『虫』の着地点と、『佐知子』
三十代。
私は、正社員(人間関係)という「戦場」から、完全に逃亡した。
「工場の夜勤アルバイト」。
人間とのコミュニケーションを最小限にできる場所。
カフカの虫が、部屋の隅に落ち着いたように、私は、この「無機質な場所」に、ようやく安息を見出した。
私の社会との接点は、二つだけになった。
「月一」の空手の「確認作業(サンドバッグ蹴り)」。
そして、唯一のプライドである「小説家サークル」。
そして、四十歳になった。
サークルには、相変わらず『鈴木』(私の「批評」の的である、あのデビューした女)がいた。
「佐藤さん、まだ、あの『傑作』書いてるんですか?」
彼女の軽薄な笑顔に、私は「お前のような駄文とは違うんでね」と、心の中で(あるいは、口の端で)吐き捨てる。
そして、その頃、もう一人、新しい女性が入ってきた。
『佐知子』(仮名)と、名乗った。
私と同じ、四十歳前後。
だが、彼女は、いつも何かに怯えていた。
どこか幸が薄く、その笑顔は、常に引きつっていた。
サークルの飲み会で、私は、鈴木への「批評」を終えた後、その『佐知子』と、偶然、二人きりになった。
彼女は、ポツリ、ポツリと、自分のことを語り始めた。
「……離婚、したんです」
「……夫の、暴力が、原因で」
「……今も、時々、家の近くを、うろついているみたいで……怖いんです」
(暴力)
その単語を聞いた瞬間、私の脳裏に、Kの顔がフラッシュバックした。
彼女は、何かを懇願するように、私を見つめていた。
(……まさか)
(俺に、助けてほしいのか?)
彼女の視線は、そう言っていた。
彼女は、私が、このサークルで「口だけ」で「卑屈」な男だと、まだ知らない。
彼女は、私が、かつて「空手」をかじっていたことなど、知る由もない。
彼女は、私を「普通の男」だと誤解し、その「助け」を求める視線を、向けてきたのだ。




