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『異世界人間失格 ~スキル【批評】持ちの独白~』  作者: 猫寿司
第五章:あるいは、私という人間の『選別』】

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27/103

【取引】(『もや』の正体)

(猶予期間:残り49日・夜)


あれから、俺は誰とも口を利かず、独房(個室)に戻っていた。

エリアスに頭を下げられてから、妙な居心地の悪さが続いている。昼間の肉体労働できしむ体を引きずり、壁にもたれかかった。


コンクリートの冷たさが、じわりと背中に伝わる。

俺は、自分の手のひらを見つめた。

作業でついた無数の傷、こびりついた土と汗の汚れ、割れた爪。それは紛れもなく「現実」の感触だった。


(……なんだ?)


ふと、奇妙な感覚に襲われた。

いつも見ているはずの、この薄暗い独房の壁が、やけにはっきりと見える。

シミの一つ一つ、コンクリートの継ぎ目の雑な仕上げ、床に落ちたほこりの塊。

今まで、こんなに「見えて」いただろうか?


まるで、ずっと目の前にかかっていた、薄い「もや」が晴れたかのようだ。

第六区画に来てからずっと、この世界の空気はなまりのように重く、風景も、人間も、どこか現実感のない、ぼんやりとした輪郭しか持っていなかった。

だが、今は違う。

クロウの頬骨ほおぼねの角度。

エリアスの深いしわと、白く伸びた無精髭ぶしょうひげ

リナという少女の、せっぽちの小さい手。


それらが、不愉快なほど「明確」に、俺の頭の中にこびりついていた。


『……どうしたの、優作? センサーによると、君の視覚認識と脳の処理負荷が、通常時より30%も上昇してる』


不意に、ピュティアが姿を現した。相変わらず、無表情なホログラムの少女だ。


「……ピュティア」

俺は、つぶやいていた。

「……この世界は、いつからこんなに『はっきり』していた?」


『はっきり?』

ピュティアは、不思議そうに小首を傾げた。

『ドーム内の環境光、気圧、湿度は常に一定に管理されている。君の知覚に影響を与えるパラメータは変更されていないよ?』


「……そうじゃない」

俺は苛立いらだちを隠せず、言葉を続けた。

「ここに来てからずっと、何もかもが『もや』がかかったみたいだった。他人の顔も、風景も、全部がぼやけて、どうでもよかった。なのに……今は、やけに……」


『ああ、なるほど』

ピュティアは、ポン、と手を打った。その仕草は、ひどく人間臭かった。

『それは、世界のせいじゃない。君の『認識フィルター』のせいだ』


「……認識フィルター?」


『そう。君は、日本あちらにいた時から、ずっとそれを使っていたんだろう?』

ピュティアは、俺の周りをくるりと回り込み、顔を覗き込んできた。

『君の言う「もや」の正体。それは、君の「批評癖」だよ』


「……なに?」


『君は、他者と関わるのが怖かった。傷つくのが嫌だった。だから、「批評家」という安全な立場に自分を置いた。自分は「傍観者」であり、「審査員」である、とね』

ピュティアの言葉は、淡々とした分析結果の報告書のように、俺の胸に突き刺さった。


『「もや」をかけるのは、都合が良かったんだ。対象が「ぼやけて」いれば、批評しやすいからね。クロウを「利用価値のあるエンジニア」、エリアスを「哀れな老人」と、記号ラベルを貼って分類すればいい。彼らの「顔」や「匂い」や「手の傷」なんていう、面倒なディテールは、認識する必要がない。だから、君の脳が、自動で「もや」をかけていたんだ』


(……俺の、脳が?)


『そう。それが君の自己防衛だった。でも、君は今日、彼らと一緒に汗を流した。エリアスの「命令違反バグ」に直面し、リナという少女の「言葉データ」を受け取ってしまった』

ピュティアは、俺の目の前で、指を一本立てた。

『君は、「傍観者」から「当事者」になりかけた。だから、脳が「もや」をかけるのをやめたんだ。フィルターが解除されたから、急に世界が「はっきり」見え始めた。……違うかな?』


俺は、反論できなかった。

俺を苦しめていたのは、Kでも、工場の連中でも、ヘスティアでもなかった。

俺自身が作り上げた、「批評家」という名の「もや」。

それこそが、俺を世界から隔離し、孤独にし、あの鉛のような息苦しさの中に閉じ込めていた元凶だった。

善悪じゃない。ただ、俺が「卑怯」だったから。生きることから、逃げていただけだった。


「……うるさい」

俺は、それだけを絞り出すのがやっとだった。

「……俺は、俺が生き残るためなら、何でも利用する。あいつらも、C-112も……お前もだ、ピュティア」


『うん、知ってる』

ピュティアは、楽しそうに笑った。

『でも、面白くなってきた。「もや」の晴れた世界で、君がどう「取引」を続けるのか。君の「卑怯さ」と、芽生えた「何か」……その「矛盾バグ」の結末、ボクはすごく興味があるよ』


ピュティアはそう言うと、満足したようにフッと姿を消した。

独房に残されたのは、自分の手のひらに刻まれた「現実」の痛みと、あまりにも「はっきり」と見える壁のシミだけだった。

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