1章6話
玉座を出た後、アダムは心もとなく城の廊下に立った。ふと、蒼いステンドグラス越しに外の世界が見えないかと目をこらす。すると、わずかに見覚えのある丸く禍々しい形の繭が見えた。
あの繭が破れる時、自分たちは再び勅令警報で呼び出され、命がけの討伐をやることになる。イリヤのように討伐限界数を迎えて死ぬか、それとも魔物に殺されるか。違反行為が認められて死ぬか。いずれにしても結末は「死」であり、ほかに選択肢はない。
でも、本当にどこにも逃げられないのか……? そんな考えが一瞬襲った。自分の甘さに嫌気がさす。もう誰も見捨ててはいけないのに……。
アダムは両手を思い切り頬に向かってぱちん、と叩く。
「ああもう! 考えるよりもやれ!! やるしか、ないだろ!」
クリフに向かって言った通り、全部の魔物を倒すまで。いつ自分の限界が来るかはわからないが、最善を尽くすしかない。
だがふと、アダムはガイアのことが気になった。あのままもし起きなかったら。そう思うと不安が襲う。ほんの少し会ったばかりだと言っても、こんな死と隣り合わせの状況で関わった相手だ。もしいなくなったらと思うと怖くて仕方ない。
アキリーズに釘を刺されたことを思い出しながらも、アダムはマリアに頼んだ。
「マリア、案内を頼む。ガイアが休んでいるところまで」
「個人情報の開示は許可されていません」
「あっ……じゃあ、治療室まで」
「医務室のことでしょうか。ガイア・モイラへの訪問目的ならばご案内できません」
アダムは明るくなりかけた顔をすぐに曇らせた。だが、ほかの手を考えようと腕組みして唸る。
「なんだよ、それぐらいいいじゃないか……。あ、そうだ。包帯がほしいからそこへ連れて行って!」
「上腕部、下腹、大腿部などに無数の傷が散見されますが、部屋に治療器具はございます。それをお使いください」
「うう……えっと、えっと……じゃあ、医務室で仮眠したい!」
「ベッドは満杯です。訪問は明日でもよいかと。そしてあなたが行って、会話を試みてもガイア・モイラは休眠中。治療の妨げになるかと思われます」
アダムはため息をついた。人工知能のマリアは融通が利かないが、言われていることは確かに正しい。
「わかったよ……。じゃあ、部屋に案内してくれ」
「かしこまりました。アダム・ノーデンス・エルダーゴッド。前方に進んでください」
「あのさ、俺の名前、なんでそんなに長いんだ? クリフもだけど」
「あなたはかつてこの星の善神であったノーデンスの現身となられました。神との対話に成功し、適合した半神は神からその力と名前を神名としても貰い受けます。その身に宿した神とより一体となるための通例です」
アダムは城の廊下を歩きながら、思わず周囲を見渡す。ルルイエの王城の廊下や執務室、玉座は無機質な印象の研究室とは打って変わり、大理石を主に使った内装が施されていた。
側面と天井の窓には色の洪水のようにあざやかなステンドグラスが豪奢に使われていた。歩きながら眺めていると、それが回廊と共に進んでいく物語になっていると気づく。
アダムは思わず注視しながら廊下を進んだ。その美しさに感動し、思わずマリアに感想をつぶやく。
「すごく綺麗なステンドグラスだね」
「はい。このステンドグラスはルルイエ城の建立および神話国家としての成立を祝って設置されたものです。年代は……魔脳マグダラよりデータの引き継ぎがないため不明。ルルイエでは有名な神話、太陽王ゼルク・ラーの伝説を描いた表象美術です」
「伝説を描いた……じゃあ、物語になってるんだ」
初めにステンドグラスで表現されていたのは、きらきらと降り注ぐ太陽。幾重にも重なった三角形の建築物……その先には白い獅子を従えて堂々たる風格で立つ少年、そして彼の元にひれ伏す大勢人々の姿が描かれていた。おそらく、彼がゼルク・ラーなのだろう。
『偉そうにしちゃって』。
そのときふと、いたずらっぽい少女の声が頭の中に聞こえた気がして、アダムは振り返る。だが、そこには誰もいなかった。
討伐で疲れているんだ、きっとそうだ……。こんなの知らない。
『嘘つき……』
また振り返るが、どこにも、影も形も見えない。焦燥にも似た気持ちでアダムは回廊を進みながら物語を追う。すると白い装束を身にまとい、腰まである豊かな巻き毛を垂らした少女がヤドリギの木の傍で眠る絵図が現れた。
ふと、その少女を見た時、アダムの心臓がどくりと脈打ち、そして体内を蛇のようなものが激しく這っていく感覚が襲う。体内のどこかでヨグ・ソトースの肉塊……受肉結晶が反応し、熱くなっているのだと直感した。
さらに回廊を進むと、その少女が虹色の触手の塊……さっき、クリフに見せられたヨグ・ソトースに向かって両手を伸ばしていた。少女の手に、首に、体に虹色の触手がすがりつくように絡みついている。
『大丈夫よ……。ほら、早くこっちに来て』
また声が聞こえた。
「マリア。この女の子は……誰?」
心臓の鼓動がどんどん早くなっていくのを感じながら、アダムは尋ねた。なぜか片目から涙が流れてくる。懐かしく、なぜか胸が潰れそうなほどに悲しい。
このステンドグラスに描かれた物語について知りたい、いや……自分は知らなくてはいけない。そう思った。
「彼女の名は、メルジューヌ。一万年前……有神時代に、現在のルルイエがあった地に存在したと言われる太陽の王国の巫女です」
太陽の王国。なら手前に描かれた少年は王様だったんだろうか? なぜ、この巫女がヨグ・ソトースと共に描かれていて、僕はこんなにも悲しいのだろう?
その時だった。頭がぐらりと痛み、視界がわずかに歪んだ。耳にキーンと耳鳴りが起こる。そして……どこからか、呼び声が聞こえてきた。
『メルジューヌ……泣かないで。もうすぐ……から』
「アダム・ノーデンス・エルダーゴッド。静止して二分が経ちました。自室への案内を中断しますか?」
「ごめん、本当に疲れてるみたいで……。案内を続けてほしい」
アダムは首を軽く回し、深呼吸をした。まだ耳鳴りは続いていたままだ。どこかで「メルジューヌ」と呼んでいる声が響き続けている。地の底? それとも、意外と近くに……?
わからないが、思考を放棄したくなるほどの動機と耳鳴りに襲われたアダムは「疲れ」を理由にすることにした。何よりも、その声が自分には「聞こえる」と認めることがなぜかとても怖かった。
「了解しました。アダム・ノーデンス・エルダーゴッド」
「やっぱり長いな……。アダムでいいよ」
「承知しました。アダムとお呼びいたします」
「ありがとう」
アダムは本心から感謝した。特別な詮索も心配もしてこないマリアとの機械的なやりとりが、今はどこか気楽だった。
「あのさ、マリア。俺……記憶がなくて自分が何なのかわからないんだ。君は何か知ってる?」
「その質問には答えかねます」
「はは……だよな。ごめん」
「ですが、統計ならばお伝えできます。私の母体となった魔脳マグダラの時代から連綿と続く人間の歴史的行動パターンを分析……『自分探し』を徹底して行った者は、何かしらの結果、あるいは納得を得るという一定の統計があります」
「『自分探し』……そっか。じゃあ、俺も逃げずにやってみるよ。『自分探し』」
「検討を祈ります、アダム。そして次の角を右折してください」
「はい、わかりました」
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夜更けの医務室。いまだ意識を失い、ベッドで眠るガイアの傍にアキリーズが付き添っていた。
ガイアと同じく、第三等級のビジョップであるアキリーズにはある程度の自由行動が認められており、夜にどこにいようが王からの咎めはない。
付き添ったところで何もしてやれることがないとわかっている。これはただの自己満足だ――。ガイアの寝顔を見つめながら、アキリーズは刻一刻と過ぎているはずの時の流れをひどく緩慢に感じた。
なぜ、すべての時が今のような速度で流れてはくれないのだろう。
人が死ぬのも、魔物が蠢く繭が破れるのも、たったの一瞬。
最も望まぬ瞬間ほど、光のような速さで訪れては全てを奪い尽くして去っていく。どんなに急ごうとも間に合わず、何もかもが指先から零れ落ちる……。
アキリーズは恐る恐る、ガイアの首輪に触れて、討伐限界数を確認する。
その数字を見て、アキリーズはこぶしを震わせる。これがいいように変わっているわけはないとわかっていた。
「アキリーズ、ごめんね。私のせいで」
気づくと、ガイアが目を開けていた。水晶のように美しく澄んだ緑の瞳はアキリーズをぼんやりと見つめる。
「すまない……勝手に見た」
「もう、『知ってる』のに? 意味がないよ」
「それでも、期待して何が悪い」
そう言ったアキリーズの口調はどこか、駄々をこねる子供のようだった。ゆっくりと起き上がったガイアは手を伸ばし、アキリーズを抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。
柔らかく、爪まで小さな手は、今にも壊れそうなほど華奢で……だが、アキリーズの仮面の奥に隠れた硬く冷たい心を一瞬でときほぐすような温かさに満ちていた。
アキリーズは年の離れたガイアがもう二度と戻ってこない娘の姿に重なって見えるときもあれば、生まれてから一度も会ったことのない母のように感じることもあった。
「アキリーズ……お願いね、あのこと」
「お前は残酷だ、ガイア。俺にできるはずがないだろう」
「大丈夫。私はわかってるから」
アキリーズはガイアから顔を背けた。仮面に覆われた片方の顔しか見えなくなる。それでもガイアは、アキリーズが一体今どんな顔をしているかわかった。
「ごめんね」ともう一度謝るガイアの声が、夜の中に落ちて、消えていった――。