【取引】(『もや』の正体)
(猶予期間:残り49日・夜)
あれから、俺は誰とも口を利かず、独房(個室)に戻っていた。
エリアスに頭を下げられてから、妙な居心地の悪さが続いている。昼間の肉体労働で軋む体を引きずり、壁にもたれかかった。
コンクリートの冷たさが、じわりと背中に伝わる。
俺は、自分の手のひらを見つめた。
作業でついた無数の傷、こびりついた土と汗の汚れ、割れた爪。それは紛れもなく「現実」の感触だった。
(……なんだ?)
ふと、奇妙な感覚に襲われた。
いつも見ているはずの、この薄暗い独房の壁が、やけにはっきりと見える。
シミの一つ一つ、コンクリートの継ぎ目の雑な仕上げ、床に落ちた埃の塊。
今まで、こんなに「見えて」いただろうか?
まるで、ずっと目の前にかかっていた、薄い「もや」が晴れたかのようだ。
第六区画に来てからずっと、この世界の空気は鉛のように重く、風景も、人間も、どこか現実感のない、ぼんやりとした輪郭しか持っていなかった。
だが、今は違う。
クロウの頬骨の角度。
エリアスの深い皺と、白く伸びた無精髭。
リナという少女の、痩せっぽちの小さい手。
それらが、不愉快なほど「明確」に、俺の頭の中にこびりついていた。
『……どうしたの、優作? センサーによると、君の視覚認識と脳の処理負荷が、通常時より30%も上昇してる』
不意に、ピュティアが姿を現した。相変わらず、無表情なホログラムの少女だ。
「……ピュティア」
俺は、呟いていた。
「……この世界は、いつからこんなに『はっきり』していた?」
『はっきり?』
ピュティアは、不思議そうに小首を傾げた。
『ドーム内の環境光、気圧、湿度は常に一定に管理されている。君の知覚に影響を与えるパラメータは変更されていないよ?』
「……そうじゃない」
俺は苛立ちを隠せず、言葉を続けた。
「ここに来てからずっと、何もかもが『もや』がかかったみたいだった。他人の顔も、風景も、全部がぼやけて、どうでもよかった。なのに……今は、やけに……」
『ああ、なるほど』
ピュティアは、ポン、と手を打った。その仕草は、ひどく人間臭かった。
『それは、世界のせいじゃない。君の『認識フィルター』のせいだ』
「……認識フィルター?」
『そう。君は、日本にいた時から、ずっとそれを使っていたんだろう?』
ピュティアは、俺の周りをくるりと回り込み、顔を覗き込んできた。
『君の言う「もや」の正体。それは、君の「批評癖」だよ』
「……なに?」
『君は、他者と関わるのが怖かった。傷つくのが嫌だった。だから、「批評家」という安全な立場に自分を置いた。自分は「傍観者」であり、「審査員」である、とね』
ピュティアの言葉は、淡々とした分析結果の報告書のように、俺の胸に突き刺さった。
『「もや」をかけるのは、都合が良かったんだ。対象が「ぼやけて」いれば、批評しやすいからね。クロウを「利用価値のあるエンジニア」、エリアスを「哀れな老人」と、記号を貼って分類すればいい。彼らの「顔」や「匂い」や「手の傷」なんていう、面倒なディテールは、認識する必要がない。だから、君の脳が、自動で「もや」をかけていたんだ』
(……俺の、脳が?)
『そう。それが君の自己防衛だった。でも、君は今日、彼らと一緒に汗を流した。エリアスの「命令違反」に直面し、リナという少女の「言葉」を受け取ってしまった』
ピュティアは、俺の目の前で、指を一本立てた。
『君は、「傍観者」から「当事者」になりかけた。だから、脳が「もや」をかけるのをやめたんだ。フィルターが解除されたから、急に世界が「はっきり」見え始めた。……違うかな?』
俺は、反論できなかった。
俺を苦しめていたのは、Kでも、工場の連中でも、ヘスティアでもなかった。
俺自身が作り上げた、「批評家」という名の「もや」。
それこそが、俺を世界から隔離し、孤独にし、あの鉛のような息苦しさの中に閉じ込めていた元凶だった。
善悪じゃない。ただ、俺が「卑怯」だったから。生きることから、逃げていただけだった。
「……うるさい」
俺は、それだけを絞り出すのがやっとだった。
「……俺は、俺が生き残るためなら、何でも利用する。あいつらも、C-112も……お前もだ、ピュティア」
『うん、知ってる』
ピュティアは、楽しそうに笑った。
『でも、面白くなってきた。「もや」の晴れた世界で、君がどう「取引」を続けるのか。君の「卑怯さ」と、芽生えた「何か」……その「矛盾バグ」の結末、ボクはすごく興味があるよ』
ピュティアはそう言うと、満足したようにフッと姿を消した。
独房に残されたのは、自分の手のひらに刻まれた「現実」の痛みと、あまりにも「はっきり」と見える壁のシミだけだった。




