第十七部:こころのかけら(あるいは、加害者の校舎)
『ヒーローの墓場』の奥に開けた『一本道』は、『泥』がさらに深くなっているように感じられた。
優作は、ハッキリとした輪郭を取り戻した『手』で、重くなった泥をかき分けるようにして進む。
ピュティアは、その数歩先を、相変わらず何の影響も受けずに浮遊している。
『靄』を抜けると、風景はまた一変した。
そこは、優作が最も忌み嫌う記憶の場所――無彩色の『校舎』だった。
鉛色の『天井』は、教室のそれよりもさらに低く、圧迫感がひどい。
灰色の廊下はどこまでも続き、しかし、そこに『K』の嘲笑は響いていない。
壁に『黒い染み』はなく、ただ、異常なほどの『静寂』が、このエリアを支配していた。
まるで、全ての音が『泥』に吸い込まれてしまったかのようだ。
「(……静かすぎる……。だが、ここは……間違いなく、あの『中学』だ……)」
優作は、この『静寂』こそが、『K』の暴力よりも恐ろしいものであることを知っていた。
ピュティアが、廊下の突き当たりを指差した。
そこには、固く閉ざされた『トイレの個室』が、一つだけポツンと存在していた。 [薄暗い廊下の奥に固く閉ざされたトイレの個室の画像] その『ドア』だけが、周囲の風景とは異なり、異常なほどの『重圧(強い筆圧)』で黒々と描かれている。 まるで、世界中の『絶望』を、あのドア一枚で表現しているかのようだった。 ここだけが、このエリアの全ての『重さ』を引き受けていた。
「(……あ……あ……)」
優作は、内側からこみ上げる『汚泥(罪悪感)』に襲われ、その場にうずくまった。
忘れたかった。いや、忘れたフリをし続けてきた、『加害』の記憶。
ドアの隙間から、か細い『声』が聞こえてくる。
『(……なんで、あんなことをしたんだ……?)』
『(……死ねよ、って……言ったよな……?)』
「(……ダメだ……見たくない……!)」
優作は、再び『泥』の中に逃げ込もうとする。
その時。
優作の『内側』から、激しい『怒り』に満ちた『声』が響いた。
『(……立て!)』
黙り込んだはずの、『ヒーロー(理想)』の声だった。
その声は、もはや優作を『なぜなれなかった』と問うてはいなかった。絶対的な『断罪』だった。
『(……お前は、俺が最も憎むべき『悪』そのものではないか!)』
「(……! ……違う! 俺は……俺は、追い詰められてて……!)」
『理想』に断罪され、優作の精神が『フリーズ』しかけていた。
「……あーあ。最悪のコンボだ」
ピュティアが、その様子を面白くなさそうに眺めている。
「言わんこっちゃない。『理想』が、もうお前の『邪魔』をしに来たぞ」
「(……邪魔……?)」
「そうだよ。そいつ(理想)は、『お前は悪だ』と『断罪』する。……だがな、優作。お前は『ヒーロー』にも『悪』にもなりきれない、ただの『卑怯者』だ」
ピュティアは優作の目の前にしゃがみ込む。
「だから、選べ。『ヒーロー』に断罪されて『フリーズ』するか、『卑怯者』のまま、この『地獄(加害の事実)』を『選び直す』か」
優作は、『理想』の声に頭をかき乱されながらも、震える『手』で、かろうじて『個室』の方を指差した。
これこそが、自分の『地獄』の正体だったからだ。
「……ふーん。一番見たくない『ゴミ』から拾うとはな。……まあ、妥当な判断だ」
ピュティアが立ち上がり、『個室』のドアに触れる。
風景が歪み、『シミュレーション』が開始された。
そこは、放課後の薄暗い廊下だった。
『ヤンキーグループ』の姿はどこにもない。
ただ、『彼(B君)』が、一人でうずくまっていた。
過去の優作は、その姿に気づいていた。
そして、『ヤンキーグループ』から受けた屈辱を転嫁するように、あるいは自らの『歪み』のままに、『彼』に近づいていった。
『(……おい、またやられたのかよ。……ダッセーの)』
『(……お前が、そんなだから……)』
『(……死ねよ。お前が生きてる価値、あんの?)』
過去の自分が、『ヤンキーグループ』が使う直接的な暴力とは質の違う、より陰湿な『言葉の暴力』を、『彼』に投げつけている。
「――そこでストップ」
ピュティアの声が響き、時間が止まる。
「それがお前の『過去』だ。お前は『加害』を選んだ」
「(……俺は……最低だ……)」
「『理想』なら、こんなこと、絶対にしないだろうな」
ピュティアの言葉が、優作の胸に突き刺さる。
「(……!)」
「だが、お前は『ヒーロー』じゃない。……どうする、優作? お前に『今』できる選択(IF)は、何だ?」
『ヒーロー』の声が、頭の中で『(……許されない!)』と叫ぶ。
お前がしたことは、取り返しがつかない、と。
「(……うるさい!)」
優作は、初めて『理想』に向かって、心の中で叫び返した。
「(……俺は、お前じゃない! ……許されなくても……!)」
優作は、震える足で、凍りついた時間の中を歩き出す。
『IF』を選んだ。
彼は、うずくまる『彼』の前に立ち、言葉を投げつける代わりに、深く、深く、頭を下げた。
「(……ごめん……なさい……)」
たった、それだけだった。
『加害』することをやめ、『謝罪する』という、ちっぽけな『選択』。
『彼』の影が、ゆっくりと顔を上げる。
その顔は、もう『のっぽらぼう』ではなかった。
輪郭がハッキリとし、優作の記憶が『蓋』をしていた、彼の本当の姿がそこにあった。
細いフレームの眼鏡。
いつも少し怯えたように揺れていた、大きな瞳。
栄養が足りていないのか、青白い頬。
優作が『中学編』のファイルで『B君』と呼んでいた、『和樹』の姿だった。
和樹は、戸惑っているように見えた。
優作の『謝罪』の意味が、理解できないという顔をしている。
『(……なんで……お前が……)』
「(……俺が、バカだった。……弱かったんだ。……本当に、ごめんなさい……)」
和樹は、何も言わなかった。
ただ、その大きな瞳から、一筋だけ『無彩色の涙』がこぼれ落ちた。
その『涙』が『泥』に落ちた瞬間、固く閉ざされていた『個室のドア』が、パキリ、と音を立てて『ヒビ割れた』。
ドアの隙間から、二つ目の『こころのかけら』が、静かにこぼれ落ちた。
「……ふーん。『罪悪感』じゃないか。……『自分の罪を認める(あるいは、謝罪する)勇気』。それがお前の二つ目のかけらだ」
ピュティアが、相変わらずの口調で言った。
優作がその『光』に触れると、今度は『胸』のあたりが、凍っていた何かが解けるように、少しだけ温かくなった気がした。
【変化】――優作の『胴体』の輪郭が、少しだけハッキリとした。
『泥』に沈んでいた体が、わずかに浮き上がる。
「(……これが……俺の……)」
「そう。お前が『加害者』である自分を正当化するために、捨てていた『かけら』だ」
優作が『かけら』を回収し終えると、校舎の『静寂』が、わずかに和らいだ気がした。
『個室のドア』は、まだヒビが入ったままだが、あの『声』はもう聞こえなくなっていた。
「ミッションB(加害者の克服)はクリア。……おめでとう、優作」
ピュティアは、優作の背中を軽く押した。
「お前の『一番の地獄』は、これで一区切りだ。……だが、まだ『被害者』としての記憶も残ってるだろ?」
ピュティアは、壁の『黒い染み』がなかったはずの場所を指差す。
そこには、今までなかった『靄』が生まれ、次の『一本道』が姿を現していた。
『靄』の奥から、今度こそ、あの『ヤンキーグループ』の嘲笑が微かに響いてくる。
「次が、お前を殴った『ヤンキー』のエリアだ。お前が『断ち切った』っていうなら、さっさとクリアできるんだろうな?」
ピュティアが、意地の悪い笑みを浮かべた。




