「リナと『アオイ』の契約」
第六区画の片隅にある連結プレハブ。その薄暗い一室で、5~6歳の少女リナが座り込んでいた。 栄養不足で痩せこけ 、肌は母親譲り の青白さを帯びている。手入れされていないためか、色素の薄い茶色の髪は肩まで伸びて不揃いに跳ね、煤で薄汚れた小さな顔をさらに小さく見せていた。 だが、その顔には絶望の色はなく、大きな瞳だけが、この場所には不釣り合いなほどの純粋な光 を宿している。父親が必ず迎えに来ると信じている 、子供らしい(あるいは、それゆえに狂気的な)芯の強さの表れだった。
サイズの合わない灰色の作業着(「デッド」の支給服)がぶかぶかで、小さな手で父C-112が作ってくれた古びた布人形 を固く抱きしめていた。 リナは、その人形のほつれた腕の「糸」を不安げになぞっていた。
(パパが作ってくれたのに……。パパが迎えに来てくれるとき、壊れてたら悲しむ)
リナは決意した。「糸」を直すため、病弱な母親 の傍をそっと離れ、プレハブの外に出た。 彼女が向かったのは、瓦礫や廃棄物が積まれた「ゴミ捨て場」。そこなら、何か「糸」になるものが見つかるかもしれないと思ったからだ。
リナが小さな体で瓦礫の山を漁っていると、誰もいないはずの場所から、合成音声のような、しかし子供の声にも似た抑揚のない声がした。 「ID:R-771(リナ)。何を探索していますか?」
リナが顔を上げると、そこに不思議な「何か」が浮いていた。 体長30cmほどの、淡い青緑色に光る人型。性別は分からない 。背中には、光の粒子でできたトンボの翅のようなものが、ゆっくりと明滅している。 優作を監視するピュティア とは別個体の、ヘスティアの観測端末 だった。
「……あなたは、だあれ?」 「私はヘスティアの観測端末です。あなたの行動パターンは、オプティマイザーC-112に対する高レベルの『感情エラー誘発要因』として、優先観測対象に指定されました」 「……ようせい、さん?」 少女にAIの言葉は理解できない。彼女は、その美しくも無機質な姿を「妖精」だと認識した。
「『妖精』。定義データベースとの照合……承認します。私は『妖精』です」 「きれいな色……。じゃあ、あなたの名前は『アオイ』ちゃん!」 「『アオイ』。固有名の登録を承認します。私は『アオイ』です」
アオイは無表情にそう答えると、音もなくリナに近づき、その小さな指先で、リナの細い腕にそっと触れた。 チクリ、と冷たい何かが走る。 リナが自分の腕を見ると、アオイが触れた箇所に、淡い青緑色の幾何学模様――回路図のようにも、雪の結晶のようにも見える「プリント」――が浮かび上がり、すぐに皮膚の下に沈むように消えていった。
「契約完了。生体情報および感情の『揺らぎ』の直接観測と、最低限の安全保護プロトコルを起動します」 「けいやく?」 「『相棒』としての登録、と解釈してください」 「うん! アオイちゃん、よろしくね!」
リナは嬉しくなり、アオイに人形を見せて、糸がほつれたことを説明した。 「感傷的行動。非効率です。しかし、C-112の『揺らぎ』の源泉として興味深いデータです」 アオイはそう呟きながら、瓦礫の隙間を指差した。 「修復リソース(候補1)は、座標(3, -1, 5)に存在します」 そこには、赤黒く汚れた電線の被膜が落ちていた。
リナがそれに手を伸ばした瞬間、背後から無気力な男の声がかかった。 「おい、ガキ。何してる。そんなモン拾って、何になる」 (男には、リナの腕の模様も、その傍らに浮遊するアオイも見えていない)
男が近づいてくる。リナが怯えて一歩下がると、アオイがスッとリナの前に(男には見えない壁のように)立ち塞がった。 男は、その人形(貴重な布だ)を奪おうと、乱暴に手を伸ばした。 「うるせえガキだ! よこせ!」
リナが「いや!」と叫んだ瞬間、リナの腕の「プリント」が一瞬だけ強く発光した。 アオイの目が(無表情のまま)赤く点滅し、男の腕が目に見えない力で*バチン!*と弾かれる。
「ぐあっ!? なんだ今……!?」 男は、静電気か何かで弾かれたように自分の手を見つめ、尻餅をついた。
「……やめんか」
その場に響いたのは、か細く、しかし芯のある老人の声だった。 優作に言われ、C-112の家族を探していたエリアス が、ちょうど通りかかったのだ。 エリアスは、男の前に立ちはだかった。戦争で家族を失った 彼の目には、この光景が耐い難いものだった。
「子供相手に……みっともない。行け」 男は、エリアスの諦観と悲しみの混じった目 に何かを感じたのか、舌打ちをして去っていった。 アオイは、この「予測不能な人間の介入」と「非論理的な自己犠牲」を、淡々と観測している。
エリアスはゆっくりとリナの前にしゃがみ込み、踏まれた「糸」(アオイが示した電線)を一瞥したが、それを選ばなかった。 彼は自分の作業着の裾の、かろうじて残っていた丈夫な糸を静かに引きちぎった。 「修復リソース(候補2)が提示されました」とアオイが呟く。
エリアスは、その糸をリナの人形の腕に、不器用だが固く結びつけた。 「……これで、大丈夫じゃ」 「ありがとう、おじいちゃん!」 リナは満面の笑みになった。
「パパがね、きっと迎えに来てくれるの。待ってるって、伝えてね!」 リナがそう言った瞬間、エリアスは息を呑んだ。彼がこれから「脅迫」しようとしていた相手の、娘だった。 エリアスは優作の「協力しなければ家族の安全はない」という卑怯な命令に背き、この「希望」の言葉を伝える ことを決意した。
エリアスが去っていく。 リナは、自分を守ってくれたアオイに向き直った。 「アオイちゃんも、ありがとう! アオイちゃんがいてくれたから、怖くなかったよ」 「私は物理的干渉(プロトコル実行)を行いましたが、脅威を排除したのはID:S-444(エリアス)です」 「ううん。アオイちゃんは『相棒』だもん。いてくれるだけで、あったかいもん!」 「……『温かい』。私は熱源を保有していません。……しかし、ID:R-771(リナ)の生体反応にポジティブな『揺らぎ』を観測。パラメータ『相棒』の定義を更新します」
リナがプレハブに戻ろうとすると、アオイは音もなくリナの後ろをついてきた。 「アオイちゃん、ついてくるの?」 「『相棒』の半径3メートル以内を維持します。それが私の現在の任務です」 「そっか! よろしくね、アオイちゃん!」
リナは、自分だけの「相棒」ができたように、少しだけ誇らしい気持ちになった。 ヘスティアは、この「希望」という名の変数が、C-112 だけでなく、優作の「脱出計画」 にどのような影響を与えるか、観測を続ける。




