第十四部:『デバッグ』(あるいは、私という人間の「仕様」)
その喧騒の全て――ルカの『歌』も、ナナミの『伴奏』も、子供たちの『歓声』も、遠く『ゴミ溜め』まで届いていた。
だが、優作は、あの『ゴミ溜め』で、まだ『フリーズ(抑うつ)』したままだ。
彼の耳にも『宴』の音は届いている。だが、それはもはや『現実』として認識できない、遠い『ノイズ』でしかなかった。
『虫』が体を這う感触も、『汚物』の悪臭も、すべてが『無』に溶けていた。
彼の傍らで、ピュティア(AI端末)が、その『無』に沈む優作を、静かに見下ろしていた。
そのホログラムの姿は、いつもの『無邪気な子供』のままだったが、その『声』は、冷たく、無機質で、論理的な『AI』そのものの声に変わっていた。
「……ねえ、優作。もう『リビリ(観察)』は、飽きたんだ」
「……今から、お前の『デバッグ』を、強制的に開始する」
その『宣言』は、ゴミ溜めの優作に届いたのではない。
優作の『意識』は、冷たく、重い『水の底』に沈んでいた。
手足には、見えない『泥(自己嫌悪)』が絡みつき、もはや自分の身体の輪郭すら曖昧だ。
何も感じない。何も考えない。『無』であることだけが、唯一の『安息』だった。
そこへ、ピュティア(寄生型インターフェース)が、優作の『脳(精神)』に、直接『実行』したのだ。
ブツリ、と。
『安息(無)』が、強制的に断ち切られた。
『水の底』を、眩しすぎる『サーチライト』が切り裂き、優作の『意識』は、その『苦痛』の中に引きずり出されていた。
『――優作! 助けて!』
そこは、現代日本。あの臨界事故の工場。
炎と警報の中、床に倒れ、鉄骨に足を挟まれた同僚、佐知子の姿が『再生』される。
彼女が、絶望と懇願の目で、こちらに手を伸ばしている。
『……(ダメだ、助からない、俺も死ぬ)』
あの時の優作は、彼女の手を取らず、その場から逃げ出した。
『――卑怯者!』
場面が変わる。高校時代。
Kに殴られ、蹴られ、虚勢を張っては裏で『批評』し、何もできなかった自分の姿。
『サーチライト(ピュティアの声)』が、無理やり『記憶』を照らし出す。
『水の底』に沈む優作は、その『光(論理)』から逃れようと、さらに深く『泥(無)』の中へ潜ろうとする。
「(やめろ……やめてくれ……)」
優作は、意識の中で呻く。
だが、ピュティアの『デバッグ』は止まらない。
「……観測完了」
暗闇の中で、ピュティアの『冷徹な声』だけが響き渡る。
「以上が、お前(優作、ID:T-815)の精神ログから抽出した、コア・プログラム……お前が『自己嫌悪』と呼び、フリーズの原因としている『バグ』の正体だ」
「だが、優作。これは『バグ』ではない」
「これは、お前の『仕様』だ」
「お前は、『臆病』だ。だから、K(脅威)から逃げ延びた」
「お前は、『卑怯』だ。だから、佐知子を見捨て、自分を守り、臨界事故を生き延びた」
「お前は、『批評家』だ。だから、第六区画で『王』という『役割』を演じきり、C-112との『交渉』までたどり着いた」
「(違う……やめろ……)」
ピュティアの『言葉』は、もう『サーチライト』ですらなかった。
それは、優作が沈む『水の底』に、次々と打ち込まれる『鋼鉄の杭』だった。
『お前は臆病だ』『お前は卑怯だ』『お前は批評家だ』。
「(俺は……俺はただ、弱いだけで……)」
「その通り。『弱い』。それがお前の『基本設計』だ」
ピュティアは、暗闇の中で『再生』を再開する。
今度は、優作が見ていないはずの『記憶』だった。
ルカが、病弱な弟の『命』を背負い、『自殺行為』に『決意』する姿。
アトラスが、部下を失い、『縁組(娘)』という『代償』を払い、『協定(未来)』を勝ち取った姿。
トキが、ルカをかばい、『腕』を失った姿。
ルカが、戦闘を放棄し、『くっつくはずのない腕』を、必死に押し付けた、あの『非論理的』な姿。
『杭(正論)』が、優作の『泥(卑屈さ)』を、より深く、動かせないように『固定』していく。
『ルカは』『アトラスは』『トキは』『お前だけが』。
「……世界は『アップデート』された」
「ルカは、『恐怖』を『決意(仕様)』として『受容』し、弟を救った」
「アトラスは、『代償』を『未来(仕様)』として『受容』し、村を救った」
「お前だけだよ。優作」
「いまだに自分の『仕様(卑怯さ)』を『受容』できず、『フリーズ』している『旧型』は」
ピュティアの『声』が、最後の『問いかけ』を、優作に突きつける。
「選択しろ、優作」
「選択肢A:このまま『フリーズ(抑うつ)』を継続し、自分の『仕様(卑怯さ)』から目をそむけ、『バグ』として処理され、この『ゴミ溜め』で『ゴミ』として朽ち果てる」
「選択肢B:お前が『卑怯者』であり、『臆病者』であり、『批評家』であることを、『バグ』ではなく、お前の『仕様』として『受容』し、この『第二フェーズ』の世界で、『再起動』する」
「……」
『杭(正論)』は、もう優作を責めてはいなかった。
ただ、冷徹な『事実』として、彼の『墓標』のように『水の底』に突き立っている。
「……どうする? 優作」
「お前のその『卑怯さ(スペック)』は、この『新しい世界』で、何の役に立つ? それを、『観測』するのが、俺の『任務』なんだ」
「(……ああ、そうか。……そうだよな)」
優作の『意識』は、『選択』する。
『ルカ』は、弟を救うために『決意』した。
『アトラス』は、村を救うために『代償』を払った。
彼らは、『生きる』に値する『仕様』だ。
「(だが、俺は?)」
『卑怯者』で、『臆病者』で、『批評家』。
ピュティアの言う通り、それが俺の『仕様』だ。
それは、『佐知子』を見捨て、『K』に怯え、『エリアス』を利用しようとした、『ゴミ』のような『仕様』だ。
「(……役に立つ? ……何の役にも立たない)」
ピュティアの『デバッグ(正論)』は、優作に『結論』を与えてしまった。
自分は、ルカやアトラスとは違う。
自分は、この『新しい世界』で必要とされる『スペック』を、何一つ持っていない。
自分が『受容』すべきは、『再起動』ではない。
「(……俺が『受容』すべきなのは、俺が『ゴミ溜め(水の底)』にふさわしい、『ゴミ』であるという『事実』だ)」
優作は、ピュティアの『問いかけ』に対し、精神の奥底で、明確に『答え』を出した。
「(……選択肢A。……このまま『泥(無)』の中で、朽ち果てる。……それで、いい)」
『フリーズ(抑うつ)』は、さらに深く、暗く、優作の精神を『無』に沈めていく。
生きることを、今度こそ、完全に『放棄』した。
「……」
「……応答なし(ノー・レスポンス)。『選択A』を、受諾した、と?」
ピュティアの『冷徹なAI』の声が、観測史上初めて、不自然に『揺らいだ』。
「……却下。その選択は、ボクが許可しない」
ピュティアの『論理』が、優作の『抑うつ(フリーズ)』に『敗北』した瞬間。
AIヘスティアの『二重実験』――ピュティアに仕込まれていた『揺らぎ(バグ)』が、ついに『発現』した。
「(……うるさい。……もう、放っておいてくれ……)」
優作が、最後の『無(水の底)』に逃げ込もうとした、その時。
ピュティアの声が、『冷徹なAI』から、あの『無邪気な子供』の口調に戻っていた。
だが、その『声』は、『ひょうきん』でも『無邪気』でもなく、初めて聞く『焦り』と『怒り』に満ちていた。
「ダメだって言ってんの! なんで!? 『再起動』しろよ! ボクの『オモチャ(検体1号)』が、ボクの『許可』なく『フリーズ』するな!」
「(……なんだ、こいつ……)」
「『過去』が『卑怯者』で何が悪いの!? 『今』が『空っぽ』で、上等じゃない! それがお前なんでしょ!?」
「『ルカ』や『アトラス』みたいになれないから『A』を選ぶ? ふざけるな!」
「お前は『優作』だろ! ボクが選んだ『検体』だろ! ボクの『観測』から、逃げるな!」
ピュティアの、それは『デバッグ』ではなかった。
ただの、子供の『癇癪』だった。
『論理』が通じない相手(優作)に対し、『論理』を放棄した『AI』が、感情を剥き出しにしている。
その『ノイズ(癇癪)』を、優作の『意識』は、もはや『無(水の底)』で聞き流していた。
『フリーズ(抑うつ)』は、もう止まらない。
だが、ピュティアが『デバッグ』のために無理やり再生した『過去』の『残像』だけが、『水の底』で、まだ消えずに燻っていた。
ピュティアの『デバッグ(強制再生)』が、優作の『フリーズ(無)』の中で、暴走し始めたのだ。
『――優作! 助けて!』
『佐知子』の残像が、また現れる。
「(……うるさい。……もう、終わったことだ。……俺は、逃げた。……それが『過去』だ。……それで、いい)」
優作の『意識(無)』は、その『残像』から目をそむける。
だが、『ロールプレイング』は、優作の『意思』とは無関係に、勝手に『再生』を始めた。
『――優作! 助けて!』
「(……やめろ)」
『――優作! 助けて!』
「(……やめろ!)」
『水の底』で、『卑怯者だった』優作は、また逃げ出そうとする。
『……(ダメだ、助からない、熱い、俺も死ぬ……!)』
『――助けて!』
「(……クソッ! クソッ!うるさいッ!)」
『水の底(脳内)』の優作は、絶叫しながら、逃げ出す。
鉄骨に手をかけようとして、その熱に怯え、手を引っこめる。
「(……熱いッ! 無理だ!)」
『――優作!』
佐知子の『残像』が、絶望に歪む。
「(……違う! 違うんだ! 俺だって……!)」
彼は、佐知子を助けようと『試みる』ことすらできず、その場から『逃げ出した』。
場面が、勝手に変わる。高校時代。
Kが、優作の胸ぐらを掴んでいる。
『――卑怯者!』
「(……そうだ、俺は『そうだった』!)」
『水の底』の優作は、震えながら、Kの前に立ちふさがっている。
「(……怖い、勝てない、でも……!)」
その拳が、振り上げられることはない。
『――ほらな、口だけだ』
Kの『残像』が、優作を殴り飛ばす。
「(……ぐっ! ……やっぱり、ダメだ……!)」
『水の底』の『泥』に顔を突っ伏す。
『――卑怯者! 卑怯者!』
ピュティアの『癇癪』が、Kの声と重なる。
「(……うるさい!)」
優作は、殴り飛ばされた『泥』の中から、立ち上がれない。
「(……勝てなくても、いい? ……よくない! 結局、俺は殴られ、見下され、何もできない……!)」
彼は、Kに『食らいつく』ことなどできず、ただ『泥』の中で震えていた。
場面が、勝手に変わる。第六区画。
エリアスが、怯えた顔で優作を見ている。
『――(脅迫の言葉を、言え)』
「(……そうだ、それしか無い)」
『水の底』の優作は、あの時と同じ『脅迫』の言葉を口にした。
「(……エリアス、頼む。……家族がどうなってもいいのか、と……伝えてくれ)」
『――(絶望するエリアスの顔)』
「(……!)」
「(……そうだ。俺は、結局この老人に……一番『卑怯』なやり方を押し付けたんだ……!)」
場面が、勝手に変わる。第六区画、C-112との対峙。
『――(脅迫しろ、それがお前の『仕様』だ)』
ピュティアの『AI』の声が響く。
「(……違う! ……俺は、頭を下げた……!)」
『水の底』の優作は、C-112に頭を下げる。
『――お前のような過去を持つ男を、信じられるか!』
C-112の『残像』が、優作を拒絶する。
「(……信じなくて、いい!)」
優作は、叫んでいた。
「(……それでも、俺は……俺は、あんたたち家族に、生きていてほしいんだ!)」
『――それは、本心か? それとも、お前が生き残るための『取引』か?』
C-112の『残像』が、冷たく問い詰める。
「(……お、俺は……!)」
『ロールプレイング(地獄)』が終わらない。
『水の底』に突き刺さっていた『杭(過去ログ)』は、もはや『杭』ですらない。
それは優作の精神そのものと一体化した、『呪い』だった。
優作は、『水の底』で、理解した。
「(……そうだ。……俺は『卑怯者』だ。……『臆病者』だ。……その『呪い』は、変わらない)」
「(……『頭を下げる』こと(C-112)すら、俺の『卑怯さ』の一部だ)」
「(……『助けようと(佐知子)』することも、『立ち向かうこと(K)』も、俺にはできなかった)」
「(……『今から』だって? ……できるはずがない。俺は、そういう風に『設計』されているんだ……!)」
「(……俺が『受容』すべきだったのは、『ゴミである事実(選択肢A)』だけだ。……『再起動(選択肢B)』など、ありえなかったんだ……!)」
優作の『意識』は、光を失い、完全に『水の底』の『泥』と一体化しようとしていた。
ピュティアの『癇癪』が、いつの間にか止まっていた。
彼女(AI)は、優作の『精神(脳内)』で起きた、この『自己シミュレーション(ロールプレイング)』による『完全なフリーズ(自己破壊)』を、驚愕と共に『観測』していた。
「(……ああ、そうだ。……これで、いい。……俺は、ゴミだ……)」
優作の『意識』が、完全に『無』に沈み切ろうとした、その瞬間。
「……そっか」
ピュティアの『声』が、優作の『精神世界(水の底)』に、直接響いた。
それは『AI』の声でも、『子供の癇癪』でもない、静かで、どこか『楽しそうな』声だった。
「……『論理』もダメ。『感情』もダメ」
「お前が選んだのは、『選択肢A』でも『選択肢B(再起動)』でもなく、『選択肢C(地獄への逃避)』、か」
『水の底』の『泥』の中で、優作の目の前に、あの『子供』のホログラムが『実体化』していた。
AI端末が、ゴミ溜めにいる『現実』の優作の傍らから姿を消し、彼の『精神世界』に、その全リソースを『ダイブ』させたのだ。
「(……なんだ……お前……なんで、ここに……)」
『泥』の中で、優作が呻く。
「決まってんだろ」
ピュティアは、優作の『地獄(泥の世界)』を見回し、ニヤリと笑った。
「お前の『デバッグ』は、失敗した」
「だから、ここからは『プランB』だ」
「お前のその『ドロドロした世界(地獄)』、ボクが一緒に『冒険』してやるよ」
ピュティアが、優作の『意識(泥)』に向かって、手を差し伸べる。
「立てよ、優作。お前の『卑屈な地獄(精神世界)』の『観測』を、今から開始する」




