第54部:共振する魂
帰還、そして世界の残酷さ(冒頭シーン)
I. 敗北と帰還
マエストロの屋敷から逃走したハチの背中が夜の闇に溶けていくのを、優作は見送ることしかできなかった。 追跡を諦めた足取りは鉛のように重く、一歩踏み出すたびに、自分の甘さが招いた結果――暴走したハチの「悪意」を育ててしまったという罪悪感――が、胸の奥で鈍い痛みを伴って脈打つようだった。
街の喧騒は遠ざかり、静まり返った石畳の路地を抜けて、優作は仲間たちの待つアジトへと戻った。
軋む音を立ててドアを開けると、食堂にはルカが一人でテーブルについていた。 皿に残ったソースをパンで拭いながら、彼女は顔を上げる。優作の姿を認めても、その表情に変化はない。
「おかえり。早かったね、優作」
その声色は、あまりにも平坦だった。優作がどれほどの修羅場を見てきたのか、あるいはハチを取り逃がしたのか、あえて深く関わらないようにしているようだった。優作は力なく向かいの椅子を引き、重い腰を下ろした。
「スズは?」 乾いた喉から絞り出した問いに、ルカはパンをかじりながら、少し視線を逸らして答えた。
「ああ、スズなら今日は帰らないってさ。伝言」 「……帰らない?」 「うん。たぶん、あれでしょ。太鼓の練習がお熱くて、朝まで付きっきりなんじゃない? あはは、タフだよねー」
ルカの笑いは乾いていた。それは単なる呆れではなく、大人の事情を察した子供特有の気まずさと、少しの背伸びが含まれた「察し」の笑いだった。 優作もまた、ルカの言葉の裏にある「含み」を瞬時に理解し、無言で頷くしかなかった。
(……そうか。ま、スズも大人だ。好きにさせとけ)
二人の間には、「それ以上は聞くまい」という共犯めいた沈黙が流れた。 優作は、その気まずい空気を変えるように、視線をルカの皿へと落とし、低い声で言った。
「……飯、冷めるぞ。無理して俺に合わせなくていい、全部食っちまえ」
「……うん」
「一応、スズは**『3日後のコンテストまでこの街に滞在したい』**って言ってたから、お前もそれでいいんだろ?」
「もちろん。アタシはアタシで、ここの広場での演奏が楽しいしね」
ルカは優作の不器用な言葉にホッとしたように小さく頷き、再びフォークを握り直した。
II. 翌朝の遅い朝食と、艶めいた帰還
翌日の昼下がり。優作とルカが食堂で遅い朝食をとっていると、扉が開いた。 そこに立っていたのは、スズだった。
「おお、スズ。お帰り」
優作は声をかけたが、その姿を見て、口元を引きつらせた。 徹夜明けのやつれなど微塵もない。 むしろ、スズの肌は内側から発光するような艶を帯び、瞳はとろんと潤んでいた。 その全身から立ち上るのは、武術の鍛錬による熱気などではない。もっと生々しく、甘美な、情事の余韻そのものだった。
(……はぁ~。わかりやすすぎるだろ)
優作は心の中で盛大なため息をついた。 「太鼓の稽古」という建前が崩壊するほどの、隠しきれない**「女」の顔**。 ルカもまた、スズのその姿を見て見ぬふりをし、黙々とスープを啜っている。
スズは、何食わぬ顔で席に着くと、朝食に手を伸ばした。 その手元を見て、優作はまた眉をひそめた。
スズは、普段使わない左手で、ぎこちなく箸を使っていたのだ。 その指先は震えているが、表情だけは妙に晴れやかで、どこか上の空だ。
(……また変なことをしてるな) 昨晩の「行為」で右手が使えないのか、それともタオという男の影響で何か新しい「感覚」に目覚めたのか。いずれにせよ、今のスズに深く突っ込むのは野暮というものだ。
静寂の中、カチリ、と箸が皿に当たる音だけが響く。 不意に、スズが箸を止め、優作を見た。
「なあ、優作。なんでお前は、あの男を止めようとした?」
唐突な問いかけだった。
「なんでって……あいつはテロリストになろうとしてるんだぞ」
「違うだろ。お前がハチを見て、過去の自分を見たからだ。そう言っていただろ?」
図星を突かれ、優作は口ごもる。苦いコーヒーを飲み干し、意を決したように答えた。
「……ハチは才能がない。その現実は、誰よりも俺が知っている」 優作の声には、自嘲と、それゆえの強い確信が混じっていた。 「だから止めたんだ。才能のない人間が『まやかしの夢』に溺れれば、待っているのは破滅だけだ。だから、現実を直視させて、地べたを這ってでも生きる道を探させるべきだと思った。……それが、俺なりの『おせっかい』だ」
優作の言葉に対し、スズは左手の箸を完全に止め、静かに優作を睨んだ。その瞳の潤みが、冷ややかな光に変わる。
「その『現実』を突きつけることが、本当に救いなのか?」 スズの声は低く、冷たい。
「才能のないもの、あるいは現実が過酷だと認知しているもの。そいつらは、どうやって、なにをもって生きるんだ?」
スズは、ルカが広場での演奏で歌い上げた歌詞――『錆びた鉄の森で〜』――を引用するように、優作に問いかける。
「お前は、ハチから**まやかしの夢(生きるよすが)**を力ずくで取り上げた。彼のように、その『まやかし』にすがって生きるしかない人々は、どうやって、この残酷な世界を生きていけばいいんだ?」
彼女は、優作の目を見据え、核心を突いた。
「コンテナ・ツリーでは、**夢を見る(現実を見ない)ことは『死』**を意味した。だが、ここではどうだ? その『夢』こそが、弱者が息をするための酸素なんじゃないのか?」
スズの言葉は、優作が信じていた「現実を見せること=救い」という正義を、根底から揺さぶるものだった。 優作は何も言い返すことができず、スズの潤んだ瞳に映る、自分自身の**『人間失格』**の像を、ただ見つめることしかできなかった。




