臨界(クライマックス)②
ガシャン、ガシャン、と、いつもの「音」が響く。
ジジ、と蛍光灯が鳴っている。
ここが、俺の「職場」。
三十代前半、あの「口だけの詐欺師」のレッテルを貼られた後、社会(正社員)から完全に逃亡した俺が、唯一見つけた「安息の地」だった。
「佐藤化学工業・第三プラント」。
表向きは、何を作っているのかよく分からない、「特殊セラミック触媒」の工場、ということになっている。
だからか、夜勤専門のアルバイトという「底辺」の仕事にしては、時給が妙に高かった。
もちろん、誰も、その「理由」など知りたくもない。
私は、ここで、もう10年近く働いている。
私は、ここの「最古参」のアルバイトだ。
だが、私は、誰ともつるまない。新人にも干渉しない。休憩時間は、車の中で小説を読む。
だから、私は「佐藤さん」とは呼ばれるが、誰からも「存在しない者(幽霊)」として扱われている。
それが、俺にとっての「理想の地位」だった。
Kもいない。Sもいない。佐知子もいない。
ただ、「俺」と「機械の音」だけがある世界。
床に引かれた黄色の安全線は、剥げて黒ずんでいる。
鼻をつくのは、鉄と、酸っぱい薬品と、古いオイルが混じった、独特の匂い。
この「音」と「匂い」だけが、俺の現実だ。
(そうだ、俺はクズだ。俺は『虫』だ)
(俺は、ここで、この『音』だけを聞いて、死んでいくんだ)
私は、そう、今夜も、再確認した。私は、作業場に向かった。
「安全第一」と書かれた、埃まみれの看板の下をくぐる。
管理体制は、あってないようなものだ。
コストカット、効率優先。
この「ずさんさ」こそが、俺のような「虫」には、都合が良かった。
私の持ち場。「第7スラリー混合タンク」。
私は、あの「樹脂ジャグ(10リットル)」を、無感情で掴んだ。
壁に貼られた、色褪せた「正規マニュアル」には、『自動計量器を使い、1リットルずつ制御注入すること』と、小さな文字で書かれている。
だが、そんなことをしている夜勤の人間は、俺を含め、誰もいない。
「裏マニュアル」。
この、デカい計量ジャグで一気にすくい上げ、タンクにぶち込む。
その方が、30分早く、休憩(小説を読む時間)に入れるからだ。
危険性? 知るか。
10年間、何も起きなかった。
そして、何より、佐知子から逃げてきた今の俺は、もう、どうでもいいんだ。
俺は、もう、疲れたんだ。
私は、臨界させてはいけない「それ」を、すくう。
粘度の高い、重い液体。
そして、それを、安全装置(自動計量器)を無視して、Bタンクに、叩きつけた。
その瞬間。
視界が、青白い「光」で、塗りつぶされた。
——ああ、そうか。
——これが、「罰」か。
それが、私の、四十年間(日本)の、最後の記憶だった。




