第47部:善政の宰相と、地下の覇王(たたき台)
かつて私がいた世界(日本)。あそこは清潔で、安全に見えるが……決して「楽園」などではなかった。 あそこもまた、陰湿で、逃げ場のない「地獄」だった。
同調圧力という名の暴力。がんじがらめのルール。 常に他者と比較され、物質的には満たされていても、精神は常に真綿で首を絞められるような息苦しさ。 年間何万人もの人間が、生きることに絶望して自ら命を絶つ場所が、楽園なわけがない。
あそこは、力と知恵がある者、既得権益に守られた者が、システムを使って弱者から搾取する……あまりにも「高度に洗練された地獄」だった。 私はそこで、抗うこともできず、ただ魂を腐らせていた。
だが、この世界は違う。 ここは汚く、理不尽で、暴力に満ちた、剥き出しの「地獄」だ。 強い者が弱い者を喰らい、愛する者のために平気で他者を蹴落とし、泥水をすすってでも明日を掴み取ろうとする。
なんと、「野蛮」なことか。
だが、皮肉なことに。 その隠そうともしない「野蛮」さこそが、あの陰湿な管理社会よりも遥かに人間らしく、そして――「素晴らしく」見えてしまうのだ。
さあ、始めよう。 この秩序ぶった「犬の国」で、俺たちという「野蛮人」が繰り広げる、舞踏会を。
国境を越え、数日。
一行は、「犬の国」の王都へと到着した。
そこは、優作の予想を裏切る光景だった。
「……綺麗だな」
石畳は整備され、市場には活気があり、行き交う人々の表情も明るい。
ペコが語っていた「力が全ての野蛮な国」というイメージとは程遠い、高度な法治国家の空気が漂っていた。
一行は、目立たないよう変装をしていた。
優作は行商人、スズとルカはその護衛、そしてペコは――
「なぜ、わたくしがこのような薄汚い布を被らねばなりませんの!?」
「一番顔が割れてるからだ。我慢しろ」
優作の指示で、フードを目深に被り、荷物持ちの「下女」に変装させられていた。
だが、ペコの不機嫌の理由は、変装だけではなかった。
彼女は、整備された街並みと、穏やかな民衆の顔を見て、吐き捨てるように言った。
「……臭いますわ」 「臭う? どこがだ。清潔な街並みだぞ」 優作が返すと、ペコは鋭い犬歯を覗かせて唸った。 「『家畜』の臭いですわ。……牙を抜かれ、首輪を自慢し合い、飼い主(宰相)から与えられる餌を待っているだけの、惰弱な家畜の臭い」
街の広場や酒場で情報を集めると、さらに皮肉な現実が浮き彫りになった。
クーデターを起こした現宰相――「ヴォルフガング」の評判が、すこぶる良いのだ。
「ヴォルフガング様のおかげで、やっと安心して商売ができる」
「ああ。前の『狂犬姫』の時代は酷かった。強い奴が食料を奪い、弱い奴は野垂れ死ぬ。あんなの、国じゃなくてただの獣の群れだったよ」
「法と秩序万歳! 賢帝ヴォルフガング万歳!」
民衆は、現体制を諸手を挙げて歓迎していた。
ペコが信じていた「力による統率(生存戦略)」は、平和を求める民衆にとっては「野蛮な搾取」でしかなかったのだ。
「……愚かな」
ペコが小声で唸る。
「平和ボケして、外敵への備えを忘れている。これでは、いざモンスターの群れや他国の侵略があった時、誰が戦うのです? 宰相の『法』が守ってくれるとでも?」
ペコにとって、この平和は「種の弱体化」に他ならなかった。
事件は、ふと立ち寄った大衆酒場で起きた。
優作たちが奥の席で食事をしていると、隣のテーブルの酔っ払い(犬人族の男たち)が、大声で議論を始めた。
「聞いたか? 地下でまた『旧王派』の残党が捕まったらしいぜ」
「まだいたのか、あの馬鹿ども」
男たちは下卑た笑いを浮かべた。
「『伝統』だの『誇り』だの、時代遅れもいいとこだ。「……だが、肝心の『王』が、あれじゃあな」 男は軽蔑を込めて吐き捨てた。 「ペコは強かった。それは認める。……だが、あいつは『やりすぎ』だったんだよ」
「……だが、肝心の『王』が、あれじゃあな」 男は軽蔑を込めて吐き捨てた。 「ペコは強かった。それは認める。俺たちだって、強い奴がトップに立つこと自体には文句はねえ。それが一番シンプルで、納得できるからな」
「ああ。だが、あいつは……『やりすぎ』だったんだよ」 男は声を震わせた。 「たかが骨付き肉を一本盗んだだけで、その場で首を刎ねられた奴がいたな。飢えていただけだとしても、盗みは盗み、死罪だと」 「人殺しの犯人もだ。理由も聞かず、裁判もなしに即決処刑だ。『殺した事実があるなら死ね』ってな」
「一番酷かったのは、大臣の息子の件だ。……あれは同情したぜ」 男は声を潜める。 「息子の恋人が、ある一族の男たちに乱暴されて殺されたんだ。息子は怒り狂って、復讐のためにその一族を全員殺して火をつけた」 「……まあ、息子の方もやりすぎと言えばそうだが、気持ちは分かる。俺たちだって、自分の女がやられたら同じことをするかもしれねえ」
「だが、ペコ様は聞く耳持たずだ。『私刑は秩序を乱す』の一点張りで、問答無用で息子の首を刎ねて、広場に晒した」 「大臣が泣いて命乞いをしても、顔色一つ変えなかったらしいぞ」
優作は、それを聞きながら、冷たい汗が流れるのを感じた。 (……極端すぎる) 現代日本のような複雑な法治国家も息苦しいが、事情や背景、人間の「感情」を一切無視して「ルール違反=即死」とするペコの統治は、あまりにも血が通っていない。 人間(あるいは獣人)が社会を作って生きる以上、「法」や「裁判」、そして「情状酌量」というクッションが、ある程度は必要なのだと心から思った。 それがなければ、それは統治ではなく、ただの「殺戮」だ。
男たちは、恐怖と嫌悪を込めてジョッキを叩きつけた。 「我々『いぬ族』も、思考が極端だとは言われるが……あいつはダメだ」 「ああ。全てを『処刑』で解決しようとする。……あいつは王じゃない。誰も抑えられない、ただの『狂犬』だ」
ブチッ。
何かが切れる音がした。
優作が止める間もなかった。
「……お黙りなさい、家畜共ッ!!」
ペコがフードを跳ねのけ、立ち上がった。
「誰が負け犬ですって!? わたくしは……この国の正統なる王、ペコ・レオ・ガウガウですわ!!」
「あ? なんだこのアマ……って、まさか本物!?」
男たちが驚愕する。
だが、次の瞬間には、彼らの体は宙を舞っていた。
ペコの拳が、男たちの顎を砕き、肋骨をへし折ったのだ。
それは単なる癇癪ではない。「牙を忘れた者」への、王としての鉄槌だった。
「ひ、ひぃぃ!」
「衛兵! 衛兵を呼べーッ!」
酒場は阿鼻叫喚の巷と化した。 「クソッ、やりやがった!」 優作は頭を抱えた。 「逃げるぞ! スズ、ルカ!」 「ったく、世話の焼ける姫様だ!」 スズが割って入り、駆けつけた店員や客を峰打ちで無力化する。
一行は酒場を飛び出し、路地裏へと駆け込んだ。
すぐに警笛が鳴り響き、街中に「不審者(旧王族)」の手配が回る。
もはや、正規の宿に泊まることなど不可能だった。
数時間後。
一行は、王都の地下深くに広がる、古びた下水道エリアに身を潜めていた。
湿気と悪臭が充満する、惨めな潜伏生活の始まりだ。
「……どういうつもりだ、ペコ」 優作は、座り込み、ペコを問い詰めた。 「お前の短気のおかげで、俺たちは『お尋ね者』だ。どう責任を取るつもりだ?」
ペコは、毅然と言い返した。 「民が間違っているのです! 彼らは、あの奸智に長けた大臣に、牙を抜かれているだけですわ!」 「牙を抜かれて、飯が食えるなら、それが幸せってもんだろ」 優作は冷静に突き放す。 「認めろ。お前のやり方は、もう流行らないんだよ」
「っ……!」
ペコは唇を噛み締め、膝を抱えた。
認めたくない。だが、突きつけられた現実はあまりにも重い。
優作はため息をついた。
この国は、二つの正義に引き裂かれている。
「安全だが去勢された宰相の秩序」と、「危険だが生命力に満ちたペコの野生」。
どちらが正しいかなんてどうでもいい。問題は、俺たちが「野生」の側についてしまったことだ。
「……とりあえず、ほとぼりが冷めるまでここだ」
優作は、暗い地下水路の奥を見つめた。
「サバイバル(泥沼)の再開だな」




