第8話 微笑の裏に
夕日が城下町の石畳を金色に染めていた。ジョルジュは男爵邸への道を歩きながら、胸の奥で鼓動が速くなるのを感じていた。
(一体、何の用件だろう……)
──城下町に戻ったジョルジュは、まず師匠の工房に立ち寄った。
「ただいま戻りました」
「おお、帰ったか。ガンドの工房はどうじゃった?」
「はい、とても勉強になりました。ところで、男爵様からの呼び出しの件ですが…」
オルヴェルの表情が曇った。
「正直、見当がつかん。一体何の用件なのか……」
困惑するオルヴェルを見て、ジョルジュは先ほどまでの楽観が萎んだ。
会合での〝不届きな発言〟が原因だとすれば、叱責は免れないだろう。イリヤの励ましの言葉も、今となっては空しく響く。
男爵邸の門が見えてきた。夕暮れの中でも、その威容は圧倒的だった。石造りの立派な建物は三階建てで、二階には、優雅な意匠の手すりのバルコニーまであり、地方とはいえ男爵家の富と権勢を物語っている。門には二人の衛兵が立ち、来訪者を確認していた。
「ジョルジュ・エルノアと申します。お呼びいただいたので」
「承知しております。こちらへどうぞ」
衛兵は丁寧に案内してくれたが、ジョルジュの緊張は解けなかった。中庭を通り、正面玄関から邸内へ。廊下には絵画や調度品が並び、絨毯は足音を吸い込むほど厚い。
奥から、執事らしい初老の男性が現れた。
「お待ちしておりました。男爵様がお待ちです」
案内された部屋は、書斎というよりも応接室に近かった。本棚には分厚い書物が並び、机の上には羊皮紙や書簡が整然と置かれている。暖炉の火が部屋を暖かく照らし、革張りの椅子が二脚、向かい合って配置されていた。
そして──
「おお、君がジョルジュか。急に呼び立てて、申し訳なかったね。あらためて、ザルエス・ドレイヴだ」
この男爵領の領主──ザルエスは立ち上がってジョルジュの方へ歩み寄ると、笑顔で手を差し出した。
ジョルジュは面食らった。四十歳前後と思われるザルエスは、予想していたような威厳のある貴族然とした人物ではなく、むしろ親しみやすい笑顔を浮かべていた。顎髭をたくわえた知的な顔立ちで、人懐っこい瞳が温かく光っている。
「い、いえ、とんでもございません! こちらこそ、恐縮です。ジョルジュ・エルノアと申します」
ジョルジュは慌てて頭を下げながら、差し出された手を握った。
「ははっ、そう畏まらんでくれ。君とは同じ技術者同士、気楽に話そう」
「え?」
技術者同士? ジョルジュは困惑した。ザルエスが技術に詳しいとは思わなかった。
「まあ、座ってくれ。茶でも飲みながら話そう」
ザルエスは椅子を勧めると、執事に目配せした。すぐに香り高い茶が運ばれてくる。
「商人ギルドの友人から面白い話を聞いたんだ」
ザルエスは茶を一口飲んでから続けた。
「ギルドの会合で『誰でも魔法を使える世界』って発言したそうじゃないか」
ジョルジュの顔が青ざめた。
「あの、もしかして問題でしたでしょうか?」
「問題? とんでもない!」
ザルエスは手を振って笑った。
「むしろ感銘を受けたよ。私も常々、同じことを考えていたんだ」
「え……」
「領民を見ていると、魔法の恩恵を受けられる者が限られている」
ザルエスの表情が真剣になった。
「君の理想は素晴らしい。ぜひ詳しく聞かせてくれないか?」
ジョルジュは戸惑った。叱責されると覚悟していたのに、まさか共感されるとは。
「実は私も若い頃は魔導具に夢中になってね」
ザルエスは懐かしそうに微笑んだ。
「君ほど才能はなかったけれど、仕組みを理解するのが楽しくて」
「そうなんですか?」
「ああ、君の話には特に興味があるんだ。それで、こうして来てもらった次第だ」
ザルエスの親しみやすさに、ジョルジュの緊張は完全に解けた。同じ技術への情熱を持つ理解者に出会えた喜びが、胸の奥で広がっていく。
「実は、魔石を使った増幅装置の研究を……」
ついつい詳細を語り始めるジョルジュ。魔法適性の低い人でも、修行の必要なく使える装置。魔石の分類による最適化──
「魔石の増幅か。なるほど、面白いアプローチだね」
ザルエスは興味深そうに頷いた。
「懐かしいな、魔導具の話をするのは久しぶりだ」
「ところで、実用化の規模はどう考えているんだ?」
「規模、ですか?」
「一人が使う小さな装置か、それとも複数人で共有できるような大きなものか」
ザルエスの質問は、技術に詳しい者らしく具体的だった。
「まだ基礎段階ですが、個人用を想定しています」
「個人用……」
ザルエスの目に、一瞬、鋭い光が宿った。
「つまり、一人一人が独立して魔法を使えるということか」
「はい、そうです」
「それは革新的だ。既存の魔導士制度を……大きく変える可能性がある」
ザルエスの言葉に、ジョルジュは純粋に頷いた。
「材料の調達は大丈夫か? 何か協力できることがあれば遠慮なく言ってくれ」
「ありがとうございます」
ジョルジュは感激した。こんなに理解してくれる人がいるとは。
「完成したら、ぜひ実物を見せてもらえるかな?」
「はい、もちろんです!」
「楽しみだ。私の青春時代の夢が、君によって実現されるかもしれない」
ザルエスの純粋そうな期待に、ジョルジュは胸が熱くなった。
「君のような才能ある若者を支援するのが、領主の務めだと思っている」
「恐縮です……」
「研究資金で困ったら、相談してくれ。この領地の未来のためにも、ぜひ頑張ってほしい」
日が完全に暮れる頃、ジョルジュは男爵邸を後にした。別れ際、ザルエスは最後にこう付け加えた。
「それと……この件は内密にしてもらえるかな?」
「え?」
「実は、近年王都から圧力が強くなっている」
ザルエスの表情が少し曇った。
「新しい技術開発への統制が厳しくて。君の研究が邪魔されないよう、しばらくは静かに進めた方がいい」
「そうですね……確かに、王都では保守的な意見が多かったです」
「そういうことだ。完成したら、まず私に教えてくれ。適切なタイミングで発表しよう」
城下町への帰り道、ジョルジュの足取りは軽やかだった。理解ある後援者を得た喜び、研究への支援の約束、そして何より、自分の理想を共有してくれる人がいるという安心感。
(なんていい方なんだ……)
ガンドの工房に戻ると、リズが茶を淹れながら待っていた。
「お帰り。どうだった?」
「想像していたのと全然違ったよ!」
ジョルジュは興奮気味に男爵との会話を報告した。親しみやすい人柄、技術への理解、研究への支援申し出。
「年上なのに、全然偉ぶらなくて」
「〝技術者同士〟って言ってくださって」
「研究に協力してくれるって!」
リズは黙って聞いていたが、やがて茶を一口飲んでから口を開いた。
「へぇ、随分、気さくな人だったのね」
「どうしてそんな顔するの?」
「四十の男が二十やそこらの若者にそこまで親しくするかしら」
「でも、同じ技術への情熱を持ってるから……」
「普通の領主なら、もっと距離を置くと思うけど」
リズの言葉に、ジョルジュは首をかしげた。
「親切にしてくださって……」
「親切ね……確かに親切だったんでしょうね、表面的には」
「表面的って……」
「食わせものね」
リズの素っ気ない一言に、ジョルジュは困惑した。
「どうしてそう思うんだ?」
「あんたの研究の政治的価値、すぐに理解したでしょ?」
「政治的価値?」
「〝誰でも魔法を使える〟技術よ。既存のギルド体制を脅かす革命的な技術」
リズは茶を置いて、ジョルジュを見つめた。
「専門家でもない人間が、実用化の規模まで詳しく聞いてくるのは不自然よ」
「でも、領主として領民のことを考えて…」
「甘いわね。貴族が何かに関心を示すときは、必ず裏に計算があるの」
「そんな……男爵様は純粋に技術に興味を持ってくださって」
「それに、なんで内密にする必要があるの? 本当に民衆のためなら、堂々と発表すればいいでしょう?」
リズの指摘に、ジョルジュは言葉に詰まった。
「まあ、あんたは純粋そうだから、そういうの見抜けないでしょうけど」
リズは肩をすくめた。
「でも注意しなさい。権力者の〝親切〟には必ず裏がある」
ジョルジュは納得できなかった。確かに男爵は領主だが、あの親しみやすさ、技術への理解、純粋な興味。それらがすべて演技だとは思えない。
(リズは疑い深すぎるんじゃないか……)
しかし、心の奥底に小さなシミのような疑念が湧いたのも事実だった。
なぜ、あれほど詳しく実用化について聞いたのか。
なぜ、内密にする必要があるのか。
なぜ、このタイミングで呼び出されたのか。
疑問が浮かんでは、ジョルジュ自身がそれを打ち消そうとした。
その夜、ザルエスは一人、書斎で暖炉の火を見つめていた。
(面白い技術だ)
ジョルジュの研究の構想を、ザルエスは冷静に分析していた。魔法適性の低い者でも魔法を使える装置。これは、ギルドへの入会が認められなかった者が魔法を使える──つまり、既存制度の枠外の技術ということだった。
(これは使える)
技術そのものへの興味など、ザルエスには皆無だった。彼にとって技術は純粋に〝道具〟でしかない。重要なのは、その道具が何をもたらすかだ。
王都の統制から独立した力。既存制度への挑戦。──新しい時代への切り札。
(あの若者は扱いやすそうだ)
ザルエスは顎髭を擦る。
ジョルジュの純粋さ、理想主義、政治的無知。すべてが男爵にとって都合が良かった。適切な〝エサ〟を与えれば、喜んで協力するだろう。
暖炉の火が静かに揺れる中、ザルエスの口元に薄い笑みが浮かんだ。
(今、時代は大きく動こうとしている。この波に乗れるかどうかだ)
東部の結束、商人たちの不満、王国の後継問題。すべてが機会に見える。そして今、革命的な技術まで手に入りそうだ。
(一生男爵のまま終わるつもりはない)
暖炉の火が小さくなり、部屋に影が長く伸びた。ザルエスの瞳に、野心の炎が静かに燃えていた。