【あるいは、私という人間の停滞】(中学編・最終)
……私は、「風景」になった。 教室の隅で、ただ息をしているだけの、置物。 誰も私に話しかけず、私も誰にも話しかけない。 私が唯一、正気(あるいは狂気)を保つために行っていたのは、思考停止の「批評」だけだった。 (窓の外の雲、無意味だな) (教師のチョークの音、不快だ)
そんな日々が続く、中学三年の秋だったろうか。 一度だけ、ほんの一度だけ、私が「私」であることをやめようと、愚かな「勇気」を持とうとしたことがある。
事件は、掃除時間に起きた。 あのヤンキーグループが、クラスの別の生徒(仮にDとしよう)を囲んでいた。 Dは、かつての私やB君に似た、気の弱い、目立たない生徒だった。 彼らは、Dが持っていた真新しいノートを取り上げ、笑いものにしていた。 「おい、これ、マンガ写してんじゃん! キモ!」 「や、やめてください……返してください!」 Dは、泣きそうな声で懇願しているが、彼らは面白がってノートを投げ合っている。
私は、それを見ていた。 ……B君だ。 あの時、私が一方的に暴力を振るい、死に追いやった、B君の姿が、Dに重なった。
(やめろ) 心の奥底で、声がした。 (やめろ。お前が、あの時、俺が、殺したんだ)
——ここで、もし俺が、何かを言ったら。 ——「やめろよ」と、ただ一言、言えたなら。 ——俺は、あの時の俺(卑怯者)とは違う人間に、なれるんじゃないか?
私は、唾を飲み込んだ。 心臓が、あの万引きの時とは違う、奇妙な熱さで鼓動していた。 勇気。そうだ、これが「勇気」というやつか。 私は、震える足で、一歩、踏み出そうとした。
その瞬間。
ノートを投げ合っていたヤンキーのリーダーと、目が、合った。
彼は、ニヤリと笑った。 その目は、私を殴りつけていた時と同じ、冷たい、絶対的な「力」の目だった。 その目が、私に語りかけていた。
(お前が、口出しするのか?) (あの、Bを殺した、お前が?) (俺に殴られた恐怖を、忘れたのか?) (Cに裏切られた、あの無様さを、忘れたのか?)
……全身から、血の気が引いた。 さっきまでの、あの熱い鼓動が、急速に冷えていく。 足が、鉛のように重くなった。
(……無駄だ)
私は、目をそらした。 そして、いつもの「批評」を始めた。 (……DもDだ。なぜ、あんな目立つノートを持つ? 自衛が足りない) (……教師はどこだ。掃除時間の巡回を怠るとは。職務怠慢だ) (……そう、俺一人が何か言ったところで、この腐った教室は何も変わらない。俺が損をするだけだ)
私は、自分の「卑怯さ」を、「冷静な判断」という言葉にすり替えた。 私は、結局「変われない」のだ。 B君の死という十字架を背負ってもなお、私は、目の前の「暴力」を恐れ、安全な「批評」の殻に閉じこもる。 これが、私(優作)という人間の、どうしようもない本質だった。 私は、その日、二度目の自己崩壊を味わった。
(高校受験)
もう、何もかもが、どうでもよかった。 中学生活の残りは、ただ時間が過ぎるのを待つだけの「消化試合」だった。 やがて、進路という現実がやってくる。
母(聡子)は、私に何かを言いたそうにしていた。 だが、あの二度目の万引き事件と、B君の件(これは噂で彼女の耳にも入っていた)の後ろめたさがあるのか、かつてのように「勉強しろ!」とヒステリックに叫ぶことは、もうなかった。 ただ、ぼそりと「……あんた、高校だけは、行きなさいよ。体裁があるんだから」と言うだけだった。
体裁。 そう、体裁だ。 私も、それでいいと思った。 この地獄(中学)から抜け出し、親の監視からも逃れられるなら、どこでもよかった。
勉強は、とことん、できなかった。 いや、する気がなかった。 私の成績表は、芸術的なまでに「1」と「2」が並んでいた。
そんな私に行ける高校など、限られている。 いや、一つしかなかった。 地元で「名前さえ書ければ受かる」と噂されている、最底辺の商業高校。 不良の巣窟、あるいは、私のような「社会のはみ出し者」の収容所。
私は、願書を出し、試験を受けに行った。 何を答えたか、覚えていない。 ただ、早く終わってくれと、それだけを願っていた。
合格発表の日。 自分の受験番号がそこにあるのを見ても、何も感じなかった。 嬉しさも、安堵も、未来への希望も。 ただ、「ああ、これで、あと三年間、親から文句を言われずに済む」と思っただけだ。
私の高校生活は、こうして、何の期待も無いまま、灰色の無気力の中で、始まろうとしていた。




