【幕間第二部:空への反逆者と、地を這う獣王エピソード・ゼロ】
プロローグ:偉大なる勘違い】
かつて、人類がまだ「空」を知らなかった時代。
ある一人の男が、暖炉の前で洗濯物を干していた。
彼は、火から立ち上る煙に乗って、自分のシャツがふわりと舞い上がるのを見た。
賢い学者ならば、こう考えただろう。
「熱された空気は膨張し、密度が下がるため、周囲の冷たい空気による浮力を得る」と。
そして、計算するのだ。「この程度の浮力で人間を持ち上げるには、非効率すぎる」と。
だが、彼は幸運にも「馬鹿」だった。
彼はこう信じ込んだ。
「見ろ! 煙の中には、大地の束縛(重力)を無効化する『魔法の成分』が含まれているに違いない!」
彼はその勘違いを信じ、ボロ布を縫い合わせ、大量の煙を詰め込んだ。
結果、彼は飛んだ。
正しい物理を知っていた賢者たちが地面に縛られている間に、間違った理論を信じた愚者だけが、空を掴んだのだ。
これは、そんな「愛すべき馬鹿」たちの物語である。
I. 毒キノコと幻覚の再会
学研都市ツアクバ。
それは、旧文明の巨大な廃墟の上に、今の未熟な文明がへばりつくように存在する「入り組んだ文明の地層」そのものだった。
その街外れに、一人の女がたどり着こうとしていた。
ペコである。
だが、その足取りは千鳥足どころか、生まれたての子鹿のように震えていた。
「……やっと、着きましたわ……」
何日さまよっただろうか。日にちを数えることすら困難だった。
敗因は、空腹に耐えかねてうっかり食べた、白いキノコだった。
食べた瞬間から、地獄が始まった。上から下から、止まらない激流。嘔吐と下痢の嵐。
体内の水分が枯れ果ててもなお続く、猛毒の宴。
さらに悪いことに、強烈な**幻覚**がペコを惑わす。
(あぁん、スズ様……♡ 手招きしないでくださいまし……)
虚空に向かって、ペコはだらしなく頬を緩める。
「ほら、今もスズ様が……わたくしを呼んでいる……こっち、こっちと……」
「ああ、このまま……スズ様の胸に抱かれて……」
ペコはフラフラと虚空へ手を伸ばす。
「いけませんわ……これは幻覚……! やっとツアクバに着いたのです……まずは宿で……」
だが、限界だった。
視界が暗転する。
ドサッ……!
ペコは地面に倒れ込んだ。
薄れゆく意識の中で、誰かの声が聞こえる。
老人と、少年の声だ。
「……ひっ、行き倒れだ!」
「おいおい、ウィル。触るなよ」
「うわぁ、なんかすごい色してるぞ……」
ペコは、最後の力を振り絞って呟いた。
「……わたくしを……食べても……おいしくないですわぁー……」
プツン。意識が途絶えた。
ペコが目を覚ましたのは、三日三晩が過ぎた頃だった。
埃と、古い紙の匂い。そして何より、自分自身から発する強烈な異臭で意識が浮上した。
(……ここは?)
乱雑に物が積み上げられた、小汚い部屋。
そこへ、ドカドカと足音が近づいてくる。
「お師匠! 行き倒れが起きました!」
「ウィルよ、そりゃそうじゃ。生きているんだから、そのうち起きるさ」
部屋に入ってきたのは、ガリガリに痩せた老人と、ひ弱そうな少年だった。
老人がペコを見て、安堵の息を吐く。
「ほう、よかった。こんなところで死なれても困るからな」
だが、少年――ウィルは鼻をつまんで顔をしかめた。
「でもお師匠、こいつ……ウンコとゲロ臭ぇぞ!」
「これこれウィル! 女性にそんなことを言ってはいけません!」
「だって事実じゃないか! 部屋中が臭くなっちまったよ!」
その言葉が、ペコの意識を鮮明に覚醒させた。
(……なんですって?)
(レディに向かって、臭いだの、汚いだの……!)
ペコの中で、王族としての矜持と、乙女としての恥じらいが入り混じった激しい怒りが爆発した。
彼女は、鉛のように重い体を、気力だけで無理やり起こした。
布団から、乾いた汚物がパラパラと落ちる。
「……あ?」
ウィルが驚いて後ずさる。
その瞬間。
ドカッ!!
ペコの渾身の拳骨が、ウィルの脳天に炸裂した。
「いてぇーッ!! なにしやがるんだ!」
ウィルが涙目で抗議する。
ペコは、汚物にまみれた布団から半身を起こし、王の威厳(ただし異臭付き)で言い放った。
「お黙りなさい! 生きとし生けるもの、不調ならば排泄も嘔吐もしますわ! 臭いも汚れも、必死に生きている証ですのよ!」
「……は?」
「それを、汚れているからといって……レディに向かってなんという暴言! 恥を知りなさい!」
ウィルは呆気にとられた。
老人――リオガレは、目を丸くして驚いた。
(なんと……汚物まみれだというのに、この堂々たる態度は……)
ペコは、ふんと鼻を鳴らすと、自分の汚れきった服を見下ろした。
「……とりあえず、お風呂はあるかしら?」
「え、あ、公衆浴場なら、そこの角に……」
「わかりましたわ。……わたくしは何日寝込んでいたのかしら?」
「み、三日……」
「そうですか。……では」
ペコは懐を探り、ジャラリと金貨10枚をテーブルに置いた。
その金貨は、残念なことにペコの排泄物で汚れていたが、その輝きは本物だった。
「これはお礼ですわ。……ベッドを汚してしまいましたから、きれいに片付けておいてくださいまし」
「えっ、こ、こんなに!?」
金貨10枚。
それは、貧乏な彼らにとって、目が飛び出るほどの大金だった。
ウィルが口をあんぐりと開け、リオガレの手が震えだす。
「お、お師匠……! こ、これ……!」
「うむ……! これだけあれば、我々の生活費どころか……!!」
二人は顔を見合わせ、爆発的な歓喜の声を上げた。
「やったぞウィル! 買える! 最新鋭の『気圧計』が買えるぞ!」
「はいっ! それに『耐熱性の布』も! 最高級の『精製油』も!! もう生ゴミを燃やさなくて済みます!」
「研究費だ! まさかの臨時収入だ! これで『気球計画』が飛躍的に進むぞぉぉッ!!」
二人は手を取り合って踊りだした。
ペコが汚したベッドのことなど、もうどうでもよかった。
この金貨は、彼らにとって、神からの慈悲そのものだったのだ。
「ありがとうございます! ありがとうございますぅぅ!」
ウィルは感極まって、思わず便で汚れたペコの手を握りしめ、ブンブンと振ってしまった。
「……あ」
自分の手に付着した茶色い物体を見て、ウィルが凍りつく。
「うわぁぁーッ!!」
悲鳴を上げて洗面所へ走るウィルを見て、ペコは小さく笑った。
「……現金な奴らですわね」
その後、ウィルが新しい服を買って戻ってきたが、ペコはそれを受け取らず、脇に抱えた。
「着替えないのですか?」
「当たり前ですわ。今着替えたら、新しい服まで汚れてしまいますもの」
ペコは、排泄物と嘔吐物がこびりついたボロボロの服のまま、立ち上がった。
尻尾のあたりには、特に酷い汚れが広がっている。
普通の女性なら恥ずかしくて死にそうな姿だが、ペコは胸を張り、堂々と部屋を出た。
「……行くわよ」
公衆浴場への道中、第三街区はちょっとした騒乱に包まれた。
「ひ、ひいいぃぃッ!!」
「なんだあいつ!? ゾンビか!?」
ペコが歩くだけで、モーゼの十戒のように人の波が割れる。
道端でたむろしていたチンピラたちが、ペコの異様な姿と強烈な悪臭に、情けない悲鳴を上げて逃げ惑う。
「臭ぇぇッ! 近寄るんじゃねぇ!!」
「目が、目がぁぁぁ!!」
露店の商人は商品を放り出して逃げ出し、野良犬でさえも「キャンッ!」と鳴いて尻尾を巻いて路地裏へ消えた。
通りに面した窓という窓が、バタンバタンと閉ざされていく。
ペコに向けられるのは、純粋な恐怖と、生理的な嫌悪の視線だけ。
「……怪物だ」
「呪われるぞ……」
だが、ペコは意に介さない。
むしろ、その恐怖の視線を心地よいBGMかのように受け流し、汚物まみれの尻尾を高く上げ、左右に優雅に揺らしてみせる。
背筋を伸ばし、顎を上げ、汚れた犬耳を凛と立て、ボロボロの服をあたかも王族の正装であるかのように着こなして歩く。
(お黙りなさい、下郎ども。……わたくしは、死の淵から生還した覇者ですのよ?)
(その程度の嗅覚で、わたくしの高貴な魂までは嗅ぎ分けられませんわね)
ペコは、騒然とする群衆を尻目に、堂々と浴場の暖簾をくぐった。
受付の番台の男は、入ってきた「それ」を見て、心臓が止まりかけた。
「ひっ……!?」
男が悲鳴を上げそうになった瞬間。
ダンッ!
ペコは無言で、汚れた金貨をカウンターに叩きつけた。
その圧倒的な「圧」と、不敵に揺れる尻尾の迫力に、男は口をパクパクさせたまま、何も言えずに硬直した。
【浴場の騒乱と、美の降臨】
暖簾をくぐり、脱衣所に足を踏み入れた瞬間。
そこは、平穏な午後の社交場から、阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
「……ん? なにこの匂い……」
誰かが鼻をひくつかせた直後、ペコの体から放たれる、熟成された汚物の香りが脱衣所に充満した。
「キャァァァァッ!!」
「いやぁぁぁっ! なにあれ、何が入ってきたの!?」
女たちが悲鳴を上げ、着替え中の服もそのままに壁際へと退避する。
ペコが服を脱ぎ捨てるたび、ボロボロと乾いた泥や排泄物の欠片が床に落ちる。
その音さえも、ここでは恐怖の対象だった。
「ちょっと! 店番! どうなってるのよ!」
怒号が飛ぶが、ペコは意に介さない。
全裸になった彼女は、汚れた尻尾を一度ブルンと振ると、浴室の引き戸をガラリと開け放った。
ムワッ……。
湿った熱気と共に、異臭が浴室内へと流れ込む。
「うわっ、くっせえ!!」
「ひぃぃっ! お母ちゃん!!」
湯船に浸かっていた子供が泣き出し、母親が慌てて子供を抱きかかえて湯から飛び出す。
洗い場に座っていた客たちは、桶や椅子を持って、蜘蛛の子を散らすようにペコから距離を取った。
ペコが歩く一歩ごとに、半径3メートルの無人地帯(空白地帯)が形成されていく。
「あんたねぇ! 常識がないのかい!」
逃げ遅れた恰幅の良いおばちゃんが、武器代わりに木桶を投げつけた。
カォンッ!
だが、ペコは振り返りもせず、太い尻尾の一撃でそれを空中で叩き落とした。
「お静かになさい。……お湯が冷めますわ」
ペコは、騒乱の中心を、一糸まとわぬ姿で悠然と歩き、誰もいなくなった洗い場の中央に陣取ると、椅子に腰掛けた。
桶にお湯を汲み、頭からザバァッとかぶる。
ドロリ……。
髪から、背中から、茶色く濁った汚水が床を流れていく。
それが排水溝へ向かって黒い川を作ると、下流にいた客たちが「こっちに来るわよ!」「汚い!」と再び悲鳴を上げて逃げ惑う。
ペコは気にしない。
石鹸をたっぷりと泡立て、三日三晩こびりついた屈辱を、慈しむように、そして念入りに洗い落としていく。
ゴシゴシと肌を擦るたびに、白い泡が茶色く染まり、そして消えていく。
(勝ちましたわ……。あの毒キノコに、わたくしは打ち勝ったのです!)
指先から、足先から、力がみなぎってくるのを感じる。
萎びていた尻尾が、お湯を含んでふわりと膨らみ、本来の金色の輝きを取り戻していく。
そして。
最後のすすぎ湯を浴び、ペコが顔を上げた時。
あれほど騒がしかった浴場に、奇妙な**「静寂」**が訪れた。
「……え?」
「……嘘、でしょ?」
さっきまで悲鳴を上げていた女たちが、ぽかんと口を開けてペコを見つめていた。
洗い流された肌は、陶器のように白く輝いている。
水滴を弾く健康的な肢体。
濡れて艶めく、金色の体毛に覆われた気高い犬耳と、豊かに膨らんだ尻尾。
そして何より、その瞳に宿る、圧倒的な「王者の光」。
それは、先ほどの汚物まみれの怪物とは似ても似つかない、**「美の化身」**だった。
「……すげぇ。あの汚い姉ちゃん、めちゃくちゃ美人じゃん……」
ある子供が、あけすけに呟いた。
その言葉が、静寂を破る合図だった。
嫌悪の視線は、瞬く間に「羨望」と「驚愕」へと変わった。
ペコは、濡れた髪をかき上げながら、その子供を見下ろした。
尻尾が、ピシャリと床を叩き、水を弾く。
「愚か者。……汚くても、奇麗でも、わたくしは『わたくし』ですわ」
「え?」
「上辺の汚れでしか価値を測れないお前のような者に、真の審美眼(美しさ)など理解できなくてよ」
ペコは言葉で子供を一刀両断すると、堂々と浴場を後にした。
背中には、もう誰からも文句を言わせない、圧倒的なオーラが漂っていた。
ペコは、リオガレとウィルがいる「第三街区」のボロ小屋へと戻った。
「……しかし、むさ苦しい小屋ですこと」
扉を開ける。
ちょうど、ウィルとリオガレが二階から降りてきたところだった。手には掃除道具を持っている。
「ふぅ、やっと終わった……。臭かったなぁ……」
ウィルが顔を上げ、言葉を失った。
「……え?」
入り口に立っているのは、先ほどの「汚物女」ではない。
輝くような美女が、王然として佇んでいる。
濡れた犬耳がピクリと動き、洗いたての尻尾が優雅なカーブを描いている。
リオガレもまた、ペコの堂々とした佇まいに、只者ではない気配を感じ取り、居住まいを正した。
「……行き倒れているところを保護してくれて、ありがとう。名は、ペコと申しますわ」
ペコは優雅に会釈をした。
だが、次の瞬間、その眉がピクリと上がった。
「……しかし、一つ解せませんわね」 「は、はい?」 「なぜ、わたくしをベッドに寝かせたまま**『放置』していたのです?」
ペコの目が座る。尻尾の動きがピタリと止まる。
「三日間、看病した形跡が全くありませんでしたわ。水の一杯も飲ませず、ただ転がしておくだけ……。それが人命救助ですの?」
リオガレは冷や汗をかき、深々と頭を下げた。
「ペ、ペコ嬢……大変申し訳ございません! 決して悪気があったわけではないのです!」
「ほう?」
「実は、この三日間……やっと我々の『遺物研究』の成果が認められそうで、国の第一次審査会が夜通し続いていたのです!」
リオガレは必死に弁明した。 「ペコ嬢を拾った後、すぐに審査へ行かねばならず……終わってから恐る恐る、生死を確認しに帰ってきた次第でして……」 「それに、この街には貧乏人を治療する病院なんてありませんよ!」ウィルも横から叫ぶ。
ペコは、呆れたようにため息をついた。
(……なるほど。研究のほうが大事だった、と)
「……いい度胸ですわ」
ペコは、二人に指を突きつけた。
「わたくしを、拾っただけの『捨て犬』のように扱わないでくださる!?」
ペコの絶叫と共に、尻尾がムチのように空を切った。
これが、ペコと「変人師弟」との、最悪で、運命的な出会いだった。




