第57部:「エンプティ・ワンダーランド」
ゴツゴツとした岩盤が剥き出しになった、長く湿った地底のトンネルを抜けた瞬間、視界が開けた。 だが、そこにあったのは「色」ではなく、全てを白く塗りつぶすような、深く濃い「霧」だった。
「……行き止まりか?」 優作が馬車を止める。 目の前には、広大な地底湖が広がっていた。天井が見えないほど広い空洞に満たされた水面は、絶えず立ち込める乳白色の霧に覆われ、対岸はおろか、数メートル先すら定かではない。 この霧は決して晴れることがない、永久の帳だという。
「ここからは馬車じゃ行けないよ!」 案内役のポコが、短い手足をバタつかせて荷台から飛び降りる。 ふわふわの毛並みを震わせながら、彼は湖の岸辺にある古びた鐘を指差した。
「あっち! 船を呼ばなきゃ!」
ポコが鐘を鳴らすと、カーン、カーンという澄んだ音が霧の中に吸い込まれていった。 しばらくすると、霧の奥から、水面を滑るような静かな音と共に、一隻の渡し船が現れた。 船頭はいない。自動で動いているのか、あるいは霧の向こうから操られているのか。
「さあ、乗って! マザーが待ってるよ!」
優作たちは馬車をその場に残し、ポコに促されるまま、その心許ない小船に乗り込んだ。 船は音もなく向きを変え、真っ白な霧の湖へと滑り出した。
II. 偽りの楽園への到着
世界が白一色に閉ざされた水上を進むこと数十分。 不意に、霧が薄れ始めた。
「うわぁ……! 何これ、可愛い!」 ルカが船べりに身を乗り出し、歓声を上げる。
霧を抜けた先に現れたのは、湖の中央に浮かぶ島『忘却都市レーテ』だった。 そこは、無骨な鉄屑や殺伐とした暴力が支配する地底世界とは隔絶された、お伽話のような空間だった。
視界を埋め尽くすのは、パステルカラーで彩られたお菓子の家のような建物たち。 街灯はねじりキャンディの形をし、道はカラフルなブロックで舗装されている。 頭上――地下空洞の天井には、綿菓子のようなピンク色の雲が浮かび、人工太陽の柔らかな光が降り注いでいる。 空気には、鉄錆やカビの臭いではなく、甘いバニラのような香りが漂っていた。
「ようこそ! ここが僕たちの町だよ!」 ポコが誇らしげに胸を張る。
優作は、そのあまりに浮世離れした「可愛らしい」光景と、背後に広がる「絶対的な霧の閉鎖空間」とのギャップに、えも言われぬ違和感を覚えていた。
「うわぁ……! 何これ、可愛い!」
ルカが歓声を上げ、馬車の窓枠に身を乗り出す。
そこは、無骨な鉄屑や殺伐とした暴力が支配する地底世界とは隔絶された、お伽話のような空間だった。 視界を埋め尽くすのは、パステルカラーで彩られたお菓子の家のような建物たち。街灯はねじりキャンディの形をし、道はカラフルなブロックで舗装されている。 頭上――地下空洞の天井には、綿菓子のようなピンク色の雲が浮かび、人工太陽の柔らかな光が降り注いでいる。空気には、鉄錆やカビの臭いではなく、甘いバニラのような香りが漂っていた。
町の中へ進むと、住民たちがわらわらと集まってきた。
彼らは皆、ポコと同じように二頭身で、ふわふわの毛並みを持った愛らしい姿をしていた。
ウサギ、クマ、ネコ、あるいはそれらを混ぜ合わせたようなキメラ……様々な動物を模した彼らが、優作たちを無邪気な笑顔で取り囲む。
「人間さんだ! 人間さんが来たよ!」
「わあ、久しぶり! 遊ぼう! 遊ぼう!」
彼らには警戒心というものが欠落していた。労働の疲れも、争いの殺気もない。
ただ純粋な好奇心と好意だけで、優作たち人間に触れようとしてくる。
「すごい……みんな、ふわふわだ」
スズも、寄ってきたクマ型のドールに触れ、少し表情を緩めた。剣の柄から手を離し、その柔らかな感触に触れる。
だが、優作だけは背筋に冷たいものを感じていた。
(……気味が悪い)
足元に抱きついてきたウサギ型のドールを、恐る恐る抱き上げてみる。
見た目は愛らしいぬいぐるみだ。しかし、手に伝わってきたのは、綿の軽さではなく、ずっしりとした「肉」の重みだった。
ふわふわの毛並みの下には、温かい体温があり、トクトクと脈打つ心臓の鼓動が掌に伝わってくる。
毛をかき分けると、そこにあるのは布地ではなく、生々しい皮膚だ。呼吸に合わせて肋骨が上下し、口元からは湿った呼気が漏れている。
彼らは「生き物」だ。
なのに、そのつぶらな瞳には、生物が持つべき「生存本能」のような鋭さが一切ない。
ただ、愛されることだけをプログラムされたかのような、虚ろな純粋さ。
『……彼らは進化したんだよ』
ピュティアの声が、優作の脳内に響く。
『人間に愛される姿、保護欲をそそる姿……そうやって外見を最適化(擬態)させた個体だけが、この実験場で処分されずに生き残った。これは彼らなりの、凄まじい生存戦略の結果さ』
優作は、腕の中の「愛らしい生物」を見下ろし、戦慄した。
この笑顔も、ふわふわの毛並みも、すべては生き残るための「鎧」なのか。
II. マザーの恩恵と、死の欠落
「お腹空いたでしょ? 何か食べる?」
ポコが言うと、近くの家からドールたちが色とりどりの果物やケーキを運んできた。
「マザーにお願いしたんだ! マザーは優しいから、僕たちが欲しいものは何でもくれるんだよ!」
町の中央にそびえる、巨大な時計塔のような建造物。それが管理AI「マザー」の本体らしい。
ポコによれば、マザーは住民の思考を読み取り、衣食住すべてを無償で提供してくれるという。働かなくていい。奪い合わなくていい。
まさに、夢のようなユートピア。
だが、その「平和」の正体を、優作はすぐに目撃することになった。
広場の遊具で遊んでいたネコ型のドールが、足を滑らせて高いところから落下した。
グシャリ、という生々しい音が響く。
地面に叩きつけられたドールは、腕があらぬ方向に折れ曲がり、ふわふわの毛並みが赤黒い血で染まった。
「あ……!」
ルカが悲鳴を上げて駆け寄ろうとする。
だが、周囲のドールたちは、誰一人として悲鳴を上げなかった。
「あはは! ドジだなあ!」
「失敗しちゃったね!」
怪我をした当の本人でさえ、折れた腕をブラブラさせながら、痛みを感じていないかのようにヘラヘラと笑っていた。
「平気だよ! マザーにお願いして『リセット』してもらうから!」
「そうだね! 新しい体と交換だね!」
彼らは、血を流す仲間を担ぎ上げ、時計塔の方へと運んでいく。まるで壊れた玩具を修理に出すような気軽さで。
優作は、こみ上げる吐き気を必死に堪えた。
(……こいつら、死を理解していない)
痛みがないのではない。死という概念が欠落しているのだ。
壊れたら直せばいい。記憶が消えても、また遊べばいい。
そこにあるのは、無限に繰り返される、停滞した幸福だけ。
誰も強制していない。彼らは自らの意思で、思考を停止し、マザーというシステムに全存在を委ねている。
その姿は、かつて日本で、会社や社会というシステムに思考停止してぶら下がっていた、優作自身の醜悪な戯画のようにも見えた。
「……ここでは、辛いことは何もないよ。みんな幸せなんだ」
ポコが、優作を見上げて無垢に笑う。
その笑顔が、優作には何よりも恐ろしい「地獄」に見えた。
ここは楽園ではない。
死すら許されない、「エンプティ・ワンダーランド(空虚な不思議の国)」だ。




