第32部 覚悟と蹂躙
地底の辺境。そこは、圧倒的強者である『竜族』の影に怯え、明日をも知れぬ村だった。
村人たちは『生存論理』という名の鎖に繋がれ、尊厳を差し出すことで、かろうじて生を繋いでいる。
そこへ迷い込んだのは、優作たちという名の『異物』。
彼らはまだ、この世界の絶望的なルールを知らない。あるいは、知ろうともしない。
一方で、破滅の足音は確実に迫っていた。
鬱蒼と茂る『巨大キノコの森』を切り裂くように、土煙を上げて疾走する影。
強靭な脚力を持つ『騎乗竜』に跨がり、獲物の匂いを嗅ぎつけた捕食者――竜族の姿があった。
彼らは村を目指す。暴力と蹂躙を、ただの日常として運ぶために。
そして今、その暴力が酒場の扉を押し開けた。
【第十章:酒場の決闘】
ズズズ……と、腹に響くような重低音が、床板を通して伝わってきた。
それは次第に大きくなり、複数の、巨大な生物が地を蹴る足音へと変わる。
遠くで誰かの短い悲鳴が上がり、すぐに途絶えた。
酒場の客たちが、一斉に動きを止める。
ジョッキを置く音さえしない。全員が、入り口の扉を凝視し、その顔からは血の気が引いていた。
空気そのものが、重く、冷たく澱んでいく。
これは、ただの訪問者ではない。捕食者が、餌場に現れた気配だ。
バン!!
観音開きの扉が、暴力的な音を立てて蹴り開けられた。
逆光の中に立つ影は二つ。
全身を硬質な緑色の鱗に覆われた、トカゲの頭部を持つ亜人――『竜族』だ。
一人は腰に太い革鞭をぶら下げ、もう一人は刃こぼれした無骨な手斧を肩に担いでいる。
「オイ、店主。約束の日だなぁ?」
鞭使いの竜が、裂けた口から長い舌をチロリと出し、カウンターの奥で凍りつくバーニィに下卑た声をかけた。
その爬虫類特有の縦に割れた瞳が、バーニィの背後に隠れようとするアニーを捉え、細められる。
「先月予約した『極上の品』……ちゃんと躾けてあるんだろうなぁ?」
「ひっ……!」
アニーが短い悲鳴を上げ、ガタガタと震えだす。
バーニィは顔面蒼白になりながらも、娘を庇おうと震える足を前に踏み出そうとする。だが、竜族が放つ圧倒的な捕食者のオーラに気圧され、声が出ない。
「……あ、あの、神官様……!」
バーニィが助けを求めるように視線を向けた先、店の隅にいた神官は、フードを目深に被り直し、気配を消すように俯いていた。
誰も、助けない。誰も、動かない。
それが、この村の『生存論理』。
(……来たか)
優作は、テーブルの下で竜族から奪った『剣』の柄を、静かに握りしめた。
酒場の空気は凍りついている。店主のバーニィも、神官も、他の客たちも、長年の『生存論理』に従い、目を伏せ、動かない。
竜族(鞭使い)は、カウンターで震えるアニーに向かって、ゆっくりと歩き出す。
「(……ここで見捨てれば、俺はあの時の俺と同じだ)」
「(……俺は、この村で『生き延びる』と決めた。そのためには、こいつらを倒す『覚悟』が必要だ!)」
優作は、テーブルを蹴立てるようにして立ち上がった。
「……待ちな」
その声に、アニーに向かっていた竜族(鞭使い)が、面倒くさそうに振り返った。
もう一人、手斧を持った竜族も、優作を値踏みするように睨みつける。
「なんだ、テメエ。地底人のクセに、俺たちに楯突くのか?」
手斧の竜が、嘲笑うように言った。
優作は、震える手で剣を抜こうとした。
だが、強い恐怖心が、胃の底からせり上がってくる。いや、違う。胃が縮み上がるというより、内臓全体が、あの時のように冷たく凍り付く感覚だ。
(……怖い)
これは、ザイアスと戦った時の「死の恐怖」とは質が違う。
これは、高校時代、神城恭一に体育館裏で腹を殴られ、泥水に頭を踏みつけられた、時の、あの『絶対的支配』への恐怖だ。
あの時の絶望が、鮮明にフラッシュバックする。
(……また『玩具』にされるのか)
(……ここでまた、何もできずに蹂躙されるのか)
足が鉛のように重くなり、地面に縫い付けられたようだ。呼吸が浅くなり、心臓だけが耳元でうるさく鳴っている。
優作の震えで、抜こうとする剣先が鞘の鯉口に何度も当たり、ガタガタと恥ずかしい音を鳴らす。
(……クソッ、抜け、ない……!)
その滑稽な姿を見て、手斧の竜が腹を抱えて笑った。
「はっ! 見ろよ、相棒。こいつ、剣もまともに抜けねえ!」
「いいぜ、俺が相手してやるよ」
手斧の竜は、鞭使いの相棒に「お前はそこで見てろ」と合図すると、手斧を肩に担ぎ、幸運なことに、優作のことを完全になめている様子で、一対一で向き直った。
鞭使いの竜は、つまらなそうに酒場の椅子にどっかりと座り込み、その二人の戦闘を実況観戦することに決めたらしい。
「おい、さっさと殺せよ! 俺はあの娘アニーを先にいただくぜ!」
(……一対一。……助かった)
優作は、恐怖の中で、唯一の勝機(相手の油断)を感じ取っていた。
だが、剣の訓練など受けていない。
(……これ、どうやって扱うんだ? 手斧よりリーチはあるが、あんなモンで叩かれたら、こんな剣、折れちまうぞ……!)
(……怖い)
(神城の、あの『目』だ。俺を『虫』として見下す、絶対的な支配者の目だ)
(またか。俺は、またここで、何もできずに……)
その時、カウンターの奥で、息を殺すアニーの気配を感じた。
(……ああ、そうだ)
(俺は、あの子を……『あの時(佐知子)』の俺を、見捨てないと決めたんだ)
(ここで逃げれば、俺は、神城に泥水を踏まれた『あの時の俺』のままだ)
(……和樹を殺し、クロウたちを裏切った、あの『俺』のままだ!)
(……もう、ごめんだ!)
(……来いよ、クソ野郎。『卑怯者(俺)』の『仕様』のまま、どう『抵抗』するか、見せてやる……!)
「死ねや、地底人!」
手斧の竜が、獣のような雄叫びを上げ、踏み込んできた。
(……遅い!)
その動きは、優作の目には致命的に遅く見えた。
距離感は、空手の経験から間合いの把握に慣れていた。優作は、相手の踏み込みと同時に半身になり、振り下ろされる手斧を紙一重でかわした。
「チッ!」
竜は、至近距離で避けられたことに苛立ち、獣のように吼えながら、二振り目を脳天から真下に振り下ろす。
優作はバックステップし、手斧の刃先が鼻をかすめるギリギリでかわした。
間髪入れず、竜は優作を仕留めようと大きく踏み込み、三振り目として手斧を袈裟斬りに振り下ろしてきた。優作は床を転がるようにして、それもかわす。
(……このままじゃ、ジリ貧だ……!)
空振りした竜の手斧は、勢いそのままに近くのテーブルを真っ二つに叩き割った。
木片が派手に飛び散る。竜は、渾身の力を込めた一撃を空振りさせられ、さらにテーブルを叩き割った反動で、一瞬体勢を崩す。優作はその隙を見逃さなかった。
(……今だ!)
優作は、床から跳ね起きると同時に、がら空きになった竜の胴(脇腹)へ、固い鱗もろとも、剣を渾身の力で突き刺した。
ブスリ、という鈍い感触。
「(……しまっ……!)」
脇腹に剣の刃が食い込んだらしく、剣は折れ、竜はしゃがみ込み動けない様子だ。
「……テメエ……!」
それまで椅子に座って面白がっていた鞭使いの竜が、相棒がやられたのを見て、その目を血走らせた。
「よくもやったな、クソ地底人がァ!」
鞭使いの竜は、椅子を蹴り倒し、優作に襲い掛かる。
(……マズい! 剣が折れた!)
優作は、武器を失い、後ずさる。
鞭の間合いまで詰めた竜が、優作を容赦なく滅多打ちにした。
ヒュンッ! バシンッ!
鋭い音が響き渡り、優作の肩や背中を、硬い鞭の先端が打ち据える。
「ぐっ……! ああっ!」
皮膚が割け、血が飛んだ。
優作はカウンターに叩きつけられ、片膝をつき、両手でガード姿勢を取ったまま動けなくなった。
「死ね」
鞭使いの竜は、鞭を捨て、優作に歩み寄った。
(……ここまで、か……!)
優作が死を覚悟した、その瞬間。
(……いや、まだだ!)
優作の間合いに入ったところ、優作は最後の力を振り絞り、ガード姿勢から起き上がって前蹴りを入れた。
「(食らえっ!)」
だが、竜は冷静だった。
「(無駄だ)」
竜は、優作の蹴り足をいなし、そのまま足首を掴むと、「フンッ」という鼻息と共に、カウンターめがけて投げ飛ばした。
「ガハッ……!」
背中からカウンターに激突し、酒瓶やジョッキが派手に割れた。
意識が飛びそうになるなか、必死に起き上がった優作の顔面に、今度は逃げ場のない強烈な飛び蹴りが叩き込まれた。
優作の目には、恐ろしい竜の形相と、吹っ飛ぶテーブルや食器、酒、料理が、スローモーションのように飛び散って見えた。
優作は、酒場の壁まで吹っ飛ぶと、そのまま崩れ落ちた。
(……もう……動けない……)
鞭使いの竜は、動けなくなった優作を見ると、ニヤリと笑い、動けなくなった相棒(手斧の竜)のそばに落ちている手斧を拾い上げ、とどめを刺そうと優作に向き直った。
「……終わりだ、地底人」
竜が、手斧を握りしめ、優作に歩み寄った。
その時だった。
カラン、カラン……!
観音開きの扉が、今にも壊れそうな勢いで乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、息を切らせたスズとルカだった。
「ユウサク!」
二人は、外での偵察中に村へ侵入する巨大な影――竜族の姿を目撃し、優作の危機を悟って全速力で戻ってきたのだ。
だが、店内に踏み込んだ彼女たちの目に飛び込んできたのは、血まみれで壁際に崩れ落ちた優作の姿だった。
「(……ルカ……スズ……)」
優作は、霞む目で二人を見た。
鞭使いの竜が、獲物を邪魔されたことに苛立ち、二人に向き直る。
「なんだ、テメエら。このクズの仲間か!」
ルカがボーガン(通常矢)を構える。だが、スズは構えるでもなく、ただ、竜に向かって、ごく自然な振る舞いで、ふらりと歩き出した。
それは、まるで旧知の仲間に近づくような、あるいは、竜の遥か先にある何か(・・・・・)に向かって歩いているかのような、奇妙な歩みだった。
必然のようであり、偶然のようでもある。
その歩みはあまりにも『戦闘』からかけ離れていたため、手斧を持ったまま鞭使いの竜は、スズがなぜ自分に近づいてくるのか理解できず、警戒することすら忘れて、その不自然で自然な姿で竜に近づいてくるスズを、ただ立ちすくんで眺めていた。
(……なんだ、こいつ……?)
優作にも、その光景は理解できなかった。
スズが、竜の間合いに、無防備に入り込んだ、その刹那。
スズの腕が、閃光のように煌めいた。
一閃。
「……え?」
竜は、自分が何をされたのか、分からないという顔をしていた。
次の瞬間、竜の首が胴体と離れていた。
ゴトリ、と重い音を立てて首が床に落ち、胴体が血を噴き上げながら崩れ落ちる。
酒場は、静まり返った。
そこには、無表情で冷たい瞳のスズが、剣の血を払いながら、立っていた。




