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僕の指輪物語

 窓のカーテンはずっと閉じられたままだった。布の隙間からわずかに差し込む街灯の光だけが、部屋の壁にぼんやりと四角い影を作っていた。外の空は昼なのか夜なのか分からない。時計の秒針が一定の間隔で音を刻み、その乾いた音が布団の中まで届いていた。耳を澄ますと、冷蔵庫のモーターが断続的に唸り、時おり止まってはまた低い振動を響かせた。布団に頭まで潜り込むと、その音がかえって近くなり、耳の奥で反響するように感じられた。


 数十年前の学生時代の記憶が、寝返りを打つたびに浮かんでくる。机に落書きされた跡、破られた教科書の紙片、隠された靴を探して下駄箱の隅まで覗き込んだときの埃っぽい匂い。廊下を歩くと肩に衝撃が走り、足がよろめいて壁に手をついた。そのとき周囲の笑い声が背中のあたりで大きくなり、振り返っても誰もこちらを見ようとはしなかった。


 最初は一日だけ休めば落ち着くと思っていた。布団の中で目を閉じ、天井の板目の模様を見つめる日が二日、三日と重なり、やがて扉の向こうで両親の声が聞こえても、立ち上がることができなくなった。食事の皿が部屋の前に置かれると、空気に混じって温かい匂いが漂った。けれど扉を開けるのは遅く、冷えて固まった飯粒を箸でつまむことの方が多かった。


 時が経つうちに、友人からの連絡もなくなった。机の上には使わない携帯が置きっぱなしで、充電器に差しても画面が暗いままの日が続いた。代わりに光を放っていたのはパソコンのモニターで、窓の外の季節がどう移ろうとも、画面の明かりだけが部屋の中を照らしていた。


 十年を過ぎても生活は変わらなかった。朝か夜かも分からない時間に布団に入り、目を覚ましても天井の色しか目に映らない。開け放さない窓の内側に、湿った空気がこもっていた。布団の中で呼吸を繰り返していると、胸の奥が重くなり、頭の奥で自分自身の声が囁くことがあった。

 ――何をしている。もう終わっている。

 その声に耐えられなくなると、布団を蹴飛ばして立ち上がった。心臓が早鐘のように打ち、額に汗がにじむ。


 夜を選んで外へ出た。玄関の鍵を回すと、金属の擦れる音がやけに大きく響いた。ドアを開けた瞬間、外の空気が一気に流れ込み、冷たさと湿り気が肌にまとわりついた。部屋の淀んだ空気とは違い、少し埃っぽい街の匂いが鼻を刺した。


 アスファルトの上を歩くと、靴底から硬い感触が伝わり、街灯の下を通るたびに影が伸びたり縮んだりした。人通りはなく、遠くで車のエンジン音がかすかに聞こえるだけだった。布団に潜ってごろごろしているよりも、こうして歩いているほうが体の内側に溜まった息苦しさが少し抜ける気がして、僕は河原へ足を向けていた。


 住宅街を抜け、橋の下へと近づいていくと、遠くからざわざわと水の音が耳に届いてきた。昼間に聞いたことのある騒音ではなく、夜の闇に吸い込まれるような低い響きだった。自動車の音はもうほとんどなく、耳に残るのは風が草を揺らすかすかな音だけになった。


 河原の土手を下りると、靴の底に湿った砂利の感触が広がった。踏みしめるたびにじゃり、じゃりと小さな音が鳴り、闇に吸い込まれていく。足元からは土と水の混ざった匂いが立ちのぼり、草の青臭さがその上にかぶさった。


 川面には遠くの信号機の赤や緑の光が揺れ、波に合わせて形を崩しながら映り込んでいた。街灯の明かりは届かず、視界の端はすぐに闇に溶けていく。空を見上げると、雲の切れ間からかすかな星がいくつか覗いていた。


 ふと足を止めたとき、足元に転がる石ころの中で、小さく光を返すものがあった。しゃがみこんで指先でつまみ上げると、それは細い銀色の輪だった。泥にまみれていないのが不自然で、街灯の薄明かりを受けてかすかに光を返していた。


 手のひらにのせて眺めても、表面には刻印も傷もなく、まるで今落とされたばかりのように整っていた。指先に伝わる冷たさはじっとりと皮膚に吸いつき、夜風に吹かれてもその感触が消えなかった。

「誰かの落とし物か……」と声に出してみても、返るのは川の音だけだった。


 試しに中指へ差し込んでみた。最初は冷たさが広がっただけだったのに、次の瞬間、輪がぴたりと吸いつくように根元まで滑り込んだ。抜こうとつまんで引っ張ってみたが、金属は皮膚に食い込むように動かず、びくともしなかった。


「……外れない?」


 胸の奥で心臓がどくんと跳ね、呼吸が浅くなる。川の流れの音が遠のき、耳の奥で低い唸りのような振動が響き始めた。足元の地面が揺れているのか、それとも自分の体が沈んでいくのか判別できない。吸い込む空気は冷たさと熱さが入り混じり、吐き出すたびに闇が波のように揺れて見えた。


 視界は白と黒の渦に覆われ、街灯の光も川面のきらめきも一瞬で消えていった。まぶたを開いているのか閉じているのかも分からず、体ごとその渦に引きずり込まれていった。


 気がつくと、頬に柔らかい草の感触があった。湿り気を含んだ土の匂いが鼻を満たし、その上に青い葉の青臭さが重なっていた。まぶたを開けると、視界いっぱいに強い青空が広がっていた。白い雲がゆっくりと流れ、光は真上から容赦なく降り注ぎ、肌をじりじりと焼いた。


 上半身を起こすと、背中のあたりで草がざわざわと音を立て、風が通り抜けた。耳には虫の羽音が近づいては離れていき、足元では小さな羽虫が群れて舞っていた。さっきまで河原の夜にいたはずなのに、周囲の空気は夏の日中のように明るく、むっとするほど暑かった。


 立ち上がって周囲を見渡すと、遠くに濃い緑の林が広がり、その手前にいくつかの屋根が突き出していた。人の住む場所のようだった。すぐ足元には幅の狭い小川が流れていて、水面が太陽光を反射し、目を細めなければならないほど強く光っていた。


 喉が渇いていた。膝をついて水に手を伸ばすと、指先に触れた瞬間に冷たさが走り、すくい上げて口に含むと一気に体の中へ広がった。熱気で乾いていた喉を冷やし、胸の奥まで透き通るような感覚が残った。その冷たさだけが、この非現実的な景色の中で確かなもののように思えた。


 水面に顔を映したとき、自分の手の甲に目が留まった。白く細く、骨ばっていない。慌てて水面を覗き込むと、そこに映っていたのは見知らぬ顔だった。目は大きく形が整い、鼻筋は高く、髪は光を受けて滑らかに反射していた。年齢も若く、輪郭は整っていて、息を呑んだ拍子に水面が揺れ、その顔は波紋に崩れて消えた。


「……僕?」


 口から漏れた声も軽く、聞き慣れない響きだった。胸の奥で鼓動が速まり、手を水から離して自分の体を確かめる。肩にかかる長さの髪、引き締まった腕や脚。裸足の足裏には土のぬくもりがじかに伝わっていた。


 草を踏みながら歩き出すと、しゃりしゃりと乾いた音が足元から広がった。小川を渡り、林の縁を抜けると、小さな畑と木造の家々が並ぶ集落が現れた。屋根からは白い煙が立ちのぼり、風に乗って薪の焦げる匂いが漂ってきた。


 柵の向こうで子どもが二人、犬に似た四足の生き物と走り回っていた。こちらに気づいた子どもが目を丸くし、声を上げながら家の中へ駆け込んでいった。間もなく、大人が現れた。腰に布を巻いただけの質素な衣服をまとい、日に焼けた顔には深い皺が刻まれていた。


 男は僕をじっと見つめ、眉をひそめると低く落ち着いた声で言った。

「……旅の方ですか?」


 耳にしたことのない響きのはずなのに、不思議と意味が分かった。喉が乾いたままうなずくと、男は背を向けて手でついて来いと合図した。


 木の家の軒先には干した草束が吊るされ、石畳の隙間からは小さな白い花が顔をのぞかせていた。牛に似た大きな獣が柵の中で草を食み、その鼻息が間近に聞こえた。村の奥へ進むにつれて、子どもや女たちが戸口から顔を出し、こちらを見てはひそひそと声を交わしていた。


 案内されたのは広場だった。石を積んだ井戸の周りに人が集まっていて、屋台のような木の棚には見慣れない果実が並んでいた。橙色や深い紫の実が山のように積まれ、甘い匂いが風に混じって鼻をくすぐった。腹の奥がきゅるりと鳴ったのを、近くにいた村人が聞き取ったのか、笑みを浮かべながら実を一つ差し出してきた。


「遠慮はいらない。食べなさい」


 両手で受け取ると、ずしりと重みが伝わった。皮をむくと鮮やかな果肉が顔を出し、かじった瞬間、甘酸っぱい汁が口の中に広がった。舌の奥までしみ込み、しばらく咀嚼しても味が途切れなかった。喉を通り抜けると同時に、腹の底から熱が広がっていくようで、思わず肩で息をついた。


 その夜は村の宿に泊めてもらった。木を組んだ二階建ての建物で、上がり框に腰をかけると、床板からかすかに樹脂の香りが立ち上がった。二階の小部屋には藁を詰めた寝床があり、横になると乾いた草の匂いが鼻を満たした。窓を開けると夜の闇が広がり、虫の声と風の音が重なって流れ込んできた。河原の夜よりもずっと静かで、布団に潜っていた頃には感じられなかった落ち着きがあった。


 翌朝、村の人々はもう畑で働いていた。鍬が土を打つ音が広場まで響き、牛に似た獣の鳴き声が混じっていた。僕も村人に混ざり、畑の土を掘り返した。湿った土が鍬にまとわりつき、振り上げるたびに泥の塊がはじけて地面に落ちた。額から流れた汗が顎を伝い、首筋を冷やした。


 昼になると川で体を洗った。水は山から流れてきたばかりのように冷たく、肩に浴びせると皮膚がきゅっと縮んだ。流れに手を浸すと、石の表面に苔がぬるりと触れ、その感触が掌に残った。川辺の平らな岩に寝転ぶと、真上の太陽が背中を熱く焼き、やがてその熱で体が乾いていった。


 数日が過ぎるうちに、村の暮らしは自然に体に馴染んでいった。子どもたちは裸足で駆け回り、犬に似た生き物を追いかけて笑い声を上げていた。家々の軒先には干された草束が風に揺れ、煙突からは白い煙が絶え間なく立ち上っていた。誰も僕の過去を問わず、ただ旅人として受け入れ、食べ物や仕事を分け与えてくれた。


 そんなある日のこと、畑の端に切り倒されたまま放置されている太い木があった。幹は固く締まり、村人が斧を振るっても刃が弾かれるばかりで、木肌には浅い傷が何本も残っていた。何人もが代わる代わる試したが、木はびくともしなかった。


「こいつは前から厄介でな……」


 年配の男が額の汗を拭いながら苦笑した。周囲の村人も腕を組んで眺め、諦めの色を浮かべていた。


 僕は何気なくその幹に手をかけた。掌が触れた瞬間、皮膚の奥からじわりと熱が広がり、腕全体が軽く震えた。力を込めた覚えもないのに、幹がぱきりと音を立てて割れ、裂け目が一気に走った。


 周囲の村人が一斉に息を呑んだ。目を見開き、驚きと戸惑いの混じった声があちこちから漏れた。

「……今のは……」

「斧でも歯が立たなかったのに……」


 僕自身が一番驚いていた。指先がじんじんと熱を帯び、皮膚の下で脈打つ何かがはっきりと感じられた。その感触は汗で濡れた掌にいつまでも残り、何度こすっても消えなかった。


 その夜、広場には大きな焚き火が組まれていた。乾いた薪がはぜて火の粉が舞い、赤い光が人々の顔を照らしていた。子どもたちは木の枝を振り回し、昼間の僕の真似をして遊んでいた。大人たちは笑いながらも、時おりちらりと僕の方へ視線を送ってきた。その目には、ただの旅人を超えた何かを見る色があった。


 やがて弦を張った楽器が鳴り始め、太鼓のような低い音が広場に響いた。子どもたちが手を叩いて跳ね回り、大人たちは声を合わせて歌った。果実酒を口に含むと、甘さの奥に強い刺激があり、喉を通ると顔が熱くなった。笑い声と火のはぜる音が重なり、胸の奥で心臓が早く打った。


 数日が過ぎるうちに、この世界の暮らしは奇妙に心地よいものになっていった。働き、食べ、眠るだけで一日が過ぎる。誰も過去を問わず、ただそこにいてもよかった。けれど、あの固い木を砕いたときの掌の熱は消えず、時折思い出したように指の奥で脈打った。


 ある晩、広場の焚き火が小さくなり、人々が家へ戻ろうとし始めたころだった。東の山の方角から、低い雷鳴のような音が響いてきた。空に雲はないのに、地平線がじわじわと赤く染まり、地面まで明るさが広がっていった。


 翌朝、村の外れに出ると、焦げ臭い風が吹いていた。地平の向こうには黒い煙が立ち上り、鳥の群れが慌ただしく飛び去っていた。しばらくして隣村から避難してきた人々が姿を現した。服は破れ、煤で真っ黒に汚れた顔には疲労が刻まれていた。


 広場に集まった村人を前に、避難民の一人が震える声で言った。

「……魔王の軍勢だ。火を吐く獣に乗り、村を焼き払った」


 場に重い沈黙が落ちた。泣き声と嗚咽が広がり、焦げの匂いが衣服に染みついて鼻を刺した。


 その晩、僕は長老に呼ばれた。村はずれの小屋の中で油の灯が揺れ、板壁に影が映っていた。長老は深い皺を刻んだ顔で静かに語った。

「十数年前、魔王が現れた。国も軍もひとたまりもなかった。城は焼かれ、街は潰れ、生き残った者が森や谷に隠れて暮らすようになった。……今も援軍は来ない。もし魔王が再び動けば、村ひとつで抗うしかないのだ」


 言葉は淡々としていたが、灯火に映るその目は強く光っていた。僕は返す言葉を持たなかった。胸の奥に冷たい石を落とされたような重みが広がり、指輪が皮膚に張りついている感触だけがやけに鮮明だった。


 長老はやがて立ち上がり、僕を村はずれへと導いた。月明かりに照らされた草を踏みしめ、森の奥の祠へたどり着いた。苔に覆われた石の壁はひんやりしていて、近づくと湿った土の匂いが鼻を突いた。


 長老は無言で石扉を押し開けた。軋む音が闇に響き、奥から冷たい空気が流れ込んできた。灯りを掲げると、石造りの部屋の中央に古びた台があり、その上に一本の剣が横たわっていた。鞘は錆びて黒ずみ、長い年月がそのまま表面に刻まれていた。


「これは、かつて勇者が魔を退けたと伝えられる剣だ」

 長老の声は低く、奥に響いた。

「だが王国が滅んでからは誰も抜けず、こうして封じられてきた」


 剣に近づくと、胸の奥が熱を帯び、指にはめたままの指輪がかすかに光った。柄に触れた瞬間、熱が掌を走り、鞘に収まっていた刃は抵抗なく抜けた。錆びているはずの刃は銀色の光を放ち、手の中に収まった。


 長老の目が大きく開かれた。

「……やはり、おまえなのか」


 剣は淡い光を宿し、握る腕にまで脈打つ感触を伝えてきた。まるで生きているようだった。


 数日後の夜だった。広場の焚き火が小さくなり、人々が眠りにつこうとしていたころ、風が急にざらついた。肌を撫でる空気が重く変わり、地面の下からごろごろと低い震えが伝わってきた。


 東の森の向こうが突然赤く染まり、火柱が空へ立ち上がった。炎の粉が夜空に散り、耳をつんざくような咆哮が続いた。村人たちが一斉に顔を上げ、叫び声が広がった。

「魔王の軍勢だ!」


 黒い影が木々の間から溢れ出した。甲冑をまとった魔物、牙を光らせる獣、火を吐く巨体が柵を踏み越えて突入してきた。


 咄嗟に剣を抜いた。刃が鞘を離れると白い光が走り、闇を切り裂いた。突進してきた獣の首を薙ぐと、温かい血飛沫が顔にかかり、焦げた匂いと混じり合って鼻を刺した。


 村人たちも必死に武器を手に取った。だが数が多すぎた。屋根に炎が燃え移り、乾いた木材が爆ぜる音が夜を裂いた。泣き叫ぶ子どもの声、母親の絶叫。煙が押し寄せ、視界は赤と黒に覆われていく。


 剣を振るうたび光が走り、魔物は倒れていった。だが倒れても次々に現れ、足元には屍が積み重なった。血と土で地面がぬかるみ、靴が吸い込まれるように重くなった。腕は汗と血で滑りそうになり、呼吸は荒く途切れがちになった。

「守りきれない……」

 口から漏れた声は震え、耳に自分の荒い息が響いた。


 そのとき、背後から長老の声が飛んだ。炎に照らされた顔は煤で黒く汚れていたが、目は強く光っていた。

「元を断たねば、この地は永遠に焼かれる!」


 胸の奥で何かが固まった。剣が熱を帯び、手の中で脈打った。村を守ろうとすればするほど、守れないものが広がっていく。燃え落ちる家、泣き叫ぶ声、崩れる屋根。


 歯を食いしばり、剣を握り直した。

「……魔王を倒す」


 炎に包まれる村を振り返った。走り回る人影、赤く染まった空、焦げの匂いが髪と衣服に染みついていた。


 僕は振り返らずに走り出した。足元で砂利が弾け、焼けた木片を踏み砕く音が重なった。背後ではまだ叫び声と咆哮が続いていた。

 行き先はただ一つ。黒雲の渦巻く城。

 そこに全ての元凶が待っている。


 燃え上がる村を背にしてから、どれだけ走ったか分からなかった。森を抜け、崩れた街道を進むたびに、かつて人が暮らしていた痕跡が廃墟となって姿を現した。


 石造りの橋は中央から崩れ落ち、川面に黒い影を映していた。広場だったと思われる場所は灰に覆われ、瓦礫の間に黒い煤の塊が散らばっていた。風が吹くと焼け焦げた匂いが鼻に刺さり、灰が舞い上がって喉にまとわりついた。


 人の気配はなく、踏みしめる自分の靴音だけが廃墟に響いた。壁の影からは小動物すら現れず、沈んだ静けさが広がっていた。


 やがて空は黒雲に覆われ、昼も夜もない灰色の闇へと変わった。雷鳴が絶え間なく轟き、稲光が地平を照らした。丘を越えると、魔王の城が姿を現した。崩れかけた塔が鋭く突き出し、稲光に照らされるたびに鋭い影を地に落とした。


 城門に近づいた瞬間、地面が揺れ裂け、炎が吹き上がった。残った軍勢が待ち構えていた。甲冑をまとう魔物が列をなし、獣が唸り声を上げた。


 剣を抜くと、刃が白い光を放った。踏み込み、振るうたびに光が闇を裂き、敵の群れを切り崩した。火花が散り、砂塵が舞い、腕に伝わる衝撃は重かった。肩が悲鳴を上げても、剣の光がそれを支えた。


 血に濡れたまま城門を越えると、広い広間に出た。石の床には裂け目が走り、天井から崩れた瓦礫が落ちていた。その奥に、漆黒の鎧をまとう巨躯が立っていた。顔は仮面で覆われ、背後の壁が崩れ落ちても微動だにせず、こちらを見据えていた。


「村を捨ててここまで来たか」

 低い声が広間全体を震わせた。耳ではなく胸の奥に響く声だった。


「貴様が選ばれた剣を持つ者か。だが……その力すら、我を倒すには足りぬ」


 魔王が大剣を振り下ろした。空気が裂け、石畳が砕けた。衝撃に体が吹き飛ばされ、背中を壁に打ちつけた。肺が押し潰されるように痛み、息が詰まった。


 それでも剣を支えに立ち上がると、刃はさらに光を強めていた。

「足りなくても……やるしかない!」


 踏み込み、剣と剣がぶつかり合った。轟音と閃光が広間を満たし、火花が雨のように散った。衝撃波で壁が崩れ、石片が飛び散った。


 魔王の一撃は重く、斬撃一つで床石が割れた。炎と雷が同時に襲いかかり、受け止めれば即死のはずの衝撃を、剣の光が必死に押し返した。腕は痺れ、肺は焼けるように熱く、それでも足は止まらなかった。


 幾度も地に叩きつけられ、膝を折った。それでも立ち上がるたびに剣の光は増し、魔王の鎧を焦がした。


 そして渾身の一撃を叩き込んだ瞬間、魔王の仮面に亀裂が走った。甲高い音を立てて破片が砕け散り、素顔が露わになった。


 そこに現れた顔を見て、呼吸が止まった。

 伸びた髪、無精ひげ、濁った目。布団の中で天井を見続けていた、自分の顔だった。


 砕けた仮面の下から現れたのは、やつれ果てた自分の顔だった。頬はこけ、目の下には深い影が刻まれ、口元には無精ひげが伸びていた。濁った瞳は真っ直ぐこちらを見返していた。


「人間なんて、みんな死んでしまえばいい」

 低く濁った声が、広間の石壁を震わせた。耳からではなく、胸の奥から響くように感じた。


 剣を握る手が震え、腕に力が入らなくなった。胸の奥が冷たく締めつけられ、吐く息が白く濁ったように思えた。その瞬間、理解した。この世界全体が、自分の心から生まれたのだと。


 長い間閉じこもっていた部屋。誰も信じられず、他人を恨み続けた日々。積み重なった澱みが形を取り、軍勢となり、魔王となって立ちはだかっていた。


 思い返すと、村も、人々も、焚き火の歌声も、果実の甘さも、救いを求めていた自分の心が作り出した幻だった。あの温かさは現実ではなく、ただの影にすぎなかった。


 剣を見下ろした。刃はもう揺らいでいなかった。光は静まり、鏡のように広間と自分の顔を映していた。


 視線を手に移すと、指にはめられた指輪があった。金属の輪は熱を失い、ただ冷たく皮膚に張りついていた。


 ゆっくりと指輪を外した。指から離れた瞬間、視界がぐにゃりと歪み、耳に届いていた轟音や雷鳴が一斉に崩れた。光も色も砕け散り、渦に飲み込まれるように体が引きずられていった。


 ――気づくと、夜の河原に立っていた。街灯の光が川面に揺れ、遠くを走る車の音が低く響いていた。湿った草の匂い、砂利を踏んだ靴底の感触。すべてが現実の夜のものだった。


 見下ろした自分の体は、青年ではなかった。痩せ細った腕、くたびれた服。長く部屋に閉じこもっていたそのままの姿だった。


 手のひらにはまだ指輪が残っていた。冷たい金属の感触がはっきりと伝わってきた。しばらく見つめ、力を込めて川へ放った。


 小さな光が弧を描き、水面に落ちた。ちゃぷん、と音がして、波紋が広がり、やがて闇に溶けた。


 残ったのは夜の冷気と、川の流れの音だけだった。


 振り返ると、街の灯りが遠くに滲んで見えた。砂利を踏みしめて歩き出すと、ざりざりと靴音が響いた。


 戻らなければならない。あの家へ。

 そして魔王になった自分を、救わなければならないのだ。

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