臨界(クライマックス)①
そして、あの日が、来た。
サークルの帰り道。時刻は、夜九時。
夜勤の時間(十時)まで、まだ余裕があった。
私は、駅まで『佐知子』と並んで歩いていた。
彼女の「助け」を求める視線から、どうやって「逃げる」か。その「批評」と「言い訳」だけを、私は必死で考えていた。
角を曲がった、その時だった。
電柱の影に、一人の男が立っていた。
男は、佐知子を見るなり、舌打ちをして、こちらに近づいてきた。
「おい。こんな時間まで、どこの男と遊んでやがるんだ」
酒の匂い。濁った目。
——元夫だ。
佐知子が「ひっ」と、小さな悲鳴を上げ、私の腕を、無意識に掴んだ。
男は、私を睨みつけた。
「あ? なんだテメエは。こいつの新しい『男』か?」
……Kだ。
体格は違う。顔も違う。
だが、その「理不尽な暴力」の匂いは、高校時代に私を泥水に踏みつけた、あのKと、全く同じだった。
男が、私に一歩、詰め寄る。
佐知子が、私の腕を掴む力(助けて)が、強くなる。
私の脳裏に、高校時代の「選択」が蘇る。
B君を殺した、あの日の教室。
Sを裏切った、あの日の放課後。
F子の消しゴム。
(……どうする?)
私の足は、動いた。
「空手」のステップではない。
Kに頭を踏まれ、自殺を決意した、あの日の「逃避」でもない。
もっと、単純な。
中学時代、Cに裏切られ、万引きGメンに捕まった時の、あの「逃走」の動きだった。
私は、佐知子が掴んでいた腕を、振り払った。
「え……?」
佐知子の、絶望した顔が見えた。
「……し、知らない人です!」
私は、男(元夫)に向かって、そう叫んだ。
「俺は、関係ない! 俺は、何も知らない!」
私は、彼女を、その場に置き去りにして、全力で、走った。
背後で「待てコラ!」という男の怒声と、佐知子の小さな悲鳴が聞こえた気がしたが、私は、振り返らなかった。
(……無理だ)
(俺には関係ない)
(俺が関わっても、ロクなことにならない)
(俺は『卑怯者』だ。彼女も、俺がそういう人間だと知るべきだったんだ)
(俺は、虫だ。虫は、人間を助けない)
私は、走った。
走って、走って、工場の更衣室に転がり込んだ。
心臓が、破裂しそうだった。
自己嫌悪で、吐き気がした。
(……ああ、まただ)
(俺は、40になっても、また、逃げた)
(B君、S、そして、佐知子……)
自己嫌悪でボロボロになった精神状態で、私は、夜勤の作業着に着替えた。
ここが、俺の「甲羅」だ。
ここが、俺の「墓場」だ。




