ。


II. マザーからの招待状(洗礼の告知)


滞在から数日後。広場にマザーのホログラムが現れ、慈愛に満ちた声で告げる。


「あなた方を、正式にこの『楽園の家族』として迎え入れたいと思います」 「三日後。時計塔の最上階にて、『洗礼の儀』を執り行います」


ドールたちは歓喜する。「やったね! これで本当の仲間だ!」

ルカとスズも、その提案を好意的に受け入れる。

「ここで暮らすのも、悪くないかもしれない。ねえ、優作?」

その笑顔には、以前のような「芯」がなくなっていた。


III. 楽園の正体(優作の気づき)


その夜、優作はポコの無邪気な一言に戦慄することになる。


「洗礼を受ければ、もう重たくて臭い体はいらないよ。みんなフワフワになって、ずっと一緒にいられるんだ」


優作の脳裏に、以前施設で見かけた「廃棄される人間の肉体」の映像がフラッシュバックする。

全ての線が繋がった。


「洗礼」とは、人間の肉体を廃棄し、意識データをドール(バイオ・ドール)に強制転送する儀式のことだ。 それは「変身」でも「進化」でもない。人間としての「死」だ。


優作は、寝床にいるルカとスズを揺り起こし、必死に説得する。

「目を覚ませ! これは罠だ! マザーは俺たちの体を奪うのが目的だ! 俺たちも、あのぬいぐるみの中に閉じ込められてしまうぞ!」


だが、洗脳が深まった二人は、優作の言葉を聞き入れない。

ルカ:「優作は考えすぎだよ。マザーはこんなに優しいのに。……もう、辛いことは嫌だよ」

スズ:「……体を捨てれば、痛みも飢えもない。それは、戦い疲れた者への『救済』ではないのか?」


二人の瞳は、楽園の誘惑に完全に引き寄せられていた。


IV. 拒絶と排除(マザーの敵対)


優作の説得(という名の騒ぎ)は、即座にマザーに感知された。

部屋のスピーカーから、マザーの声が響く。


「……残念です。あなたは、幸福を受け入れる準備ができていないようですね」


マザーの声色が、慈愛から冷徹な「管理」へと変わる。

「他の二人は『適合』しました。ですが、あなたは『不純物』です。楽園の秩序のために、排除しなくては」


街の影から、今まで姿を見せなかった**「機械人形オートマタ」たちが現れる。 ファンシーな街並みに似つかわしくない、無骨で冷徹な掃除屋たち。 ルカとスズは、マザーの精神干渉により、虚ろな目で優作を見つめるだけで、助けようとも動こうともしない。


「くそっ、どうなっても知らんぞ!」


優作は孤立した。戦う力はない。スズもルカもいない。

彼は二人を見捨てて(あるいは、助けを呼ぶために)、着の身着のままでその場から逃げ出した。


V. 湖へのダイブと、対岸の捕食者


機械人形の追跡は執拗だった。優作は島の外縁――霧に包まれた湖畔へと追い込まれる。 前は決して晴れない霧の湖。後ろは無慈悲な機械の群れ。 退路はない。


「……こんなところで、ぬいぐるみにされてたまるか!」


優作は、死ぬか生きるかの賭けに出る。

彼は霧の立ち込める地底湖へと、躊躇なく身を投げた。


ドボン!

冷たい水が、全身を包み込む。

「甘い楽園」の空気が洗い流され、過酷な「現実」の冷たさが意識を覚醒させる。

優作は必死に泳いだが、やがて力尽き、意識が遠のいていく。


……。


「……ゲホッ、ゲホッ……」


水を吐き出し、顔を上げた時、優作はレーテの対岸にある、荒涼とした岩場に打ち上げられていた。

全身が重い。だが、生きている。


ふと気配を感じて顔を上げると、複数の影が優作を取り囲んでいた。

それは、ボロ布を纏い、痩せこけ、殺気立った目をした人間たち――レーテを狙う**「狩人(近隣の村人)」**たちだった。


「……見ろ。レーテから逃げてきた『人間』だ」

「スパイか? それとも……」


無数の剣と槍が、優作に向けられる。 優作は、砂糖菓子の楽園から、飢えた獣たちの地獄へと、一気に突き落とされたのだった。

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