『自衛』という名の拳
最終部:『自衛』という名の拳
(高三、底の底)
高校三年生。 Sを裏切り、F子の消しゴムを拾えなかったあの日から、私の世界は「小説」という名の鎧の内側だけで完結していた。 教室の私は、もう「風景」ですらない。Kの暴力(玩具)に耐え、教師からは存在を無視され、卒業という「刑期満了」だけを待つ、生ける屍だった。
Kの暴力は、執拗に続いていた。 彼にとって、反応(抵抗)しない私は、何をしても許される「サンドバッグ」だったのだろう。 だが、高三の梅雨時、その「暴力」は、ついに一線を越えた。
(きっかけ②:決定的な暴力)
その日、私はKに体育館裏に呼び出された。 いつものように腹を殴られるのかと、身構えた。 だが、Kは殴らなかった。彼は、歪んだ笑みを浮かべていた。
「おい優作、聞いたぜ。お前、F子のこと、ジロジロ見てんだってな」
……心臓が、跳ね上がった。 (なぜ、それを) 私が、唯一「鎧」の内側で、汚してはならないと願っていた、あの淡い憧れ。
「キモいんだよ。お前みたいな『人殺し(B君)』が、F子みたいな『上玉』見てんじゃねえよ」 「お前、S(アニメ好き)も裏切ったんだってな。ダチ(仲間)も見殺しにするクズがよ」
Kは、私の「全て」を知っていた。 私の、最も醜く、最も卑屈な、隠し通したかった「罪」の全てを。 そして、彼は、私の胸ぐらを掴み、雨でぬかるんだ地面に、私を叩きつけた。
「土下座しろよ」 「『俺はF子をいやらしい目で見ていました、Sを裏切りました、B君を殺しました、俺はクズです』って、言えよ」
泥水が、制服に染み込む。 私は、震えていた。 暴力より、侮辱より、「全てを知られた」という事実が、私を打ちのめした。 私の「鎧(小説)」は、このKという「現実」の前では、何の役にも立たない。
「……ごめ、なさい……」 私は、言われるがままに、泥水の中で、頭を擦り付けた。 「……俺は、クズです……」 「ははっ、声が小せえよ!」 Kは、私の頭を、靴の裏でグリグリと踏みつけた。
その時だった。 B君の、血の気のない顔が、目の前の泥水に浮かんだ。 Sの、絶望した目が、浮かんだ。 F子の、不思議そうに私を見ていた、あの目が、浮かんだ。
……もう、いい。 ……もう、疲れた。 ……死のう。
(……俺は、ここで、こいつに殺されるべきなんだ) (いや、違う。俺は、自分で死ななければ。こんな奴に殺されるのは、嫌だ) (帰ったら、死のう。あの作文の表彰状を破り捨てて、首を吊ろう)
Kが満足して立ち去った後、私は、泥だらけのまま、しばらく動けなかった。 自殺することだけが、私の「B君への唯一の償い」であり、この地獄からの「唯一の逃げ道」だと、本気で、そう思った。
(きっかけ①:ヒーローとの再会)
その夜、泥と涙で汚れた制服を風呂場で洗いながら、私は、居間のテレビから流れる音を、ぼんやりと聞いていた。 親は、もう寝ている。 時刻は、深夜。 私は、どうやって死のうかと、そればかり考えていた。
『——決まったァーッ! 鮮やかなハイキック! まさに一撃必殺!』
アナウンサーの、場違いに興奮した声。 私は、ふと顔を上げた。 テレビ画面には、白い道着を着た男が、崩れ落ちる相手を見下ろしている姿が映っていた。 「空手・全国大会決勝」というテロップ。
スローモーションが、流れた。 踏み込み。 軸足の回転。 しなやかな軌道を描いて、相手の側頭部を打ち抜く、完璧な「蹴り」。 それは、私が知っている「暴力」(Kや、中学ヤンキーの、醜く、無秩序なそれ)とは、まったく異質のものだった。
(……ああ)
私は、その場に、立ち尽くした。 幼い頃、ブラウン管にかじりついて見ていた、あの「正義のヒーロー」が、そこにいた。 悪を倒す、絶対的な「力」。 私が、10歳の万引き事件で捨てたはずの、あの眩しい憧れ。
(……きれいだ) F子を見た時と同じ感情が、しかし、もっと熱く、激しく、胸を突き上げた。
(……これだ)
自殺しようと思っていた、冷え切った脳が、急速に熱を帯びていく。 (死ぬのは、まだだ) (俺は、Kが怖い。Kの「暴力」が、怖いんだ) (だが、もし、俺が、あの「力(ヒーローの蹴り)」を手に入れたら?)
ヒーローになりたいんじゃない。 正義の味方(警察官)になりたいわけでもない。 ただ、自衛だ。 二度と、あんなふうに、泥水をすすり、頭を踏みつけられないために。 俺が、俺の「鎧(小説)」を守り抜くために、最低限の「武器」が要る。
(……俺も、あれを、やりたい)




