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『異世界人間失格 ~スキル【批評】持ちの独白~』  作者: 猫寿司
【第三章:あるいは、私という人間の泥濘(ぬかるみ)】

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『鎧』という名の小説

第三部:『鎧』という名の小説(改)

(「作文」という名の支え)


Sを裏切ったあの日、私は、人間関係というものを「修復不可能」なものとして、完全に諦めた。 もう「次こそは」などと、愚かな希望を抱くのはよそう。 私は、B君を殺し、Sを生贄に差し出した、ただの卑怯者なのだ。


(もう、誰とも関わらない) (俺は、Kの「玩具」として、卒業までの時間を耐えきる)


だが、そんな私にも、たった一つだけ。 この腐りきった「私」という存在の中で、唯一、誇れるものがあった。


それは、高校一年の秋、国語の授業で無理やり書かされた「人権作文」だった。 私は、いつもの「批評」癖で、それを書いた。 「『命は大切だ』『人は平等だ』などという偽善が、どれほど空虚なものか」 「結局、人間は自分より弱い者(B君やS)を踏み台にしてしか生きられない、醜いエゴの塊ではないか」 ……そんな、ひねくれた、絶望だけを煮詰めたような文章を、原稿用紙に叩きつけたのだ。


教師は、それを読んで、ひどく渋い顔をしていた。 だが、なぜか、その作文が学校の代表に選ばれ、市のコンクールで「佳作」の末席に入賞してしまった。


表彰状。 生まれて初めて、私が、他人から「評価」された、一枚の紙きれ。 運動も勉強もダメな私が、唯一、手にした「賞」。


それは、私の「唯一の心の支え」になった。 (俺は、間違っていなかった) (俺の、この「ひねくれた視点(批評)」は、凡人には理解できずとも、「わかる人間」には、わかるのだ) (俺は、「感性」を持っている人間なんだ)


(「小説」という名の鎧)


だから、私は図書館へ逃げた。 Kの暴力から逃れるため。そして、あの「佳作」の根拠を、さらに強固にするために。 古い校舎の、一番奥。埃っぽい聖域。 そこで、私は「彼ら」に出会った。 太宰。芥川。安吾。


彼らの文字を貪るように読んだ。 それは「感動」ではなかった。 それは「確認」だった。


(……ああ、ここに、俺がいた) (俺が作文に書いた「エゴ」や「卑屈」を、彼らは、とっくに芸術にまで昇華させていた)


私は、間違っていなかった。 私の「批評」は、賞にも値する「感性」なのだ。 「小説」は、私の最強の「鎧」であり、私を「選ばれた人間」だと証明してくれる「武器」になった。


私は、心の底から、Kたちを見下した。 (Kめ。お前は、ただの筋肉だ。お前が俺を殴る、その短絡的な暴力こそが、お前の「感性」の無さの証明だ) (Sもそうだ。無邪気に他人を信じるから、裏切られる) (俺は、違う。俺は、この世界の「本当の醜さ」を知っている。そして、それを「言葉」にできる)


Kに殴られ、腹の奥で内臓が震える時も、私は心の中で「批評」した。 (……なんと短絡的な暴力か。哀れな男だ) そう思うことで、私は、かろうじて「私(という名のプライド)」を保った。 Kは私の肉体を支配したが、私の「精神(感性)」だけは、誰にも触れさせなかった。


(「眺めるだけ」の女)


私の「鎧」は、ただ一人、機能しない相手がいた。 クラスメイトの、F子。 彼女は、この「収容所」の濁った空気の中で、一人だけ、清潔な光を放っていた。 物静かで、誰とも馴れ合わず、休み時間はいつも小さな文庫本を読んでいた。


私は、彼女を盗み見ていた。 だが、そこには「批評」が生まれなかった。 彼女の存在は、私の卑屈な「理屈」を、すべて無効化した。


(……きれいだ)


その感情が浮かぶたび、私は、激しい自己嫌悪に襲われた。 (よせ) (俺が、何を考えている) (俺の手は、B君を殴り、突き飛ばした手だ) (俺の口は、Sを裏切り、突き放した口だ) (俺のような、腐った人間の視界に、彼女を入れるな)


そして同時に、心の支えである「作文の賞」が、私に悪魔のようにささやくのだ。 (……だが、待てよ。彼女は、文庫本を読んでいる) (もしや、彼女なら、Kたちとは違う「感性」を持っているのでは?) (もしや、俺の、この「作文の賞」に値する「内面」だけは、理解してくれるのでは……?)


この、淡く切ない「憧れ」と、汚れた「自意識プライド」が、私の内部で衝突した。 私は、彼女への感情を、必死で「卑屈」に翻訳しようとした。 (どうせ、俺が話しかけたところで、A子と同じように、俺の「本質(醜さ)」に気づいて、俺を軽蔑するに決まっている) (彼女が読んでいるのが、俺の読んでいるような「本物(太宰など)」であるはずがない。どうせ、流行りの恋愛小説だ)


そうやって、私は、私自身から、彼女を遠ざけた。


(消しゴムと、敗北)


忘れもしない、二年の冬。 その日の放課後、教室には、珍しく私と彼女の二人だけになった。 静かで、まるで、この世に二人きりかのような、錯覚。


彼女が、席を立とうとした時。 机の上から、小さなプラスチックの消しゴムが、コツン、と音を立てて床に落ちた。 それは、転がって、私の机の、すぐ足元で止まった。


……時間が、止まった。


(拾え) 脳が、命令する。 (拾って、「どうぞ」と渡せ) (それだけだ。たった、それだけのことだ) (それができたら、俺は、何か……何かが、変われるんじゃないか? 次こそは……!)


私は、手を、伸ばそうとした。 指先が、震えていた。 B君を殴った手。Sから目をそらした、卑怯者の手。


(……この手で、彼女の物に、触れるのか?)


その瞬間、Kに殴られた腹の奥が、冷たく痛んだ。 Sを裏切った時の、あの嫌な汗が、背中を伝った。 そして、「作文の賞」というプライドが、私に囁いた。 (……もし、俺がこれを拾って、彼女に「無視」されたら? 「キモい」と思われたら? 俺の「感性」が、否定されたら?)


(……怖い) (人と関わるのが、怖い) (俺の、この唯一の「心の支え」が、壊されるのが、怖い)


私は、動けなかった。 金縛りにあったかのように、足元の消しゴムを、ただ、見つめることしかできなかった。


数秒が、永遠のように感じられた。 沈黙に耐かねたように、彼女が、おずおずと私の席までやってきた。 そして、私の足元で固まっている私を、不思議そうに(あるいは、薄気味悪そうに)一瞥いちべつすると、無言で消しゴムを拾い上げた。 そして、そのまま、カツ、カツ、カツ、と、小さな足音を残して、教室から出ていった。


……私は、一人、残された。


私は、ゆっくりと、自分の手を握りしめた。 (……見たか) (これが、俺だ) (俺は、消しゴム一つ、拾うことすらできない) (A子を拒絶し、Sを裏切った俺は、もう、誰かに手を差し伸べる資格すら、剥奪されたんだ)


「……ははっ」 乾いた笑いが、漏れた。 「……人間失格、だな」


私は、カバンから、読み古した太宰の文庫本を取り出した。 あの「作文の賞」の表彰状と同じ、ざらついた紙の感触だけが、私の「現実」であり、「鎧」だった。


もう、二度と、淡い期待など抱くものか。 私は、この「小説」という名の、冷たくて安全な「鎧」の中だけで、生きていく。 そう、決めた。

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