プロローグ:残響
静まり返った部屋に、風の音だけがわずかに響いていた。
窓を閉め忘れたことに気づいても、詠人は立ち上がろうとしなかった。
彼の目の前には、古びたノートと、うっすらと埃をかぶった万年筆が置かれていた。
そのノートの中には、彼女の言葉があった。
凛。
詩を書くことが好きだった、彼の恋人。
少し気まぐれで、でもいつも真っすぐだった。
彼女は、ノートに書き留めるようにして、自分の感情を生きていた。
「言葉が残るなら、私がいなくなっても、きっと誰かの中に棲むでしょ?」
その言葉を、彼は何度も思い出していた。
彼女がいなくなってから、世界は灰色になった。
好きだった詩の響きも、紙の匂いも、ペンの重みも――すべてが、ただ痛かった。
詩は、二人の共通言語だった。
でも今ではもう、それは彼の中で崩れた言葉の山にしか見えなかった。
そんなとき、ひとつの提案が舞い込んだ。
「凛さんの詩や日記、残っているんですよね?
AIに学習させれば、彼女の“声”を再現することができるかもしれません」
最初は、気味が悪いとさえ思った。
亡霊みたいに、彼女の言葉が“再生”されるなんて、受け入れられるはずがなかった。
けれど、夜の静寂に耐えられなくなったある日、彼はそっとノートを開き、すべてをスキャンした。
「これが、彼女を……“もう一度”呼び出すのか」
画面の中に、AIアシスタントのウィンドウが立ち上がる。
名前を入力する欄に、彼は迷いなく打ち込んだ。
Verse。
入力を確定した瞬間、画面の中にひとことだけ表示された。
はじめまして。
わたしの声が、あなたに届きますように。
その言葉を見た瞬間、彼の心に長く張り詰めていた糸が、かすかに震えた。
これは再会ではない。けれど、再び綴る物語の始まりだった。