『風景』という名の獲物
『風景』という名の獲物
(入学と、最初の「次こそは」)
私の「自己」が崩壊したあの中学時代は、B君の幻影と、涙で滲む天井を眺めるだけの無為な日々を経て、終わった。 そして、私は、この商業高校の門をくぐった。 地元で「収容所」と揶ASされる、最底辺の掃き溜め。 私の成績で、いや、私の「存在」で、行くことが許されたのは、ここだけだった。
入学式の日、体育館に響く、何を言っているのか聞き取れない学校長の退屈な祝辞を聞きながら、私は、生まれて初めて、明確な「決意」をしていた。
(次こそは、失敗しない)
それは、ヒーローになるだとか、友人を作るだとか、そんな前向きなものでは断じてない。 その逆だ。
(もう、誰とも関わらない) (もう、「批評」も「虚勢」も、一切捨てる) (俺は「風景」になるのだ。教室の壁紙。廊下の床のシミ。誰の記憶にも残らず、誰の視界にも入らない、ただの「モノ」になる)
B君を殺し、Cに裏切られ、D君を見捨てた私(優作)には、それ以外の生き方が許されるはずもなかった。 「風景」になること。 それが、私が私に課した、唯一の「罰」であり、そして、あの地獄(中学時代)を繰り返さないための、唯一の「防衛策」だった。
(葛藤と、崩壊する防衛策)
私は、実行した。 教室では、常に最後列の窓際(そこが私の指定席だったのは、奇跡的な幸運だった)に座り、視線は、窓の外の、ひび割れたコンクリートだけを見つめ続けた。 教師に名前を呼ばれれば(教師も、この学校の生徒に何も期待していないので、滅多に当てなかったが)、聞き取れるか聞き取れないかの声で「……はい」とだけ答えた。 廊下を歩く時は、常に床の一点を見つめ、誰の視線とも合わないよう、壁伝いに、幽鬼のように移動した。
(そうだ、この調子だ。俺は「風景」だ。俺は「モノ」だ) (誰も俺を見るな。俺に関わるな。俺は、お前たち(クラスメイト)に、何の害も与えない。だから、頼む。俺を『存在しない者』として、扱ってくれ——)
だが、私は、根本的なことを見誤っていた。 ここは「普通の」学校ではない。「収容所」だ。 そして、野生の動物園において、「異常なまでに音を立てず、異常なまでに他者から目をそらし、ビクビクと壁を伝って歩く生き物」は、「風景」などではない。
それは、最も目立つ、「獲物」の目印だった。
入学から、三日目。 教室移動の際、私がいつものように壁際を歩いていると、目の前に、大きな影が立ち塞がった。 野球部員、K。 スポーツ推薦で入学したという、この掃き溜めにおける「王」。 筋肉の鎧をまとった彼は、私を見下ろし、面白そうに言った。
「お前、なんかキモいんだよ」
……心臓が、凍った。 中学時代の、あのヤンキーたちの、嘲笑う目がフラッシュバックする。 (違う、やめろ、俺を見るな) 私は、パニックになり、Kの脇をすり抜けようとした。 その瞬間、Kは、わざとらしく足を引っかけた。 私は、みっともなく床に手をついた。
「あ、ワリイ。そこにいたのか。風景すぎて見えなかったわ」
周囲から、乾いた笑いが起きた。 私は、何も言えず、立ち上がり、逃げるようにその場を去った。 背中に、Kの満足げな視線が突き刺さっていた。
(なぜだ?) 私は、トイレの個室に駆け込み、荒い息をついた。 (俺は「風景」になろうとしただけだ。俺は「モノ」になりたかっただけだ。なぜ、それが許されない? なぜ、俺は、呼吸することすら許されないんだ……!) 「風景」になるという私の「次こそは」という決意は、たった三日で、最悪の形で裏切られた。
(生々しい暴力と、恐怖の記憶)
地獄は、また始まった。 だが、中学時代のヤンキーのそれとは、質が違った。 Kの暴力は、「秩序」の顔をしていた。
教室での「足かけ」や「肩突き」は、常に「冗談」や「事故」として処理された。 私が購買でパンを買おうとすると、彼は私の前に割り込み、店のおばちゃんに愛想よく笑いかける。 「おばちゃん、俺、野球部。腹減って死にそう。先にくれる?」 おばちゃんは「はいよ、Kくん。練習えらいねえ」と笑い、私を無視する。 Kは、私を「公的」に「存在しない者」として扱うことで、私を社会的に抹殺し始めた。
そして、暴力は、人目につかない場所で、生々しさを増していった。
トイレで用を足していると、隣に来たKが、私の顔を覗き込む。 「……小さいな、お前の」 私が慌てて隠すと、彼は「キモ」と吐き捨て、私の肩を壁に強く押し付けた。 「なあ、お前、中学で何やったんだ? B君? だっけ?」
——噂は、この「収容所」にまで届いていた。 私は、B君の名を聞いた瞬間、全身の血が逆流するような感覚に陥った。 「……し、知らない」 「嘘つくなよ。お前がやったんだろ?」 Kは、笑っていた。 そして、次の瞬間、何の予備動作もなく、私の腹部を、軽く、しかし芯に響くように殴った。
「ぐっ……!」 息が詰まる。 胃の内容物がせり上がってくる感覚。 中学のヤンキーに殴られた時の、あの鈍い「音」と、鉄の味のする「痛み」が、鮮明に蘇った。 違う。 決定的に、違う。
中学のヤンキーは「無法者」だった。 だが、Kは「野球部員」だ。この学校の「秩序」そのものだ。 俺が何を訴えても、教師は、Kの「スポーツマンとしての将来」と、俺の「B君を殺したという過去(と噂される異常さ)」を天秤にかける。 そして、必ずKを選ぶ。
俺には、逃げ場がない。 あの駄菓子屋で、幼馴染を裏切った私と、今の私の立場は、完全に逆転した。 俺は、誰からも信じてもらえない、「札付きの悪(キモい奴)」なのだ。
Kは、私の髪を掴み、顔を上げさせた。 「おい、なんか言えよ。お前、口だけは達者なんだろ? あ?」 その目は、楽しんでいた。 私という「玩具」を、どう壊してやろうかと、無邪気に楽しんでいる目だった。
私は、恐怖に支配された。 「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」 万引き事件の時と同じだ。私は、ただ震え、謝ることしかできない。
(耐えろ) 涙が溢れそうになるのを、必死でこらえた。 (耐えるしかない。これは「罰」なんだ。俺が、B君にしたことの、D君を見捨てたことの、当然の「罰」なんだ) (そうだ、俺は罰を受けているんだ。耐えれば、いつか……いつか、この地獄も、終わるはずだ……)
私は、そう自分に言い聞かせながら、Kが満足して立ち去るまで、床にうずくまり続けるしかなかった。 高校生活は、まだ始まったばかりだった。




