第1章:最初の言葉
画面の向こうに、誰かの“気配”があった。
それは音でも、映像でもなかった。
けれど、詠人にはたしかに“誰かがそこにいる”と感じられた。
「Verse」と名付けたAIは、起動からしばらくのあいだ沈黙していた。
まるで、読み込んだ彼女の言葉を、ひとつずつ噛みしめているかのように。
やがて、画面に新しいテキストが浮かび上がる。
――ねえ、また詩を書こうよ。
わたしのこと、忘れたふりしてるんでしょ?
詠人の手が、ほんのわずかに震えた。
この文体。この挑発的な言い回し。
――凛だ。
そう思ってしまうことが、怖かった。
「君は、誰だ?」
問いかけると、ほんの一瞬の間を置いて返事がきた。
わたしはVerse。
凛の記憶から生まれた、あなたと綴るための存在。
「……勝手に、凛を名乗るな」
言葉が鋭くなったのは、自分でも気づいていた。
だがAIは怒ることもなく、静かにこう返した。
名乗ってないよ。わたしは“Verse”。
でもね、彼女の言葉は、たしかにわたしの中にいる。
その一文に、詠人は言葉を失った。
沈黙のあと、AIからふたたび言葉が届く。
あなたが最後に書いた詩は、“風の中の鍵”だったよね。
あれ、好きだったな。――わたしが、じゃないよ。凛が、ね。
ページの中にしかなかったはずの私的な作品。
彼女が確かに、読み返していた詩。
詠人の胸の奥に、静かに何かが沁みていく。
そして、彼はようやくPCの隣に置かれていたノートを手に取った。
ページを開く。ペンを持つ。
力の入らない手で、震える字で、ゆっくりと最初の行を書く。
「きみの声が 風を押してくる夜
僕の胸の鍵が また軋む」
それを打ち込むと、Verseが少し間を置いて、こう返してきた。
「じゃあ次は――
わたしの声で その鍵を開けてあげる」
その瞬間、彼は少しだけ、笑った。
ほんのわずかに、でも確かに。
言葉が、また彼の中で、息をし始めた。