背後
バターの焼ける甘っぽい香りと、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。ギエンは食欲そのままに羊肉を頬張った。羊肉特有の嫌な臭みはなく、濃厚な肉の味わいが口に広がる。柔らかい肉質で、噛むたびに旨みが溶け出していく。脂身の甘さは他の肉類とは比べ物にならず、舌の上を転がるたびに口角が上がっていった。
干し肉ばかりの食生活は、干し肉という調理法の少ない素材を軸に据えるため、直接焼いた場合ただでさえ硬い肉質が歯にも負けない強度まで仕上がってしまう。
そのため、鍋などで煮るか、ほぐしてパンで挟んだりさっと炒めるくらいしか無かった。
ギエンにとって今この瞬間は至福の時間であり、血濡れた日常のオアシスだと言えた。
バター焼きについてきたパンをちぎり、羊肉の肉汁とバターが混ざり合った皿に押し付ける。旨みを多分に含んだ汁をパンは吸い上げ茶色に染まる。
パンを口に放り込むと、今度は添え物の揚げ芋と赤瓜を味わう。提供された全てを余すことなく楽しんでいくギエン。
食に没頭し、日常が頭から離れているギエンの意識に情報が触れた。聞き耳を立てていなくても付近の客の話し声が聞こえる食堂。だからこそ情報集めに食堂を選んでいるのだが、今回のように半強制的に意識を持っていかれるのは好きではなかった。
ギエンの聴覚と意識の意図に触れた情報は3星ヤーモスの名前だった。
「ナイヌの方で、ヤーモスのところの兵隊があちこちいるみたいで、おっかなくて商売できねぇってタビオのやつが言ってたよ」
「ここ最近、ザスベヌのやつらは考えなしに動いてるよな。まったく、困ったもんだよ。」
「それで言うとよ、ビュベロファミリーが、セギオラを捕まえたら1万パール払うって話らしいぞ。」
「おまえさんビュベロなんか信じるのか?」
「いや、そうじゃないんだが、ビュベロだけじゃなくて他のやつらも一枚噛んでるらしいんだ。」
娯楽の少ない田舎町では噂話は一番酒を進ませる。フイェオ国のタァンポも変わらずその様子だ。
特に王国と帝国、そしてシペアブロを行き来する商人達は【ザスベヌファミリー】の動向を逐一確認しなければ、翌日酒を飲むことすら出来なくなる恐れがあった。
そのため【ザスベヌファミリー】の話は単なる酒のつまみだけでなく、明日以降の飯の種に変わる重要なものだった。
ファミリーを罵ったりするのは日頃溜まったファミリー達への捌け口として大事な場所でもある。ギエンは一連の話に聞き耳を立て、要点をまとめる。
また、情報源が一つでは心許ないため他の席の話にも意識を向けたり、1人で飲む商人らしき男に酒を奢り情報を集めた。
その日の夜。セギオラから渡されている紙代わりの樹皮に、今日集めた情報を書き記していく。最も重要だった内容はヤーモスが隣国ナイヌで大規模な動きを見せているというもの。目的は憶測の域を出るものが無かったが、候補としては2つ。
最もあり得るのはセギオラの捜索。その次に可能性があるのは、最近巷で噂になっている北方から【ザスベヌファミリー】の威力偵察に来ている【アイゴラスギルド】への対処。
内輪揉めの機会を狙い、北方の小国郡で一大勢力を築いている【アイゴラスギルド】が大陸制覇を目指してちょっかいを出しているらしい。近年、その動きが活発化していたようで、ラュートの不在とファミリー内での争いに乗じて最近より派手に動いているらしい。
この話もちょくちょく商人の口から聞くものだった。
セギオラからファミリーの内情や、危険人物、重要な名前を聞かされているギエンは、どんな情報でも拾い上げるため注意深く確認していく。
早くヤーモスの話を聞かせなきゃと、集めた情報をまとめた後セギオラがいるであろう山の方向を見つめる。最も気掛かりなのはセギオラの話では慎重派で、【ザスベヌファミリー】の中では一番と言っていいほど常民、一般市民を傷つける事を嫌がるらしい。
直接的な暴力は勿論、ファミリーの存在が近くにある事自体生活を脅かしていると考え、毎年多額の税を納める代わりにシペアブロの一国の中で放棄された土地を自らの領地としてファミリーで運営している。
そんな彼がファミリーという権威を利用し街をひっくり返すように動き回っていると聞いた。これは何かおかしいと、ヤーモスの事を知らないギエンですら違和感を覚えていた。
セギオラに伝えなければという焦燥感を覚えるギエンだったが、この時何も知らないセギオラの背後にはヤーモスの直属の配下グラヴィアスが迫っていた。
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ギエンがヤーモスの情報を耳にする2時間前。フイェオ国とナイヌ国を隔てる国境キビ川上流にヤーモスは陣を敷いていた。商人の情報が新鮮な物だとは言え、調達から1日は経っている。この1日という時間はヤーモスにとって十分過ぎるものだった。
ギエンの予想していた2つの可能性。その予想はどちらとも合っていて、ヤーモスが大体に動いたのは今求める全てを得るためだった。
『グヴド』(番犬の意)と呼ばれるヤーモス直属の精鋭部隊はヤーモスの陣に呼ばれ、主君の言葉に傾聴していた。
「賊人セギオラは王国国境をちょろちょろしている事は『嗅』の調べでわかっている。今頃はフイェオか、ナイヌの辺りにいるはずだ。フイェオには北の猿どもも拠点を構えている、せっかくの機会だ。全部綺麗にしてから終わらせよう。」
ヤーモスは『グヴド』それぞれのメンバーに仕事内容を細かく記した紙を渡し、各々の仕事内容を伝える。
「緊急事態の判断はそれぞれ任せる。責任は私が持つ。それじゃあ行け、」
『グヴド』の面々はヤーモスの掛け声で離散する。「さてと、」とヤーモスは陣に残るファミリー達に陣の撤去と、索敵陣形を保ったままポアン山脈へ進む事を命じた。ヤーモスの執事兼護衛のモラティーは、ヤーモスに帽子と剃刀を手渡した。
「しばらく頼むぞ、」
ヤーモスの言葉にモラティーは深く頷き、ヤーモスはフイェオ国のタャンポ都を目指し1人闇夜に消えていった。
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ヤーモスの考案した索敵陣形は、王国の戦闘体系を元にしている。王国は帝国と違い徴兵制をとっているため、兵個人の技量や士気は低い代わりに大人数を派遣する事が出来る。
仮に戦闘面で役に立たない雑兵だったとしても目や耳は等しく持ち合わせている。そのため、個人の技量はさておき王国兵隊の索敵能力は長けていると評価されていた。
効率よく人を配置し、付かず離れずの距離で情報を密にやりとりできる方法。右翼で発見した対象を本隊が知るのは、発見してから1分も満たない時間というのは知られた話だった。
そんな完成された陣形を知ったヤーモスは自己流に構築し直した。王国の陣形は個人の技量を無視し、下のものに合わせた作られ方をしている。そのやり方で王国は良かった。けれど、ヤーモスの率いる軍隊は技量も士気も高い者達が多い。
王国式では却って索敵の弊害になる部分が多かった。
モラティーは、右翼と左翼に自らの部下を置き指揮系統をまとめあげる。ヤーモスが不在の間自分が仕事をやりきらなければならない。ビュベロやギルバートといった不埒な者達に先を越されるわけにはいかなかった。
ビュベロを信奉するサラスがいるように、ヤーモスに忠誠を誓い神にも等しく思う信奉者がモラティーだった。圧政を敷く帝国のある領地で不当に勾留された行政官モラティーを救い、圧政の大元である領主を打倒したヤーモス。
正義感の強いモラティーはファミリーの事が大嫌いだったが、ヤーモスという男の持つ芯に心酔した。それ以来、ヤーモスの荷物持ちという立場からモラティーのファミリー人生は始まった。
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