第二十部:こころのかけら(あるいは、矛盾の克服)
『高校』エリアの空気は、『中学』のそれよりわずかにマシだった。
だが、優作にとっては、むしろ今が本当の『地獄』だった。
目の前には、無彩色の教室の中心に座る『影』。
『中学』のヤンキーたちとは違う、冷徹な『支配者』の圧。
『(……こいつが、俺が空手を始めた理由……)』
怒り、恐怖、そして『克服』したはずの記憶が蘇る。
その『影』が、ゆっくりと輪郭を結ぶ。
背は高いが、ヤンキーのようなだらしなさは微塵もない。きっちりと着こなした制服。無駄のない筋肉質な体躯。
そして、常に他人を見下し、値踏みするような、冷たい一重の目。
『K』――神城 恭一。
彼こそが、優作が『中学』の屈辱の末に、『力』を渇望した相手だった。
だが、それ以上に。
背後、数歩下がった場所に、あの『和樹(B君)』が、亡霊のように、無表情で立ち尽くしている。
その『無』の視線が、優作の背中に突き刺さっている。
『(……和樹が、見ている……)』
「さあ、シミュレーション開始だ」
ピュティアが、高みの見物を決め込むように、教室の隅で浮遊した。
「お前が『暴力の連鎖を断ち切った』と自負する、輝かしい『高校デビュー』の記憶だ。……さっきから『設定』がおかしいぞ、優作。ちゃんと『ログ』を再生しろ」
神城(K)が立ち上がり、優作の胸ぐらを掴む。
過去の再生だ。
『――おい、優作。お前、口だけは達者なんだってな』
神城の冷徹な嘲笑が響く。
『(……立て! 戦え!)』
内側から『ヒーロー(理想)』の声が響く。
『(……今のお前なら、中学の時のようにやられはしない! お前が身につけた『力』を見せろ!)』
そうだ。俺は、こいつを倒せる。
優作は、ハッキリとした輪郭を取り戻した『手』を、拳として握りしめた。
だが、その瞬間。
背後の『和樹』の視線が、拳を握ったその『手』に、突き刺さった。
「(……あ……!)」
優作は、凍りついた。
この『拳』は。
この『力』は。
『中学時代』、ヤンキーに殴られた『屈辱』を、『和樹』の腹を蹴り上げることで『転嫁』した、あの『暴力』そのものではないか。
『(……この手で……この力で、神城を殴ったら……俺は、あの時(中学)と、何が違うんだ……?)』
『ヒーロー』が『(殴れ!)』と叫び、
『和樹』が『(……その手で、俺を殴った……)』と無言で訴えかける。
「(……だめだ……殴れない……!)」
優作の『葛藤』を、神城は見逃さなかった。
『――ほらな、口だけだ』
神城の拳が、優作の顔面を捉えようと迫る。
「(……!)」
『和樹』への罪悪感で、体が動かない。
だが、殴られれば、また『中学時代』と同じだ。あの『屈辱』が戻ってくる。
あの『屈辱』こそが、俺に『和樹』を殴らせた元凶じゃないか。
「(……殴らない。……だが、殴られもしない!)」
「(……中学の時のように、一方的にやられて、その『屈辱』を、また誰か(和樹)に向けるのだけは、もうごめんだ!)」
「(……これは『暴力』じゃない。俺が『自殺』しないための、『抵抗』だ!)」
神城の拳が迫る。
優作は、もう『中学時代』の彼ではなかった。
彼は、神城(K)の『暴力』によって自殺寸前まで追い詰められ、救いを求めて『高校』で入った空手道場で、生き延びるための『手段(技術)』を、一心不乱に身につけていたのだ。
[道着姿で腕を組む、厳しい目つきの師範の画像]
「(……師範……)」
当時の優作は、神城への『恐怖』と『復讐心』に燃え、ただ技術だけを渇望していた。師範がどんな目で自分を見ていたかなど、気にしたこともなかった。
だが、『今』、この『地獄』の中で、記憶の中の師範の『目』を思い返す。
「(……そうだ……あの人は、俺が復讐心でサンドバッグを殴り続けていても、止めもしないし、叱りもしなかった。……ただ、見ていた……?)」
「(……あれは……『温かい目』……だったのか? 俺が、俺自身の力で『抵抗』するのを……見守ってくれていた、とでもいうのか……?)」
「(……俺は、ただ『技術』だけを盗んでいたつもりだった。……だが、あの人は……!)」
師範は、弱者が強者に抵抗するための『技術』を、ただ黙々と叩き込んでくれていた。
優作は、その『技術』で、神城の拳を『受け流し』――踏み込んだ!
「(……俺は、お前の『言いなり』には、ならないッ!)」
叩き込まれた、一切の容赦がない、体重の乗った『ローキック(下段蹴り)』が、神城の影の太腿を完璧に捉えた。
『グッ……!?』
神城の影が、初めて『驚愕』と『苦痛』に顔を歪め、バランスを崩して『泥』の中に崩れ落ちた。
『(……なんだ……こいつ……!)』
『支配者』であった神城が、初めて『敗北』した瞬間だった。
『影』は、チリチリと音を立てて『靄』へと戻っていく。
「……へえ。やったじゃないか。復讐完了、ってとこか」
ピュティアが、つまらなそうに言った。
教室の真ん中に、四つ目の『こころのかけら』が、静かに光っていた。
「ミッションクリアだ。『抵抗する手段(あるいは、弱者の武器)』のかけら、ゲット」
優作が『かけら』に触れる。
【変化】――『両足』の輪郭がハッキリとし、『泥』の中に、完全に『自分自身の足』で、よろめくことなく立ち上がることができた。
「(……立った……! やった……俺は、『K』を克服した……! 『力(技術)』で、あいつを倒したんだ……!)」
彼は『ヒーロー』のようにはなれなかったが、『中学』の自分とは違い、一方的に殴られなかった。
その『達成感』を胸に、彼は、振り返った。
そこには。
相変わらず、『和樹』が、無言で、無表情で。 優作が『K』を克服したその『達成感』を、冷ややかに見つめている。
優作の『達成感』が、急速に冷えていく。
「(……そうか……そうだよな……)」
優作は、ハッキリとした『足』で立っている。
だが、その『足』は、神城を蹴り倒した『足』は、あの『中学時代』に、ヤンキーから受けた屈辱を、『和樹』の腹を蹴り上げることで『転嫁』した、あの『足』だった。
「(……俺がKに『正当な抵抗』で勝ったとしても……お前(和樹)を、この『同じ力』で殴った『事実』は、何も、変わらないんだ……!)」
その時。
ずっと『無言』を貫いていた『和樹』の亡霊が、初めて、その青白い唇を開いた。
その声は、憎悪でも、悲しみでもなく、ただ、凍てついた『事実』だけを告げる声だった。
『(……お前は……抵抗できたんだな)』
「(……あ……かずき……?)」
『(……その『力(空手)』で……ちゃんと、抵抗して……お前は、『自殺』を回避できたんだ)』
「(……ちが……俺は……!)」
『(……お前は、抵抗できた)』
『(……俺は、抵抗できなくて、自殺した)』
「(………………ッ!)」
優作は、言葉を失った。
これこそが、彼が目をそらし続けてきた、この『地獄』の核心。
『ヒーロー(理想)』でも『K(被害)』でもない。
『(……お前は、助かった)』
『(……俺は、助からなかった)』
『(……お前は、俺を殴った、その『力』で……自分だけ、助かったんだ)』
「(……ああ……ああああああああああああっ!)」
『矛盾』が、和樹の『言葉』となって、優作の精神を内側から引き裂く。
優作は、せっかく立ち上がった『足』の力を失い、再び『泥』の中に膝から崩れ落ちた。
「……あーあ。ついに核心、言われちまったな」
ピュティアが、その無様な姿を見下ろし、楽しそうに『高校』エリアの出口を指差した。
『一本道』の先に、最後の『靄』が見えていた。
その奥から、警報の音と、炎の匂いが、かすかに漂ってくる。
「さあ、最後のエリアだ。お前が、この『異世界』に来る直前に、見捨てた『過去』」
「『佐知子』のエリアだ」
優作は、『K』を克服した『達成感』の全てを和樹の『言葉』によって粉砕され、背後にその『矛盾』の亡霊を背負ったまま、最後の『地獄』へと足を踏み出さなければならなかった。
(第二十部、了)




