第9話 権力の網
ジョルジュと会って三日後──ザルエスは、隣の伯爵領へ向かう馬車の中にいた。
定期的な時候の挨拶と情報交換。表向きはそういうことになっているが、実際には東部地域の結束を確認し合う重要な会談だった。王国の後継問題、中央の動向、地方への締め付けの強化への対策。話し合うべき案件は山積している。
伯爵邸は、男爵邸よりもさらに格式高い造りだった。歴史の重みを感じさせる石造りの建物で、広大な庭園に囲まれている。代々受け継がれてきた家宝や調度品が、廊下や部屋の随所に配置され、名門の威厳を物語っていた。
「ザルエス殿、よくいらした」
伯爵は書斎でザルエスを迎えた。五十代半ばの伯爵は、白髪混じりの髪を品良く整え、深い皺が刻まれた顔には知性と威厳が宿っている。東部地域で最も格式高い家柄の当主として、その存在感は圧倒的だった。
「お招きいただき、ありがとうございます」
ザルエスは丁寧に頭を下げた。
会談が始まった。今年の収穫の見込み、商業の動向、街道の整備状況。地方領主同士の情報交換は、統治に直結する重要な業務だった。
「そういえば、王都の様子はご存知か?」
伯爵が切り出すと、ザルエスは表情を引き締めた。
「相変わらず、後継問題で揺れているようですね」
「中央も、大公派と反対派に分かれつつあるな」
「ええ。しかしながら、まだ大半は様子見を決め込んでいるようですが」
伯爵はワインを一口飲んだ。
「我々東部は、一致して大公殿下を支持している。この結束こそが、我々の力だ」
「おっしゃる通りです」
話題は、商業政策に移っていった。
「中央の規制強化には、閉口しますな」
ザルエスがため息混じりに言うと、伯爵は深くうなずいた。
「魔導具の流通認可など、半年待たされた挙句に却下されることも珍しくない」
「商人たちの不満も高まっています」
「当然だろう。地方の活力を削ぐような政策ばかりでは。……王家が掌握したい気持ちも理解できるが、こうも厳しいと、な」
二人の意見は完全に一致していた。中央集権的な統制への反発、地方の自立への願望。それらは東部貴族に共通する思いだった。
夕食は豪華絢爛だった。伯爵家の料理人が腕を振るった数々の料理が並び、年代物のワインが次々と開けられる。話題は政治から文化、芸術へと広がり、両者の教養の深さが窺えた。
食事が終わり、書斎に戻って茶を飲みながら、伯爵が何気なく口を開いた。
「そういえば、ザルエス殿のご長男は何歳になられたかな?」
「はい、十六になりました」
「そうか、末娘のセリーナは十三だ。お似合いではないかな?」
ザルエスは一瞬、息を呑んだ。まさか、この話が出るとは。
「そんな……もったいないお言葉です」
表面は謙遜しているが、鼓動が速まるのを感じた。
「いやいや、私は、良い話ではないかと思っているのだよ。今や卿は東部随一の実力者だ。男爵にしておくのが惜しいくらいにな」
伯爵の言葉に、ザルエスは頭を下げた。
「恐れ入ります」
(ついに……ついに来た!)
名門伯爵家との縁組。これまで夢にも思わなかった話が、現実のものとして目の前に現れた。
「前向きに考えてはもらえまいか。卿にとっても悪い話ではなかろう」
「ありがとうございます」
ザルエスは感謝の言葉を述べたが、実際には感謝どころの話ではなかった。これは政治的な大躍進を意味する。末娘とはいえ、伯爵家から男爵家への輿入れなど、異例のことであった。
「そうだ。来月にでも、娘を連れて、卿の所へ伺わせて貰おう。なに、娘の将来の嫁ぎ先を直接見るのも悪くない。いかがかな?」
「もちろんでございます。ぜひお越しください。家門一同、心より歓迎いたします」
ザルエスは即座に答えた。この申し出の政治的価値を、彼は完全に理解していた。
格上である伯爵自ら、わざわざ格下の男爵領を訪問する。それは東部全域に向けた、事実上の後見宣言に他ならない。他の貴族たちは、男爵家が伯爵家と同格の扱いを受けていると認識するだろう。
「それでは、そのように」
伯爵は満足そうに微笑んだ。彼もまた、この縁組に大きな期待を寄せていた。男爵家の経済力は、財政に悩む伯爵家にとって救いの手だった。
その夜、男爵邸に戻ったザルエスは、書斎に籠もって一人になった。
(やった……やったぞ!)
表面では冷静を装っていたが、内心は、今すぐ叫びたい気持ちで一杯だった。ザルエスは思わず拳を握りしめた。
名門伯爵家との縁組。東部での地位の大幅な向上。そして何より、政治的な後ろ盾の獲得。
(これで王都の連中とも対等に渡り合える)
王国の政治情勢は混迷を深めている。後継問題、地方への統制強化、経済政策の行き詰まり。すべてが変革の機会に見えた。
そして、ジョルジュの技術という切り札も手に入れつつある。
(政治的後ろ盾、経済的基盤、そして革新的技術……駒が揃いつつある)
暖炉の火が静かに揺れる中、ザルエスは次の一手を考えていた。来月の伯爵来訪は、単なる縁談の相談ではない。東部の新しい権力構造を、内外に宣言する歴史的な出来事になる。
扉がノックされた。商人ギルド長の到着を告げるものだった。
──深夜の男爵邸。奥の間で、商人ギルド長がザルエスを待っていた。ザルエスが現れると、ギルド長は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「お忙しい中、このような時間にお時間をいただき、ありがとうございます」
商人ギルド長は四十代の実業家で、精力的な商業活動で男爵領の経済発展に大きく貢献している人物だった。しかし今夜の彼の表情は、いつもの快活さを欠いていた。
「いやいや、こちらこそ。何か困ったことでも?」
ザルエスは親しみやすい笑顔で応じた。
「実は……中央のギルドの件で、ご相談したいことがありまして」
「中央の?」
「はい。最近の統制強化には、我々地方の商人一同、閉口しているのです」
ギルド長の声には、抑えきれない憤りが込められていた。
「価格統制、流通規制……まるで地方は中央の植民地扱いです」
「まったく……その通りだな」
ザルエスは同情的に応じたが、内心では別のことを考えていた。
「認可に半年待たされた挙句、理由も示されずに却下される。特に新技術関連は、統制が一層厳しくて」
「新技術?」
「はい。魔導具の改良や新しい製法など、少しでも従来と違えば、すぐに規制の対象です」
ザルエスの目が鋭く光った。これは重要な情報だった。
「一体、我々を何だと思っているのでしょうか」
「中央のやり方には、たしかに私も疑問を感じる」
「そこで、ご相談なのですが……」
ギルド長は身を乗り出した。
「東部独自のギルド連合を作ることは、できないものでしょうか」
「東部独自の?」
「はい。中央の規制に縛られない、自由な商業活動ができる仕組みを」
ザルエスは考え込むふりをした。実際には、この提案は彼にとって願ったり叶ったりだった。
「興味深い話だな。しかし、実現するには……」
「もちろん、一朝一夕にはいきません。しかし、もし有力な後ろ盾があれば……」
「後ろ盾、か」
「はい。例えば、伯爵様のような方のご理解を得られれば」
「実は……」
ザルエスは声を潜めた。
「近々、伯爵様がこちらにいらっしゃることになった」
「え?」
「私の長男と、伯爵様の、末の姫様との縁組の件で」
ギルド長の目が見開かれた。
「それは……おめでとうございます! 素晴らしいお話ではありませんか!」
「まだ正式には……しかし、伯爵様も前向きに考えてくださっているようで」
「これで東部の結束が一層強まりますね」
「そうなれば、商業政策についても、より地方の実情に合った形で進められるかもしれない」
ギルド長は身を震わせた。
「ぜひとも、我々にもお手伝いさせてください。伯爵様のご来訪の際には、ギルド一同でお迎えしたいと思います」
「ありがとう。その時は、よろしくたのむ」
密会は夜更けまで続いた。東部ギルド連合の構想、中央への対抗策、商人たちの結束。様々な話題が、小声で語り合われた。
ギルド長が帰った後、ザルエスは再び一人になった。
(商人たちの支持も得られた)
政治的後ろ盾、経済的基盤、そして革新的技術。すべてのピースが、着実に揃いつつあった。
(この波に乗れるかどうかだ)
窓の外では、深夜の城下町が静まり返っている。しかしザルエスには分かっていた。この静寂は、嵐の前の静けさに過ぎないということを。
数日後、ガンドの工房では、いつものように研究が続けられていた。
「最近、街が賑やかですね」
ジョルジュが魔石の分類作業をしながら言った。
「商人の往来が増えたようだし、なんだか活気づいてる感じがします」
「商人どもが何やら企んでおるな」
ガンドは作業の手を止めずに答えた。
「企むって……商売が活発になるのは良いことじゃないですか」
「〝政治〟の匂いがするのよ」
リズが茶を入れながら口を挟んだ。
「政治?」
「ええ。商人が急に結束を強めるときは、たいてい政治的な動きがある」
ジョルジュは首をかしげた。
「でも、男爵様が頑張ってくださってるおかげで、領地が発展してるんじゃないですか?」
リズとガンドは、意味深な視線を交わした。しかし、ジョルジュの純粋さを前にして、何も言わなかった。
「そうかもしれんな」
ガンドは曖昧に答えた。
「研究の方はどうだ? 順調か?」
「はい。魔石の分類も大分慣れてきました」
ジョルジュは嬉しそうに報告した。
「そろそろ、本格的な実験に移れそうです」
「それは良い。急がず、じっくりやれ」
その時、工房の扉がノックされた。
「ガンド殿はいらっしゃいますか?」
男爵家の使者だった。ここ最近、三日と開けずやって来るが、今回はこれまでより慌ただしい様子だった。
「ジョルジュ殿へ、男爵様からのお言伝があります」
「私にですか?」
「はい。『研究の進捗はいかがか。できれば早めに一度、成果をご報告いただけないか』とのことです」
ジョルジュは困惑した。
「早めに……ですか?」
「男爵様も大変期待しておられるようで」
「分かりました。お伝えください」
使者が去った後、ジョルジュは首をかしげた。
「なんだか、急かされてる感じがしますね」
しかし、リズの表情は一層険しくなっていた。
「あの人、明らかに急いでるわね」
「急ぐって……研究には時間がかかるものでしょう?」
「普通、研究者に〝早めに報告しろ〟なんて言わないわよ。それに、あんたはあの人の家来でもなんでもないんだから」
リズの指摘に、ジョルジュは言葉に詰まった。
「支援者として応援してくれてるだけじゃないのかもね」
「そんな……」
「いい加減、気づきなさいよ。あの男爵は、あんたの技術に純粋な興味なんて持ってない」
リズの言葉は、ジョルジュの心に重くのしかかった。
ザルエスへの感謝の気持ちは変わらない。しかし、最近の催促の多さ、そして今日の「早めに報告を」という要求。
(本当に、技術のためだけなのだろうか……?)
小さな疑念の種が、確実に成長し始めていた。
夕暮れが近づく頃、ザルエスは執事を呼んだ。
「伯爵様ご来訪の準備を始めろ」
「承知いたしました。いつ頃のご予定でしょうか?」
「来月だ。街をあげての歓迎となる。東部全域に知らしめるのだ」
「では、布告の準備を?」
「まだだ。タイミングが重要だ」
ザルエスは窓の外を見つめた。
「そうだな、商人たちとの調整が済んだら……そのあたりが良いだろう」
すべての駒が揃うまで、もう少しだった。そして一度動き出せば、もう後戻りはできない。
遠くで鐘が夕暮れを告げた。新たな時代の始まりを告げるかのように。