第52部:ルカの旋律と、嫉妬の渦
優作たちは、ハチの案内で貧民街の一角にある彼のアジトへと向かった。
華やかな大通りとは打って変わり、そこは薄暗く、湿った空気が漂っていた。
「ここが、俺の……スタジオだ」
ハチが誇らしげに、しかしどこか卑屈に扉を開けた。
そこは、ゴミとガラクタが散乱する、狭い屋根裏部屋だった。
部屋の隅には、埃をかぶったチェロのような楽器が一本、無造作に立てかけられている。
「……これが、スタジオ?」
ルカが素直な感想を漏らす。
「ああ。マエストロにあらゆる妨害を受けて、今はこんな場所しか借りられないが……俺の才能があれば、場所なんて関係ないさ」
ハチは、散らかった机の上から数枚の楽譜を引っ張り出した。
「これが、盗まれた曲の原案だ。見ろよ、この旋律。マエストロが演奏していたのと、そっくりだろ?」
優作は楽譜を受け取り、眺めた。
(……似ている、か?)
確かに、素人目には似ているように見える。だが、優作の中で違和感が膨らんでいく。
それは小説家を目指していた頃、何度も味わった感覚だった。
推敲の跡も、悩み苦しんだ痕跡もない。ただ、思いついたフレーズを書き殴っただけのような、薄っぺらな楽譜。
(……こいつ、本当にこれを「作品」と呼べるのか?)
優作は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
ハチの必死な目。それは、かつて出版社に原稿を持ち込み、「才能がない」と言われるのを恐れて震えていた自分の目と同じだったからだ。
(……いや、決めつけるのは早い。マエストロが本当に悪党で、原案だけ盗んで完成させた可能性もある)
優作は、ハチを否定することを避けた。それは優作自身の弱さであり、過去の自分への甘さでもあった。
「……とりあえず、マエストロの周辺を調べてみるよ」
優作は、そう言ってハチのアジトを後にした。
まずは事実確認が必要だ。ハチの言葉を信じたい気持ちと、信じきれない疑念の間で揺れながら。
優作は一人で、マエストロの屋敷へ向かった。
スズは「私は太鼓の男の所に行く」と言って別行動を取り、ルカは「街で歌ってくる!」と広場へ向かった。
マエストロの屋敷は、街一番の高級住宅街にあった。
優作は屋敷の裏手に回り、様子を窺う。
屋敷からは、絶え間なくバイオリンの音が聞こえてくる。
(……練習か?)
優作は、庭師に変装して屋敷の敷地内に潜入した。
練習室の窓から中を覗く。
そこには、鬼気迫る形相でバイオリンを弾くマエストロの姿があった。
「違う! 音の伸びが足りない!」
マエストロは、弾き終えた直後に叫び、自分の指を噛んだ。
指先は赤く腫れ上がり、爪は割れ、テーピングだらけだ。
床には、折れた弓が何本も転がっている。
「あと3日……コンテストまであと3日しかないのだ! このままでは、私の『音』が完成しない!」
マエストロは、頭を抱えて呻いた。
「完璧でなければならない……『マエストロ』の称号を持つ者は、常に完璧でなければ……!」
優作は息を呑んだ。
そこにあったのは、傲慢な権力者の姿ではない。
才能という呪いに縛られ、自分自身を追い詰め続ける、孤独な求道者の姿だった。
(……こいつ、本物だ)
優作は直感した。
こんな男が、あんな薄っぺらいハチの曲を盗むはずがない。盗む必要がないのだ。
ハチの言っていたことは、やはり妄想か、あるいは自分を慰めるための嘘だったのか。
優作は屋敷を離れ、重い足取りでハチのアジトへ戻った。
真実を告げなければならない。だが、どう言えばいい?
「お前には才能がない」「マエストロは努力している」……そんな言葉が、ハチに届くとは思えなかった。
アジトに戻ると、ハチは苛立った様子で部屋の中を歩き回っていた。
「……遅いぞ! 調査はどうだった? 証拠は見つかったか?」
「……いや、決定的なものはなかった」
優作は言葉を濁した。
マエストロの壮絶な練習風景を伝えても、ハチは「パフォーマンスだ」と一蹴するだろう。
「ハチ、お前の曲だが……もう少し、練り直してみないか? 確かに原案としてはいいが、完成度で言えばマエストロの方が……」
「はぁ!?」
ハチが食ってかかった。
「お前、何言ってるんだ? 俺の曲が未完成だって言うのか!? マエストロの肩を持つのか!?」
「違う。ただ、現実的に考えて……」
「現実!? 現実は、あいつが俺の曲を盗んで、俺を追い出したってことだろ!」
ハチの目が血走る。
「わかったよ。お前も結局、あいつらの味方なんだな。才能ある俺が怖いんだろ!」
「……ハチ、落ち着け」
優作は手を伸ばそうとしたが、ハチはその手を乱暴に振り払った。
「もういい! 誰の力も借りない! 俺一人でやる!」
ハチは叫び、机の引き出しから何かを取り出した。
鈍色に光る、古びた指輪。
「……なんだ、それ?」
優作が尋ねる間もなく、ハチはその指輪を指にはめた。
ブゥン……と低い音が鳴り、ハチの全身から異様な気配が立ち上る。
「……力が、湧いてくる」
ハチの表情が、一瞬で変わった。
怒りが消え、代わりに陶酔したような、虚ろな笑みが浮かぶ。
「そうだ。俺は悪くない。悪いのはマエストロだ。あいつさえいなければ……」
ピュティアが、優作の脳内で警告を発した。
『優作! その指輪、ヤバイよ! 思考ノイズが急上昇してる! 干渉して!』
「ハチ! それを外せ!」
優作が飛びかかろうとするが、ハチは人間離れした力で優作を突き飛ばした。
「邪魔をするな! 俺は証明しに行くんだ! 俺の才能を!」
ハチは、アジトの窓を蹴破り、外へと飛び出した。
その手には、いつの間にかナイフが握られていた。
「……クソッ!」
優作は、痛む体を起こし、ハチを追う。
うすうす気づいていながら、決定的な言葉を言えなかった自分の弱さが、最悪の事態を招いてしまった。
優作は、暴走するハチの背中を追いかけ、街へと駆け出した。




