第12話 拒絶の代償
伯爵一行が領地を去って三日後。ザルエスの心は、来月に迫った東部貴族会議のことで一杯だった。
縁談は成功したが、伯爵が別れ際に残した言葉が重くのしかかっている。『君の真価を見せてもらいたい。何か決定的な〝力〟を示せれば、君の地位は盤石になるのだがな』。伯爵は心配しているようで、どこか、こちらを試すような雰囲気だった。
(会議で宝珠技術を発表する。それこそが、伯爵の期待に応え、私の力を証明する絶好の機会だ)
ザルエスは焦っていた。会議まで時間がない。彼はすぐにジョルジュを呼び出した。
いつものように親しみやすい笑顔で迎えられたが、ジョルジュはザルエスの瞳の奥に、隠しきれない焦燥の色を感じ取っていた。書斎には、見慣れない建物の設計図が広げられている。
「やあ、ジョルジュ。調子はどうだ?」
「はい、おかげさまで」
ザルエスは椅子を勧めると、いつものように使用人が茶を用意してくれた。
「実は、君に提案があるんだ」
ザルエスは単刀直入に切り出した
「君の研究環境について、もっと良い条件を用意することにした」
ザルエスは机の上の図面を指した。それは建物の設計図のようだった。
「新しい研究施設の設計図だ。君専用の工房を作ろうと思っている」
ジョルジュは驚いた。個人専用の研究施設など、想像もしていなかった。
「そんな……もったいないです」
「いやいや、君の技術は我が領地、いや、王国の宝だ。それにふさわしい環境を整えるのは当然だろう。それに、私が昔使っていた工房を改装するから、大したことはない」
ザルエスは熱心に説明を続けた。
「とはいえ、最高級の設備、豊富な材料、そして安全な環境。森の工房とは比べものにならない条件を用意できる」
「ありがたいお話ですが……」
ジョルジュは困惑した。確かに魅力的な提案だが、なぜそこまでしてくれるのだろう。
「場所はこの屋敷の敷地内だ。すぐ近くだから、何かあればすぐに相談できる」
「男爵邸の……ですか?」
「そうだ。君の安全も考えてのことだ。森の工房では、万が一のことがあったら困るからね」
ザルエスの表情には、本当に心配しているような色が浮かんでいた。
「それに、君一人の力では限界もあるだろう。助手も付けるし、必要な人材はいくらでも集められる。優秀な職人たちと一緒に研究すれば、もっと大きな成果が期待できる」
話を聞けば聞くほど、魅力的な条件だった。しかし、ジョルジュの胸の奥には、微かな違和感があった。
「それで、いつ頃から……」
「できるだけ早い方がいい。来週にでも移転してもらえないだろうか」
「来週ですか!?」
あまりの急さに、ジョルジュは驚いた。
「急で申し訳ないが、実は重要な会議が控えていてね。その前に、君の研究体制を整えておきたいんだ」
「重要な会議……ですか?」
「そう、東部の貴族たちが集まる会議だ。君の技術についても話題になるかもしれない」
ザルエスの目に、一瞬鋭い光が宿った。
「それまでに、もう少し発表できる成果があると良いのだが……。君の技術が、どれほど素晴らしいものかを示したいんだ」
ジョルジュは首をかしげた。研究は自分のペースで進めたいし、まだ発表できる段階ではない。
「でも、まだ改良の余地が……」
「細かいことは後でいい。まず基本的な仕組みを示すことが重要だ」
ザルエスの口調が、微かに強くなった。
「つまり、その会議で宝珠技術を披露しろということですか?」
「そういうことだ。君の技術を、より多くの人に知ってもらいたい」
ジョルジュは困惑した。確かに技術を広めることは重要だが、まだ安全性の確認も不十分だ。
「申し訳ありませんが……もう少し時間をください。まだ完成したばかりで、改良すべき点がたくさんあります」
ジョルジュは率直に答えた。
「それに、安全性の確認も必要ですし……」
「安全性は十分確認できているだろう? 実際に動作したのだから」
「でも、長期使用での影響とか、大量生産時の品質管理とか……」
「ジョルジュ、これは政治的な機会だ。今、東部は団結を示す必要がある。君の技術は、その象徴になり得るんだ」
ザルエスの声に、微かな苛立ちが込められていた。
ジョルジュは困惑した。政治的な象徴になど、なりたくなかった。
「でも、俺の技術は政治のためじゃなくて……」
「理想だけでは何も実現できん!」
ザルエスは机を叩いた。
「君一人の力では、どれだけ素晴らしい技術を作っても世には広まらない! 政治的な後ろ盾があって初めて、技術は社会に普及するのだ!」
その剣幕に、ジョルジュは言葉を失った。しかし、技術者としての信念を曲げることはできなかった。
「申し訳ありませんが……もう少し考えさせてください」
ジョルジュは頭を下げた。
ザルエスの顔が一瞬険しくなったが、すぐに笑顔に戻った。
「そうか……まあ、無理強いはしたくないからね」
「ありがとうございます」
「しかし、機会は待ってくれないかもしれないぞ」
最後の言葉に、微かな威圧感があった。
その夜、ガンドの工房でジョルジュは悩んでいた。
「男爵の提案、どう思う?」
リズに相談すると、彼女は眉をひそめた。
「露骨ね。もう隠そうともしてない」
「隠すって?」
「政治利用よ。あんたの技術を自分のものにしたがってる」
「でも、研究環境は確かに良くなるし……」
「その代わり、あんたは男爵の管理下に置かれる」
リズは率直に言った。
「自由な研究なんて、できなくなるわよ」
「そうかな……」
「それに、急いで発表しろって言ってるのも怪しい」
「怪しいって?」
「普通、技術者に急かすなんてしないでしょ? 何か政治的な事情があるのよ」
ガンドも作業の手を止めて口を挟んだ。
「この商売を200年やってて、いろんな権力者を見てきたが……あの男爵は典型的な〝利用する側〟だな」
「利用する側?」
「技術者を道具として扱う連中だ。最初は甘い言葉で近づいて、徐々に支配下に置こうとする」
ガンドは苦々しそうに言った。
「王都にもそういう貴族がたくさんいた。だから嫌になって、こんな田舎に引っ込んだんだ」
「でも、男爵様は理解があるし……」
「表面的にはな。しかし、本当に理解があるなら、急かしたりしないだろう」
三人で話し合った結果、ジョルジュは男爵の提案を断ることにした。少なくとも、もう少し時間をかけて検討したい。
「そうしなさい」
リズは頷いた。
「自分の技術に責任を持つのは、技術者として当然よ」
翌日、ジョルジュの返事を聞いたザルエスは、執務室で苛立ちを隠せなかった。
「まだ考え中、だと……?」
「はい。もう少し時間を、と」
「馬鹿な! 会議までもう時間がないというのに!」
ザルエスは吐き捨てるように呟いた。
「あの若者は、政治の重要性を理解していない。技術だけでは、何も変わらないというのに」
(このままでは、会議で伯爵の期待に応えられない……何か具体的な成果を示さなければ、私も、私の息子も、未来はない)
焦燥感が胸を締め付けた。
東部貴族会議当日。男爵邸の大広間には、東部各地の有力貴族が集まっていた。ザルエスは宝珠技術という切り札を欠いたまま、壇上に立っていた。
「まず、商業政策について報告させていただきます」
ザルエスは立ち上がり、商人ギルド連合の構想を発表した。中央の規制から独立した、東部独自の商業ネットワークの確立。地方の自立を目指す野心的な計画だった。
「なるほど、興味深い提案ですな」
伯爵は頷いた。
「経済的な結束は、政治的結束の基盤となる」
他の貴族たちからも、概ね好意的な反応があった。商業の発展は、誰にとっても利益になる。
「それで、具体的な実現手段は?」
隣の男爵が質問した。
「商人たちの協力は得られているようですが、中央からの反発も予想されます」
「その通りです」
ザルエスは頷いた。
「商人たちとの連携を強化し、物流ルートを確保することから始めます」
「段階的なアプローチですな。賢明です」
伯爵も満足そうに頷いた。
「他にも産業振興の具体案がありまして……」
ザルエスは準備してきた資料を丁寧に説明した。交易路の整備、職人ギルドとの連携、新技術の導入促進──どれも現実的で建設的な提案だった。
「素晴らしい」
「我が領にも好影響だ」
貴族たちも次々に頷く。会議の雰囲気は上々だった。ザルエス自身も手応えを感じていた。
数時間に及ぶ議論の末、東部貴族連合の経済基盤強化に向けた方針が固まった。ザルエスの商人ギルド連合構想も、正式に承認された。
「今日は有意義な議論でした」
伯爵が会議の終了を宣言すると、貴族たちは各々に歓談を始めた。
ザルエスは満足感に浸っていた。自分の提案が高く評価され、伯爵からも信頼を得られたと感じていた。
しかし──
廊下に出たザルエスは、角の向こうから聞こえてくる会話に足を止めた。
「ザルエス殿の経済的自立志向は素晴らしいですな」
「確かに。商業面での結束は重要です」
「しかし……」
年配の子爵の声が続いた。
「行き着く先は中央との対立でしょう。そうなると、最終的には軍事的背景が重要ではありませんか?」
「おっしゃる通りです」
別の貴族の応じる声が聞こえた。
「まあ、伯爵様と縁組されたから下に置くわけにもいきませんし、伯爵様の覚えもめでたいですが……」
「正直なところ、物足りませんな」
ザルエスは呼吸が止まるのを感じた。──自分の話をしているのか?
「軍事的な実績も政治的な手腕も、まだまだでしょう」
「商人相手の交渉は得意なようですが、それだけでは……」
血の気が引いていくのを感じながら、ザルエスは壁に身を寄せた。
「この先の荒波を乗り切れるでしょうか」
「伯爵様も、もう少し骨のある人材を期待しておられたのでは」
激しい屈辱が胸を駆け抜けた。
(物足りない……骨がない……)
表面では称賛されながら、内心ではこんな評価を下されていたのか。
(結局……小僧扱いなのか)
「まあ、時間が解決してくれるでしょう」
「そうですね。まだ若いですから」
伯爵が懸念していた通りの評価。経済的な成功だけでは、彼らは認めないのだ。
(やはり〝力〟が必要だったのだ……!)
彼らの慰めるような口調が、かえってザルエスの自尊心を傷つけた。足音が遠ざかった後も、ザルエスは廊下に立ち尽くしていた。
その夜、ザルエスは書斎で一人になった。
あの立ち話での評価が、彼のプライドを深く傷つけていた。表面では称賛されながら、陰で「物足りない、骨がない」と評価されていたのだ。
伯爵と縁組したから表立って批判はされないが、真の実力者としては認められていない。それどころか、若いから仕方ないと憐れまれている。
(このままでは……伯爵にも見限られる。説得などしている場合ではなかった)
焦燥感が胸を締め付けた。政治的な手腕、軍事的な実績──今の自分には、どちらも不足している。
しかも、もう一つ重要な問題があった。
(伯爵には男子がおられない)
伯爵家は三姉妹。長女は侯爵家の次男へ、次女は西部地方の伯爵家の三男へ嫁いでいる。そして三女のセリーナが、自分の息子アルフレッドのもとに。
いずれは、どこかの家から養子を迎える必要がある。
しかし、そこに伯爵の深い計算があることを、ザルエスは理解していた。
(伯爵様は、諸侯の影の盟主になりたがっておられる)
三人の娘を、それぞれ異なる家格の長男・次男・三男に嫁がせた戦略。どの家が台頭しても、伯爵家は血縁で結ばれている。
そして最も重要なのは──
(嫁いだ夫が長男である家が、後継に最も有利だ)
セリーナが嫁いでくる男爵家こそ、その長男への嫁ぎ先。もし男爵家が、政治的、軍事的に家格を覆すほどの実力を示せば、伯爵の後継問題で最有力候補となりうる。
逆に、今のまま「物足りない」という評価が続けば──自分の息子が、侯爵家の次男や、西の伯爵家の三男に後れを取ることになる。
伯爵は表面では親切だが、最終的には最も有力な家を後継に選ぶだろう。血縁だけでは不十分で、実力が伴わなければならない。
(あの技術こそが、私の切り札だ)
魔法適性の低い者でも魔法を使える革命的技術。軍事バランスを変える可能性を秘めた技術。これがあれば状況は一変する。
しかし、ジョルジュは協力しようとしない。あの若者は政治的な重要性を理解していない。もはや手段を選んでいる場合ではなかった。技術者の意思など、政治の前では些細なことだ。
ザルエスは決断した。
深夜、ザルエスは信頼できる部下を呼び寄せた。黒い服に身を包んだその男は、音もなく書斎に入ってきた。
「森の工房について、詳しく調査しろ。技術的な資料の保管場所、警備の状況、すべて把握したい」
部下は頷いた。
「それと……」
ザルエスは声を低めた。
「必要とあらば、強制的な手段も辞さない」
すべては東部の未来のため。そして、自分の政治的地位確立のため。個人の感情など、大義の前では些細なことだった。
ザルエスの心の中で、純粋な政治家としての冷酷さが目覚めていた。
暖炉の火が静かに揺れる中、男爵邸には不穏な空気が流れ始めていた。