プロローグ
王国の東、男爵領の城下町。
朝の光が石畳を照らし、まだ湿り気を帯びた空気を金色に染めていた。
通りは既に活気づいている。露店の主人たちが声を張り上げ、野菜や干し肉、染め布を並べて客を呼び込んでいる。馬車の車輪が軋み、荷を担いだロバが鼻を鳴らし、子どもたちがその間を笑いながら駆け抜けていった。香辛料と焼き菓子の匂いが混じり合い、遠くでは鍛冶場の金槌が金属を打つ甲高い音を響かせている。
ジョルジュ・エルノアは背負い袋を抱え、表通りから職人街の裏路地へ入った。
石畳の隙間には昨夜の雨が残り、靴底が時折滑る。だが足取りは軽い。今日こそは実験をうまく成功させ、師匠オルヴェルに胸を張って見せられるはずだ──そんな希望があった。
職人街はどこも忙しい。革細工職人が朝日を受けながら染料を調合し、木工職人の店先では椅子が並べられ、見習いの少年が埃を払っている。どの工房もギルドの小さな看板を掲げていた。杖の印は魔導具職人、薬瓶の印は薬師、秤の印は金属商人。街の鼓動そのものが、技と誇りで動いているようだった。
「おはよう、ジョルジュ。早いわね」
「ええ、今日はちょっと気合入ってます」
「ふふ、そういう顔してるよ。頑張んな」
小間物屋の女将が笑顔を見せる。
十三の時に田舎から出てきて十年になる。師匠の家に住み込めると思っていたが一蹴され、安下宿から毎日通ううちに、今ではすっかりこの街の一員となっていた。
目指すのは職人街の一角にある、古びた石造りの家だ。玄関先には魔導式の風向計が取り付けられている。ジョルジュが扉を叩くと、奥から重い声が返ってきた。
「開いておる、勝手に入れ」
師匠オルヴェルは年季の入った魔導士だ。若い頃からこの職人街に住み、住民からは『先生』と呼ばれていた。乱れた白髪に無精ひげ、だが眼光だけは鋭い。
──魔導士にもいろんなタイプがいる。詠唱研究を専門とする者、魔法陣を考案する者、そして、この師弟のように、魔導具研究に勤しむ者がいる。
机の上には羊皮紙や巻物の山と、半分組み上げられた魔導杖が転がっており、棚には数々の魔導具が押し込まれている。いかにも研究者といった散らかり方で、来るたびに胸が落ち着き、同時に高鳴った。
「おはようございます、師匠。今日の実験、準備できてます」
「ふん、勝手に進めて勝手に失敗しても、儂は知らんぞ」
「よっ、ジョルジュ。遅かったな」
悪友のダリオが作業台の端に腰をかけ、工具をいじりながら軽く手を挙げた。褐色の肌に軽快な身のこなしを持つ、二軒先にある金物細工屋の息子だ。魔導具の試作が好きで、本業の合間にこうして手伝ってくれる。歳が近く、気も合うため、よく飲みに行ったりする仲だ。
オルヴェルが、ふたりの顔を見てため息をついた。
「まったく、おぬしら二人が揃うと、ろくなことにならん」
ダリオが、即座に言い返す。
「先生、まあ黙って見てなよ、今日こそは──」
ジョルジュは魔導盤に小型の魔石をはめ込み、手製の導線を接続した。狙いは農作業用の補助具。水を汲み上げる作業を軽くするための浮遊補助だった。
「いくぞ、起動——」
ジョルジュが詠唱すると同時に青い光が走り、魔導盤がふわりと浮く──が、煙がぶわりと上がった。火花が散り、軽い破裂音が工房にこだまする。焦げた匂いが広がり、視界が一瞬白く曇った。
ダリオが咳き込みながら、慌てて煙をあおぎ、オルヴェルが額を押さえる。
「げほっ……まだ安定しないな」
「当たり前だ。魔石の共振率を考えておらんだろうが」
「いや、調整すれば——」
ジョルジュとダリオは、互いの煤だらけの顔を見て笑った。
「誰でも魔法を使えるようにすれば、農作業も楽になる。病気の人だって助かる。きっと、世界はもっと──」
ダリオが笑いをこらえきれず肩を揺らす。
「お前、またそれかよ」
「いいじゃないか、夢を語るくらい」
オルヴェルは髭についた煤を払いながら、咳払いして言った。
「ジョルジュ、世界はお前の夢ほど甘くはないぞ」
ジョルジュは少しだけ肩を落としたが、すぐに顔を上げた。
「それでも……やってみたいんです、師匠」
「ならやってみろ。……ちょうどいい、おぬしに仕事だ」
オルヴェルは机の上の書簡をつまみ上げた。
「ギルドの会合に代理で出席してこい。儂は腰をやってしまってな」
「先生、ピンピンしてるじゃないか」
睨まれたダリオが肩をすくめる。
「代理、ですか?」
「そうだ、だが──余計な発言はするな、記録だけ取れ。お前の夢を王都の偉い連中に語る場じゃない」
ジョルジュは一瞬だけ口を結んだ。
「はい、師匠」
さらにもう一枚の羊皮紙が渡される
「あと、ついでにこれも買ってきてくれんか。もう無くなりそうなんでな。田舎は何でも高くていかん」
それは、実験用の消耗品リストだった。
(そっちが本命かよ)
ジョルジュは、思わず苦笑した。
外に出ると、昼前の職人街はさらに賑わっていた。どこからかパンの焼ける匂いが漂い、遠くの鐘楼が正午を告げる。ジョルジュは荷を背負い直し、書簡を胸に抱きしめた。
(王都か……楽しみだな)
気づけば足取りが速くなっていた。初めての王都──胸の奥がじんわりと熱くなった。
ふたりが帰り、静まり返った工房で、オルヴェルは机の煤を払っていた。ふと、その手が止まる。
──あやつは、王都の連中に何を見てくるかの……
工房に舞う埃が、窓から差し込む陽光で静かにきらめいていた。