第51話:嫌味な天才と、可哀想な青年
音楽の都オルフェウス編
馬車に揺られること数日。
ゴツゴツとした岩盤が剥き出しになった、長く暗い地下トンネルをようやく抜けた瞬間、世界が一変した。
「……うわぁ」
ルカが窓枠に身を乗り出し、息を呑む。
そこは、地底世界の中でも特異な地形――巨大な「大峡谷」のような空間だった。
足元から先は、地面がない。
あるのは、底が見えないほど深く切り立った、断崖絶壁のみ。
その広大な「裂け目」――大峡谷の中央に、島のように孤立した巨大な岩山がそびえ立っていた。
「見て! あれが『音楽の都』……峡谷都市オルフェウスだよ!」
ルカが指差した先。
その光景は、圧巻の一言だった。
峡谷の底から突き出した、高さ数千メートルにも及ぶ巨大なテーブル状の岩盤。その頂上の平らな大地に、白亜の都市が広がっているのだ。 それはまるで、巨大なクレーターの中央に残された、孤高の島のように見えた。
「きれい……。でも、どうやってあそこに行くんだ?」 優作が疑問を口にすると、馬車は速度を緩めた。
目の前に、一本の細長い「線」が現れた。 それは、優作たちがいる**「峡谷の外縁(崖の上)」から、遥か彼方の「都市(岩の柱)」へと向かって、一直線に架けられた、巨大な石造りの吊り橋**だった。
「ここからは馬車の乗り入れは禁止だ。徒歩で、この『オルフェウス大橋』を渡ってもらう」
門番である衛兵にそう告げられ、優作たちは荷物をまとめて馬車を降りた。
「うわ、高っ……!」 橋のたもとに立ったスズが、柵から下を覗き込み、顔を引きつらせる。 足元には、吸い込まれそうな深淵が広がっている。風が下から吹き上げ、橋全体が微かに唸りを上げて振動しているのが分かった。
優作は欠伸を噛み殺しながら、ルカの服の裾を掴んだ。 一行は、強風に煽られながら、空中に架けられたその長い長い橋を渡り始めた。 目指すは、断崖絶壁の上に孤立する、音楽の都。
峡谷全体が巨大なホールのような役割を果たし、街の至る所から奏でられる楽器の音色や歌声が、風に乗って増幅され、絶えず耳元に届いてくる。
下層からの重低音、上層からの優雅な旋律。それらが混ざり合い、都市全体が一つに「鳴って」いる。
「そう! ここは世界で一番、音が響く街なんだよ!」
ルカは目を輝かせ、吹き上げてくる風に髪をなびかせた。
「あそこでなら、アタシの歌をもっと遠くまで……もっと深くへ届けられる!」
コンテナ・ツリーでは「生きること」が全てだった。歌は労働の鼓舞や、死への慰めでしかなかった。
だが、ここは違う。
この断崖の街では、音楽こそが空気であり、権力であり、命そのものだ。
「はいはい、落ちるなよ。マジで底が見えねえぞ」
馬車の窓から下を覗き込むと、遥か下層、霧の向こうに微かな明かりが点滅しているのが見える。あそこまでの深度は、優に数千メートルはあるだろう。
別に崇高な目的があるわけじゃない。ただ、物資が尽きた。ルカが「行きたい」と言った。それだけだ。
ペコとの別れ、ゲオルグとの死闘。それらの重荷を一旦降ろし、少しばかりの「観光」と「補給」を楽しむ。今の優作たちには、それくらいの権利はあるはずだ。
馬車は、崖沿いに作られた心許ない石造りの道を通り、都市の入り口である「上層ゲート」へと近づいていった。
「ここからは馬車の乗り入れは禁止だ。徒歩で、この『螺旋回廊』を降りてもらう」
門番である衛兵にそう告げられ、優作たちは荷物をまとめて馬車を降りた。
断崖に突き出した石畳に足を下ろすと、下層から吹き上げてくる風が、様々な楽器の音色を含んだ「音楽の風」となって、優作たちの頬を撫でた。
軽快な音楽が風に乗って聞こえてきた。
「へぇ、噂通りだな」
スズが感心したように呟く。
街は活気に満ちていた。石畳の通りのあちこちで、大道芸人が楽器を奏で、歌っている。店先には色とりどりの果物や雑貨が並び、人々は皆、どこか浮かれたような笑顔を浮かべていた。
「うわぁ……すごい!」
ルカは目を輝かせ、あちこちを見回しながら駆け出した。
「ちょっと待て、ルカ!」
優作は慌ててその後を追う。スズは呆れたように肩をすくめながらも、二人の後をついてきた。
「ねえねえ、あれ見て!」
ルカが指差した先には、広場の隅で黙々と太鼓(ドラムのような打楽器)を叩いている、筋肉質な男がいた。
彼は周囲の騒音など意に介さず、ただ一定のリズムを、正確無比に刻み続けている。
ドンドコ、ドンドコ、ドン。
「……いいリズムだ」
スズの目が、獲物を見つけたように細められる。
「左右の手が、別々の生き物みたいに動いてる。あの連打……重心移動だけで音圧を変えているな」
スズは、ペコとの別れで少しセンチメンタルになっていたが、根っからの武人としての本能が、新たな「強さ」に反応していた。
「幼少の頃より父に叩き込まれた古武道。……コンテナツリーのサバイバルじゃ役に立たなかった技術が、この世界(対人)なら試せる」
彼女にとって、この街は「音楽の都」ではなく、「未知の身体操作技術(武術)の見本市」に見えているようだった。
広場の中央には、さらに大きな人だかりができていた。
「マエストロだ!」
「今日も素晴らしい演奏を!」
歓声の中心にいたのは、燕尾服を着た初老の男だった。
マエストロと呼ばれるその男は、バイオリンを構え、一曲披露した。
その技術は、素人の優作が見ても「完璧」だった。音の粒が揃い、狂いがない。圧倒的な「才能」と「修練」の結晶。
だが、演奏が終わった直後だった。
マエストロは、駆け寄ってきた弟子の一人を、持っていた弓でピシャリと叩いた。
「遅い! 譜面めくりのタイミングが0.1秒遅れている! 私の演奏を汚す気か、無能め!」
「も、申し訳ございません……!」
「失せろ。才能のない奴が私の視界に入るな。空気が濁る」
マエストロは、ファンには愛想よく手を振る一方で、弟子やスタッフには氷のように冷酷で、傲慢だった。
「……うわぁ」
ルカが顔をしかめる。
「演奏はすごいけど……なんか、嫌な奴」
「ああ。典型的な『実力はあるが性格が破綻している天才』ってやつだな」
優作も肩をすくめた。関わり合いになりたくないタイプだ。
一行がその場を離れようとした時、路地の物陰から、そのマエストロをじっと睨みつける視線に気づいた。
薄汚れた服を着た、痩せこけた青年だった。
その目には、異常なほどの「憎悪」が燃えていた。
「……あいつは、詐欺師だ」
青年が、独り言のように、しかし優作たちに聞こえるように呟いた。
優作が足を止めると、青年――ハチは、縋り付くように優作たちを見た。
「あいつは……マエストロは、俺の曲を盗んだんだ! 本当は俺の方が才能があるのに、あいつは権力を使って俺を追放したんだ!」
「……盗作?」
優作は眉をひそめた。
ハチの身なりはボロボロで、手には安物の、手入れもされていない楽器が握られている。
客観的に見れば、ただの負け犬の戯言に聞こえるかもしれない。
だが、優作の中で、かつての「自分」が疼いた。
小説家を目指し、賞賛を夢見ながら、現実の壁と理不尽な評価に打ちのめされ、社会を呪っていた頃の自分。
権力者が、弱者を踏みつけにしている構図。それは、優作が一番嫌うものだった。
「……詳しく聞かせてもらおうか」
優作は、ハチの話を聞くことにした。
スズは「面倒くさそうだな」と興味なさげに太鼓の男の方を見ているし、ルカは「えー、早くご飯食べたいのに」と不満げだ。
だが、優作は思った。
(マエストロのあの傲慢な態度。あいつなら、弱者から搾取することくらい平気でやるだろう)




