第二十五部:『試練』の前日
夜明け前のコンテナは、底冷えがしていた。
優作は、硬い板の床の上に、丸めたボロ布を枕に横たわっている。眠りは浅く、常に『死』の予感が、胸の奥で**冷たい杭**となって脈打っていた。
(……明日。……工場へ行く)
(……汚染の嵐と、巨鳥と、洞穴の民。あの全てが、俺の命を狙っている)
彼は、左手で、昨夜トキから渡された『ボーガン』を汗ばんだ掌で握りしめた。デイヴという男の『形見かたみ』だと聞かされた、古い弓型の武器。錆さびてはいるが、まだ使える。
彼の傍らで、ピュティアのホログラムが、いつものように無邪気な子供の姿で浮遊している。
「優作、お前の**『苦しむ本能』は、今や『無駄なノイズ』**でしかないよ。その故障をどうするか、ボクにデータを見せて」
優作は、ピュティアを無視した。
逃げることは、いつでもできる。だが、逃げた先には、再びあの『ゴミ溜め』が待っている。あの『無』に沈む地獄だけは、もう二度と御免だった。
彼は、目を閉じ、己の『過去』に意識を集中させた。『和樹かずき』の**『哀しい視線』**が、鉄鎖のように彼の背中に張り付いている。
(……あの『罪』を背負って、ゴミ溜めで朽ち果てる、という『選択』は……嫌だ。もう、二度と屈服しない)
優作は、目をカッと開いた。その目に、恐怖を焼き払い、逃避ではない、微かな『意志』が宿る。
【作戦会議】
夜が明け、優作はツリーの中層にあるアトラスのコンテナへ呼ばれた。
彼は、湿った鉄梯子を登り、アトラスの居住区であるコンテナの扉を叩いた。
重い鉄扉が開くと。内部は外の寒さとは一転、暖房器具とフィルターの駆動音で満たされていた。アトラスとトキ、ルカの三人は、まるで葬儀の参列者のように、無言で、壁に貼られた『粗雑な地図』を囲んでいる。その緊迫した空気に、優作は唾つばを飲んだ。
アトラスは、優作が**『住環境』として認識していた集落が、実は『汚染空気から逃れるための旧文明の巨大な構造物』**の一部を再利用したコンテナ群であることを改めて説明し、その『機能』を明確にする。
コンテナの壁には、手書きの『粗雑な地図』が貼られている。村と工場跡地を結ぶ線と、いくつかの印。
アトラスは、無精髭を撫でながら、重い口を開いた。
「優作。巨鳥の脅威が増している。正規ルート(峠)が、これまで通り安全とは限らん。全員で情報を共有し、最善の策を練る」
アトラスは、地図上の太線(正規ルート)を指差す。
「正規ルートは、旧時代の線路跡に沿っている。最も距離が短いが、巨鳥の縄張りのど真ん中を突っ切る。また、洞穴の民の定期便と鉢合わせするリスクが高い」
次に、ルカが薄い点線(獣道)を指差す。
「獣道は、大きく迂回するため体力の消耗が激しく、汚染された空気がこもりやすい。水は問題ないが、野生生物のテリトリーだ」
アトラスは、優作の顔をじっと見つめ、口を開いた。
「優作。村は、『正規ルート』を強く推奨する。だが、現場での判断は、お前に任せる。お前の『臨機応変さ』が、この試練に投じた村の備えを無駄にするか否かを決める。その結果に対する全責任は、お前が負え」
ルカが前に出る。
「獣道は、洞穴の民と鉢合わせしないように、一度使いました。でも、汚染された空気がこもりやすく、低体温症のリスクも高い。私たちでもギリギリだった」
トキが簡潔に、しかし重々しく口を挟んだ。
「優作。正規ルート(峠)は、熟練者の知恵と技術が必要だ。獣道は、それ以上に『野生の生存術』が必要だ。お前の判断に委ねる。――生きて帰れ」
【忠告と対策】
優作は、アトラスたちに背を向け、コンテナの出口へ向かって歩き出した。その背中に。
アトラスは、静かに、悔恨を押し殺すような声で言った。
「優作。待て。……最後に、お前に渡すものがある」
優作は、立ち止まり、アトラスの方へ身体を戻した。
「資源戦争後は雨が降らなかった。この雨がもたらす最大の敵は、巨鳥でも洞穴の民でもない、低体温症だ」
アトラスは、優作の目を見て続けた。
アトラスは、無言で、汚れたリュックの奥から、折り畳まれた一着の雨衣を取り出した。それは、旧文明の軍隊で使用されていた特殊な防水素材でできた、彼自身のものだった。
「これは、俺が個人的に持っていた最後の防寒具だ。村の備蓄ではない。体温を奪われる冷たさから、お前を最低限守る。……必ず、必ずこれを着て、生き延びろ」
優作は、その雨衣をまるで重い命令のように手に取り、無言で身体に巻きつけた。
「……分かった」(――この命を、確かに預かろう)
【最終の屈辱と門出】
優作は、アトラスのコンテナを出て、湿った梯子を降り、広場へと戻った。
小雨の中、ツリーの根本で、彼は粥を配るスズの列に並んだ。
スズは、背が高く、短い黒髪をきつく結んだ精悍な容姿をしていた。彼女の顔には化粧の気配はなく、瞳は常に冷たく澄んで、感情の動きを一切映していなかった。
そのスズは、優作の目を直視し、感情の欠片もない声で、「無駄死にするな」と冷たく言い放つ。
優作は、粥を食べ終えると、井戸の木の防風林の切れ目へと向かう。
トキが、その切れ目の内側に立っている。その顔は、緊張で強張り、何も言えずにいる。
「ボーガンだけは、必ず持って帰ってこい。……デイヴの形見だ」
優作は、二度と振り返らず、井戸の木の切れ目を抜けた。
外の世界は、空へ**『逆流するシャボン玉』と『黄土色の泥濘ぬかるみ』と『冷たい小雨』**に満ちていた。全てが、彼の帰還を拒んでいるかのようだった。
彼は、工場跡地へ続く**『砂漠の峠』**へ向けて、使命を背負った男の重い一歩を踏み出した。




