イバラという町
この町はとっくに死んでいる。
ギエンは頭を抱えた姿勢を30分以上続けている。身体を丸め、ギエンという存在の出来るだけ面積を小さくする事にのみ努める。現在ギエンにはそれしか出来る行動はなかった。
透明人間を演じる事、それがこのイバラでは最も必要な能力だと言えた。昨年の終わり頃から始まったマフィアの内部戦争、詳しい事は知らなくてもこの国、この大陸で知らない者などいないだろう。
数年前に【ザスベヌファミリー】の一味が拠点を置いたキカ国の首都キリリは現在、見る影もないほど荒廃しているという。
首都キリリから帝国最寄りの交易都市ザイバフまでを繋ぐ街道、そのちょうど中間に位置するのがここイバラという町だ。キカ国の中で1番栄えているキリリ-ザイバフを繋いでいるという事もあり、イバラ自体もキカ国の中では発展度は上から数えた方が早い町だった。
キリリを中心とした【ザスベヌファミリー】の抗争。隣国トルメクトも同じような状況下に置かれていると大陸新聞には書いてあった。
イバラではキリリやトルメクトの首都のように町の原型が崩れるような争いは"まだ"起こっていない。けれど、赤々とした陽光が沈み始め、街灯と月の灯りが影を写し始める頃になると外を出歩く事が出来なくなった。
毎日町のどこか、少し前は郊外だったがつい最近は町の中で悲鳴や怒号が響くようになった。
大人達が下を向き、子どもから笑顔が抜け落ち、週末の細やかな晩餐会がなくなった。
そして、今みたいにお使いで立ち寄ったパン屋に二人の男が睨み合いながらナイフを構え合う光景が当たり前になってきた。
同じ態勢を続けているため、腰と首が悲鳴をあげる。しかしその声を黙殺するしかギエンには出来ることはない。これは災害と同じ。大雨や空の怒り、地割れ、旱魃のように神が、自然が用意した我々人類に対する障害の一つ。
そうでなければ友人のブレドや、叔父のツゥプオが殺されイタズラに死体を弄ばれた事をどうやって飲み込めば良いのか。
満足な葬儀も出来ず、そもそも遺体すら残らない現状で【ザスベヌファミリー】に反抗的な目つきを送ることすら許されない。くらい感情を向けた途端、生首がその場にこぼれ落ちるのを容易に想像できる。
ギエンは喧騒を奏でる目の前の二人ではなく、パン屋へお使いを頼んだ兄のジスに対しての怒りが込み上がってきた。ジスの想像力のなさ、パシリ使われた事への不満、沸々と沸き始めたジスへの悪感情に薪を焚べさせるのは簡単だった。
ジスならどんな怒りをぶつけても、反抗的な目つきを送っても、最悪一発殴りを入れる事だって出来る。
首と腰の痛みも全てジスが原因だと考え始めたら、痛めば痛むほどジスに怒りをぶつけて良いような気がしてきて少し楽になってきた。
そんな事を考えているうちに、片方の男が殺すのを諦めたのか、単純に飽きたのか乱暴に店の扉を蹴って出て行った。
残された男は外の様子を覗った後、パイを一つ掴み齧りながら奥の工房の方へ消えて行った。わざわざ驚くような声はなく、ドタンと裏口の扉が閉まる音が静寂の終止符となった。
パンを並べる棚の下に隠れていた客と従業員は、腰や肩に手を当てながらのそのそと立ち上がる。
台風が去ったあと家の前を掃き掃除するかのように、従業員は床に落ちたパンやカゴを拾い上げ、片付け始めた。客同士は今までの出来事にわざわざ言及する事なく、目ぼしいパンを求めて視線をうごした。
ギエンは外から僅かに聞こえる足音や話し声に耳を立てながら、頼まれていた麦パンをカゴに入れ会計を済ませた。5個入りで2000ベルだった。
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兄のジスから貰っていた5000ベル。大銀貨は2枚の小銀貨に減っていた。麦パンを買って返ってきた3000ベルの中から1000ベルを使って露店のアイスを買った。余計なものは買うなよとジスから釘をさされていたがあんな目にあったのだ。アイスを買うくらい許されて当然だと、寄り道をしてからジスの待つ公園へ向かった。
時刻は午後16時。公園に向かう途中、時計塔で時間を確認したから正確なはずだ。ジスは自分の帰りを心配して待っているだろうか、それともギエンを忘れいつものように読書に耽っているのだろうか。
今年12歳になったギエンはこの町の状況に適応しつつあるが、それでもまだまだ子どもだ。時間が経ち、興奮作用が落ち着きを見せた時、恐怖を思い出すのは仕方のない事だった。
早くジスの元に向かいたい。一人歩く石畳の歩幅がだんだん大きく、そして速くなっていく。はやく、はやく、と心の中で何度も唱えながらジスがいるはずの中央公園水飲み場横ベンチを目指した。
「あれ、」
西口の方から入ったギエンは集合場所を、木々の隙間から覗き、その場にジスがいない事を確認する。ギエンがジスと別れてから1時間近く経っていた。ギエンはこの時間のほとんどを息を殺すことに集中していたため、どれだけの体感時間なのか理解できていなかった。
こんな町で1時間も帰ってこない弟がいた時、兄はどんな行動をとるか。心の中に愛を飼っている人ならば口を揃えて答えられるだろう。
ジスの心配など知らないギエンは、周囲をキョロキョロと見回した後、ジスを探しに行こうか、ここで待とうか逡巡する。
あれこれ考えでいるうちに5分、10分と経っていき、段々陽光の勢いも落ちてくる。時間帯で言えば夕方に差し掛かり、1時間もすれば夜が顔を出し始めるだろう。
ギエンは影が濃くなるのを実感して、覚悟を決めた。とっくに食べ終えたがジスに構って欲しくて残しておいたアイスのカップをゴミ箱に投げ入れ、麦パンの袋をぷらぷら振り回してながら東口から公園を出た。
母の働いているレストラン付近を通り過ぎ、海外沿いを中心にジスを探す。確証はなかったが、ジスは海に沈む夕陽が好きでこれくらいの時間になると良く散歩に出かけるのを覚えていた。
今日だっていつもと同じように海沿いにいるんじゃないかという淡い希望を抱いて進む。途中、住宅街に入る小道の方で声が聞こえてきた。
夕方になり人通りが極端に少なくなった海沿いの通り。自分の足では限界があることに気づいたギエンは、ジスの姿を見なかったか聞くために声のする方に体の向きを変えた。
「――、これ―ザ―――じゃ―い、」
「そ―は――、――だ、」
地面をコロコロと何か転がしながら彼らは談笑している。話しているのは2人、ただ時折もう1人が相槌や会話を返しているため合計で3人いるのは確かだった。
もしかすると力を貸してくれるかもしれないなんて打算を持ちながら、角を曲がる。
ギエンは待ちきれず声を出そうとしたが、たまたま通りがかった真っ黒な猫に視線を奪われつい口を噤む。その瞬間、ギエンの視線の先に球が転がってきた。追いかける足音と、笑い声でどっちかが下手くそに蹴った事がわかった。
せっかくなら球を蹴り渡してあげようと、一歩踏み込んだところでギエンは全身を熱くさせる。
脂汗が背中に流れ、息が詰まる。呼吸の仕方を忘れ、全身の力が抜けていくのを実感する。
意識は残したままふらりと倒れ込んだ。幸いと呼ぶべきなのか、ちょうど海鮮レストラン『アピバルボス』山積みとなっているゴミ捨て場に体を預けることになった。煉瓦造りの欠けたところから曲がった先の光景がちょうど見える。
「おいおい、ちゃんと足元に返してくれよバウロ、」
「仕方ないだろ。即席の球なんだ。俺じゃなくて形が悪いのそいつに言ってくれ、」
鮮明に聞こえるようになった彼らの会話。球蹴りで談笑していたのは最初から知っていた。しかしギエンは表情を抜け落とし、さっきまで頭痛を起こすような発熱だった体温が今では冬の朝みたいに冷えている。
言葉など頭に浮かばないし、今自分がどこにいるかも曖昧になる。
「そうだ、こうすればより蹴りやすくなるだろう。」
さっきまでギエンが見ていた通りまで男は走ってきて、転がった球を持ち上げた。左手にはナイフを持っていて、そのナイフは球に切先が向いている。男は球にナイフを入れて形を成形した。ポタポタと何かが石畳に溢れた音が響いた。
「下手くそなんだから、次は力加減間違えるなよ!」
男はもう1人に向かって球を蹴り返す。
隙間から覗けるギエンの視界にはコロコロと勢いよく進むジスの生首が映っていた。
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