3章12話 A Dream’s Farewell and the Vanished Witch’s Call
アダム……アダム……。
誰かが俺を呼んでいる。優しい、女の人の声。
かあさまだろうか?
あの人はいつも、俺に優しくしてくれた。眠れない夜は異国に伝わる精霊の物語を聞かせてくれて、子守歌を歌ってくれた。
自分の体がひどく小さく感じる。ぼやけた視界の中、目に入った自分の小さな腕は明らかに赤ん坊のものだった。そして、誰かの腕に抱かれている。
そうか……きっと、これは夢。
俺は赤ん坊に戻ってるんだ。だからか、言葉を出そうにも何も出てこない。
自分じゃ何もできない。
ただ泣いて、何かを訴えるしかない。
思わず心もとない身を、自分を抱いてくれている誰かに向かって寄せた。
「起きちゃった? ……ほんとうに甘えんぼさんね」
そこにいたのは、金色の髪に紫の瞳をした女の人だった。綺麗で、柔らかいのに細くて、今にも壊れそうな少女。
……おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!!
思わず、火が付いたように泣き叫ぶ。それは言葉のかわりの叫びだった。
言葉が出るなら、本当は伝えたかった。
俺はあなたに会えて、とても嬉しいんだ……と。
この人のことを何も知らない。覚えていない。
でもずっと……俺はこの人に会いたかった気がする。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。
どこにも行かないでほしくて、赤ん坊のまま泣きながら縋った。
でも、一体俺はどうしてこんな感情になるんだ……?
この人……魔女ヘレナは国を壊し尽くして、みんなに憎まれ、かあさまを憎んだ悪い人なのに?
泣き声が止まらない。
不安定な蝋燭の光が照らす部屋の静寂はいとも簡単に打ち破られていく。
困ったように彼女は赤ん坊のアダムを抱き上げ、そっとゆすってあやしてくれた。
「小さな可愛い子。大丈夫、あなたのお母さんは少し休んでいるだけだから……」
よく見ると、彼女の華奢な胸元に刺青のような赤い刻印が浮かび上がっていた。時折苦しげに、彼女は顔を歪めては荒い息を吐いた。
「平気……すぐおさまるから。あなたは英雄アーサーの血を引く子。きっと、強い勇者になれるわ。でも、弱くてもいい、泣いてもいい」
彼女はアダムの小さな背中をとんとんと叩いてあやす。
「何も為せなくても、そのままでもいいの。生まれた瞬間に、あなたは祝福されている。何があっても、守り抜くわ」
何にも、ならなくていいの?
誰も、何も助けられなくても、生きていていいの?
会いたい人に会いに行っても、いいの?
彼女は赤ん坊のアダムのおでこにキスをした。
「あなたは『光の神子』……。どんなときでも、みなを照らすことができる。こんな私のことも、照らしてくれた。だから、あなたなら大丈夫。“闇”として生まれたあの子のことも、もう一度照らしてあげて……」
光の神子? 聞いたことのない言葉だ。でも、そんなものと俺は程遠い。
俺はクリフを助けられなかった。ガイアのお母さんだって、結局死んでしまった。ガイアやクリフは半神として、また命をかけて戦っている。
頑張ったけど……ダメだった。
こんな俺に、一体何ができる? どうやってクリフを、みんなを照らせる?
「特別なことはしなくていい。あなたが存在しているだけで、照らされる人がいる。それを忘れないで」
その彼女の言葉が、優しく自分を包み込んでいく。ゆっくりと、彼女の姿は透明化していった。
「ああ……もう、H・O・Lを欺けないわ……。調教が始まる。でも、久しぶりに会えて嬉しかった……あなたの記憶の中に、ほんの少しだけ、私が残っていたおかげね」
待って、行かないで……。
言葉がなくとも赤ん坊のアダムは激しく泣き叫ぶ。だが、ヘレナは寂しげに笑いながら、どんどん輪郭を薄くしていく。
…………。
ふとアダムはあたりを見渡す。薄暗かった世界は永遠と続くまばゆい白と虹色で構成された世界へと変わっていた。前にも来たことがある。ここは俺の潜在意識だろう……アダムは呆然としながらもそう理解した。
そして、聞き覚えのある声が再び響く。
『想定外の未来だ……。『禁忌の消失点』となった『魔女』の記憶がわずかに残っているなんて。でも、仕方がないな……これもまた『時の改変』の余波だろう』
もう一人の創生神、ヨグ・ソトース。
その声はどこか落ち着いていた。
過去・現在・未来のすべての時を掌握する時の神らしく、ただ諦念と達観がその中に込められていた。
『お、起きた……って深層意識の中じゃけど! ほらぁ、千回やったら成功するって言ったじゃろ? 儂の勝ちぃ~!!』
そう言って嬉しそうに金色の光球がふよふよと飛び回った。間違いない、このおじいちゃんみたいな、でも若い声……。
「の、ノーデンス……?」
【挿絵:ノーデンスとアダム】
『お初じゃなぁ~、アダム! そうじゃ、さっそく『嘆きの残滓』問答はじめよっか! もうめっちゃ待ってて、儂、疲れた~』
「ノーデンスーッ!!!! また会えたぁ~!」
アダムは思わずノーデンスに抱き着こうとしたが、光の球はつかめず、勢いでこけそうになり、前につんのめりながら膝を打った。
「あだっ……」
『なんじゃ、いきなり泣きながら抱きついてきて。どんくさいの~。まあいいや! 人懐っこくて好感度高いから採用! 半神として互いに頑張ってくぞ!』
「相変わらず雑すぎ! そんなので決めていいのか!?」
『いいんじゃ、いいんじゃ! 儂は人を見る目がめーっちゃある! それになんかわけありってのも興味あるしのう』
アダムはふと、気づく。そうだ、今のノーデンスは自分のことを何も知らないのだ。
そう思うと少し寂しくなる。すると金色の光球はふよふよアダムのまわりを飛びながら言った。
『ま~、なんかその? 『時の改変』でたぶん、別の未来の儂を知っとる的な感じじゃろ? 最初はお前の知っとる儂ほど仲良くできんかもしれんが、ようは積み重ねじゃ。つーわけで、あんまり落ち込むでない! がはは!』
やっぱり……。恐ろしいまでにフランクで、器が大きくて、話が早い。
一瞬にして、抱えていた懸念がかき消されて、ぷっと噴き出してしまう。
「わかった……よろしく、ノーデンス」
そしてアダムは白い領域の中にある、虹色に輝く結晶を見つめる。
ヨグ・ソトースの受肉結晶――そこから、どこかさびしけな声がぽつりぽつりと響く。
『『彼女』が介入したせいで、幻がかき消されてしまった。でも、仕方ない……君はどうしても、行くんだね?』
「ああ……俺はみんなに会いに行きたい。今からでもできることをするよ。たとえ何も為せなくても……会いたい人に会いたいから。身勝手かもしれないけど、それがオレの望みだ!」
『いいよ。君の選択を受け入れる。ぼくは結局、一万年経っても、君には全然勝てないみたいだ、メルジューヌ』
アダムはチクリと胸が痛むのを感じた。
また、俺はこの神の大きな恐ろしい愛に背いてしまうんだろうか。
だが、わずかな笑い声とともにヨグ・ソトースは言った。
『言っただろ? ぼくは君の輪廻の果てをいつまでも待ってるって。だから……今回はただのわがままだった。君ならきっと、魂を殺されることなく、生き延びる。そう信じることにする』
そしてしばらく流れた沈黙のあと、虹色の神は途切れ途切れに呟く。
『メルジューヌ……君に、謝らなきゃ。ぼくは、君に行ってほしくなくて一つ嘘をついた……。君は確かに、『時の改変』で少しだけ未来を変えられたんだよ。炎龍に刺されても、あの子……クリフに必死で会いに行っただろう? だからか……あの子は寂しがりやだけど、少しだけ周りに優しくなった。今、見せてあげる……』
また、頭の中に映像が浮かぶ。
犬のような耳を生やした少年にからかわれながら、笑っているクリフ。
ガイアと言い争いをして、ぶすっと頬をふくらませる姿。
これが、今のクリフなのか……? 夢の中で見たような明るさでは当然ないが、確かに彼は前よりも柔らかくなっていた。
『助けに行こうとした君の想いは、彼に届いた。だからこそ、彼は凶行に走らず、今も生きている人がたくさんいるんだ』
それに便乗するようにノーデンスがふよふよと漂いながら言う。
『ほらぁ~、言うた通りじゃろ! 無駄なことなんかないんじゃ! 触手のぼうやの半神は、複雑ですげー面倒な感じじゃが、まあまあ頑張っとるし、悪くない王様じゃぞ!』
余計なことまで言う……。そう思いながらも、少し安心した。
『じゃあ、メルジューヌ……。しばらくさよなら。ぼくにとっては、ほんの瞬きの間だけどね』
ヨグ・ソトースのその言葉には元の慈愛に溢れていた。
そのとき、アダムはふと気づいた。
――ああ、そうか……。
いつもこの神は俺を独占しようとしては、葛藤の末に手離してきたのだろう。
会えなくても、どんなに呼ぼうが声が届かなくても、俺の魂を見つめながら。
アダムに輪廻する前の記憶など持っていないが、それは事実のように感じた。
ふと、アダムは問いを投げかける。
「君はどうして、いつも俺の手を離してくれるの? ヨグ」
たとえ力を失おうと、時の神ヨグ・ソトースには俺の魂を好きな時間に縛り付けておくことぐらいできるはずだ。
それでも、この神はいつも最後にその選択をしない。
『ぼくも、わからないんだ。せっかく君が深い眠りについたんだから、手放したくなかったはずなのに。でも……君の魂が輝く姿を見ていたいからかもしれないね。ずっと……』
ヨグ・ソトースの愛は不思議だ。視線をはがしてもくれないのに、永遠に生まれ変わり続ける自分を閉じ込めようとはしない。
伝えたい言葉がある気がした。自分の中のメルジューヌの魂が呼び掛けているものなのかもしれないが、それがうまく見つからない。
どうやれば、うまく伝えられるのか?
わからない……。
片目から涙があふれてきた。きっと、『彼女』の想いだろう。
そして、わずかに魂の中に浮かんだ声をかけてみる。
「ありがとう……ヨグ。また会おう」
答えは返ってこなかった。
ヨグ・ソトースはどう受け取ったのか、知ることもできない。
ただ、ほんのわずかに笑い声が聞こえた。
ああ、きっと……『これでいい』んだね?
潜在意識のなか、不思議な風が起こる。アダムは自分の体が浮かび上がるのを感じた。どこまでも、どこまでも高く……。
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アダムはゆっくりと目を開ける。
そこには、自分を心配そうにのぞき込む、金髪に紫の目をした……。
ヘレナ……さん……?
その時、頭に痺れのようなものが走り、思考が何かに塗りつぶされるようにすり替わった。
いや、そんなはずはない。
『魔女』はみんなに憎まれ、首を斬り落とされて死んだはずなのだから。
「兄さん? 目覚めたのかい!? やっと……やっと……!」
がばっと抱き着いたクリフをなだめるように、そして彼がそこにいることを確かめるようにアダムはその背中に腕を回した。
「……ただいま、クリフ。待たせてごめんね」




