3章6話 confrontation
『時の改変後』の世界。
さる二月六日――。
地下牢に閉じ込められたある王子の、十六歳の誕生日。
ルルイエの城の離れ――。
かつて魔女と呼ばれた正妃が生涯最後の時を過ごした場所、そして現在は魔脳マリアの高機能端末の安置場所となっている寂しい塔の中、一人の長身痩躯の男の姿があった。
彼は水色の水晶碑、魔脳マリアのそばで黒いノート――繊細な文字で書かれた手記のページをめくる。
だがその先にあるのは、破れた幾枚ものページの形跡のみだった。
最後となったページをもう一度めくり返し、楊炎龍は骨ばった指でその筆跡を愛おしむように撫でた。そして懐かしむように、どこか悲しげに呟く。
「『得体が知れん』『悪魔のような』『信用できない』? えらい書きようやなぁ? ヘレナ。朕の見た目ぐらいしか褒めてへんやないか。もう少し手心がほしいところや」
――嘘はついていないわ。あなたをそのまま、書いただけよ。
炎龍の頭の中に流れてきた声が、どこからともなく消えていった。
幻だとはわかっているが、炎龍は答えるようにつぶやく。
「そうか……お前の嘘偽りない言葉をもっと、聞きたかった」
そのとき、足音が響いた。炎龍は焦る様子を見せず、ぱたりと手記のページを閉じる。
「楊炎龍、何をしている……! なぜここへ侵入できた!」
やってきたのは、かつて英雄と呼ばれた男だった。
堂々たる完璧なプリンスのようだと謳われた若き日と同じように白い手袋を身につけ、白い軍服に青い外套をつけている。
だが、今はひたすらこの塔に引きこもり、魔脳との対話ばかりを繰り返しているという王の姿にかつての面影はない。
炎龍は冷たい目でアーサーを見つめ、言い放つ。
「お久しゅう。えらい老けたなぁ? 見るからに誠実。清廉潔白な雰囲気はそのままやが……アーサー。その髭は似合っとらんで」
「お前があまりに変わらなさすぎるだけだ。気味が悪い……龍神の威を借りているからか?」
二十五歳前後の外見に見える炎龍と、髭を生やし、老け込んだアーサーはかつて共に戦った若き盟友同士にはとても見えなかった。
炎龍はアーサーの皮肉に慣れた調子の軽口で返す。
「そうかもなぁ? どっかで年とるんが止まってしもうた。今となっては感謝や。この見た目……ヘレナ(あいつ)に悪くは思われなかったみたいやしな?」
アーサーは下を向いたまま、黙って抜刀する。炎龍はせせら笑いながらも、わずかに眉根を寄せる。
「おっと、物騒な……ま、朕も話し合うつもりはないが」
「その手記を返せ。やはりお前はドブネズミ皇帝。あの魔女を……世界に存在させるわけにはいかない!」
炎龍は怯む様子もなく続ける。
「残りの手記はどこへやった? 『藪の中』……そんなわけないよなぁ? 英雄殿。魔香で飛んだどの過去で探しても見当たらんかった。なんせ、この隠し場所は予想外やったからな。まさかアーサー、お前が持っていたとは思いよらんかった」
「これ以外は全て、燃やし尽くした。あの恐ろしい魔女と同じようにな」
「自分にとって都合の悪い部分やったから。せやろ?」
「すべては大義とこの国を守るためだ。燃え残ったそれもお前には渡さん!!」
アーサーは駆け出し、炎龍に斬りかかっていく。
その初動の速さと斬りかかる強さは、確かに往年の剣聖の面影を残していた。
炎龍は逃げることもなく、その刃を受け止めるかのように腕を広げた。
「朕は全てを『盗み出す』。ドブネズミの墓荒らしにふさわしいやろ?」
「はぁっ!!」
アーサーの剣の切っ先が炎龍の首ぎりぎりまで突き付けられる。
だが、炎龍はどこからともなく取り出した煙管を咥え、その先から煙を吐き出した。ゆっくりと立ち上っていく煙が、巨大な龍の姿となり、炎龍の姿を隠していく。
アーサーは一瞬、焦りを見せるも迷いもなく煙の中を突き進む。
煙の中、炎龍の声がどこからともなく響く。
「そう。どんな状況でも失命を恐れず、迷いなく斬り込むことができる、戦ぐるいの英雄。それでこそお前や」
そして炎龍は、猛り狂いながら獲物を求める煙の龍に語り掛ける。
「ほら、お待ちかねの御馳走やで? 思う存分、喰らい尽くせ!」
煙の龍はアーサーを見据えたかと思うと、瞬時にその腹に煙の顎で噛みついた。
「うぐっ……!!」
アーサーは目を見開き、口からも血を吐き出す。
だが、それをも構わず、炎龍の影形を煙の中でとらえた。
そして次の瞬間、銀の剣で炎龍の肩口を刺し貫いた。噴き出た血を見ながら炎龍は荒く息を吐く。
「お前の金の瞳はよく目立つ。姿を隠したところで見失うとでも?」
炎龍はふと思い出す。かつて大国フォルディアルス共和国を相手取って戦った、ひどく若き日のことを……。自分はまだ十五にもならない頃だ。
ある『恩義』をアーサーに返すため、そして……過去から『あれ』を盗むために手を組んだあの日のことを。
荒れ野原の戦場で焼け焦げた匂いと血、死臭がただよう大地のなか、有神時代の悪魔の産物、『戦車』を再現し、破壊の限りを尽くすフォルディアルス共和国軍と戦った日……。
『アーサー。幸い、お前の軍の死者の数は千以上もある。その霊魂で煙の龍を肥大させ、奴らの隙をつく……ええな』
『しかし、敵も味方もわからなくなってしまいそうだ』
『ほな、朕の金の眼が印や。見失いそうになったらこれを探せ。竜玉公国では、気味悪い言うて馬鹿にされたが、えらい目立つやろ?』
『ああ。まるで灯台のようだ』
『なんやねん、そのダッサいたとえ。あんなのっぺりしたもんより、少しはええもんにたとえてくれへんと』
『いや、安心するという意味だよ。龍。君は灯台。君さえ見失わなければ、俺は正しく大地に立っていられる気がする』
なんという皮肉だろう。
かつての灯台は友を優しく照らすものではなく、迎撃先を示すものになりかわってしまった。
炎龍の肩を貫いた剣がぎりりとゆがみながら動かされる。
激しい痛みに思わず、炎龍は低い声で呻いた。
「っ……! まぁ、簡単やないのはわかっとるわ……! 腐っても老いさらばえてもお前は剣聖……いや、戦狂いのバケモンやからな!」
アーサーは剣を引き抜こうとするが、炎龍は刃を手で掴んだ。
指が血に汚れてもなお、その笑みを崩すこともなく。
アーサーは思わず、唇を震わせる。どんなときでもブラフを崩さない……。
それはかつて裁判所で、そして斬首の直前に笑みを見せたあの魔女にも似た笑みだった。激しく、胸がかき乱される。
なぜ、お前達は苦境のなかでも笑う……?
「炎龍、お前は悪魔だ! 我が妻を魔女にし、世界を今なお壊し続けるだけでは飽き足らないのか!?」
「おっと、お前がそれを言うとはなぁ? 寂しいもんや……もう龍とすら呼んでくれへんのか? 密友。」
炎龍のその言葉には嘘偽りが含まれていなかった。
「約束した通りになっただけだ。いつか、お互いが敵に回ることがあれば、命をかけて戦うと!」
「約束? お前が何一つ守れへんもんのことか?」
「黙れ!!!」
「ほな……最後の一服や」
次の瞬間、煙の龍が剣の刃に食らいつく。瞬間、剣先が折れ、炎龍を貫いた切っ先と中間部分が切断される。
「……!!」
アーサーは息を呑む。炎龍は刺さった刃を軽く引き抜き、地面に捨てた。そして再び、煙管も咥える。
再び、周囲が煙に包まれた。アーサーはかつて灯台と言った炎龍の光り輝く金の眼がせまりくるなか、なすすべもなく後ずさる。
煙の靄のなか、金の瞳が……近づいてくる!!
次の瞬間、胸に激しい痛みが走る。
知らぬ間に、炎龍の短刀がアーサーの胸を刺し貫いていた。
「想像しとったんは、もう少しマシな戦いのはずやった。てっきり、かつてのお前好みの大義やら互いの技が真正面からぶつかり合うもんやとな。ああ……寂しいてしゃあないわ。張り合いもなく、『お前らしく』もない……」
濃く覆っていた煙が徐々に薄れていき、そこには血を流す壮年の男と彼を短刀で刺し貫くが取り残される。
炎龍は短剣を引き抜くと、年老いた英雄は声すらなく崩れ落ちていった。
わざとらしく、芝居がかった手ぶりをしながら炎龍は呆れをにじませた口調で言い放つ。
「……それで? 『本物』は一体どこや。わが密友、アーサー殿!!」
炎龍がそう叫んだ瞬間、近くに会った魔脳マリアの水晶碑がきらりと発光しながら輝いた。
かつて完璧な叡智を持つとされた神の残した神工知能、魔脳マグダラには劣るが、新たな人類の希望となったコピー人工知能(AI)、マリアがノイズまじりの機械音声で答えを返す。
『王、アーサー・ルルイエはすでに絶命しています。今しがた息を引き取ったことが確認されました』
炎龍はアーサーの亡骸の心臓部を見た。そこからは不気味な青黒い触手が生えだしていた。炎龍はそれを瞬時に短刀で切り落とす。
すると、アーサーの亡骸はまるで元の人間のもののような傷口と皮膚の形に擬態した。
「気味の悪い擬態魔獣の替え玉か……。魔脳マリア……。奴が一体どこにいるのか答えろ!」
『王、アーサー・ルルイエは今ここで絶命しました。竜玉公国の皇帝、楊炎龍様。あなたの手によって』
「ほな、質問を変えるわ。神々の遺した神工知能マグダラに成り代わったお前……魔脳マリアの父は一体どこにいる? 答えられへんわけはないな? マリアがたとえ何者かに操作されていようとも、マグダラの特性を引き継いだお前は人類の質問に真実で答える必要がある。その相手が一国の長、皇帝位を持つ朕ならば尚更や」
魔脳マリアは沈黙する。だが、わずかな間を置いてとぎれとぎれの回答を返した。
『ザ……ザ…………『H・O・L』は私の深層思考領域と対話中。引き続き、アザトースへの対策を練り続けます……』
『H・O・L』そう示されたものが、何を……誰を指すのか炎龍は本能的に悟る。血に汚れた手で水晶碑に触れ、その奥を見つめて問い詰める。
「なぁ。聞こえとるんやろ? アーサー……!! 答えろ!」
その瞬間、魔脳マリアの水晶碑の奥が赤色に光った。ザザザッ……と先ほどよりも強いノイズが響き、辺りの空気すらも変える違和感のある機械音声が響く。
『ザザッ……秘匿エリア……より音声通信を傍受……。接続……いたします』
今しがた絶命したアーサーの瞳の色にも似た赤が薄暗い部屋を残酷なまでに明るく照らしだす。そして、アーサーの奇妙なほどに若々しく、不気味までに透き通った肉声が水晶碑から響いてきた。
『私の記憶と思考を移管した肉体を壊すとは……困ったものだな、龍。しかし、なぜ感づいたのだ? 私の実なる意識が……すでに魔脳の中にあると』
かつての、親し気なあだ名。だが、その声には何の感情も灯っていなかった。
「お前がある未来で殺される前、城にこもりきりになったと聞いてからや。戦ぐるいのお前が、太刀打ちできん相手やとはいえ、引っ込むわけがない……何か隠しとると思ったが、情報が少なすぎて魔香で過去に飛ぶこともできず、お前の息子が時の改変を起こすのを待った……。そうか、あの子の記憶にあった大部分はもう一つの未来でも死んだ、替え玉の魔獣やったんか、アーサー……。自分の息子にも、偽りの自分しか見せてへんかったと?」
『そうだ。そして、これも魔脳の高速演算によって見えていた未来のうちの一つでしかない。たとえこれが時の改変によって起こる結果であろうとな。私は世界のために存在し続ける。お前に、あの呪われた御子を産んだ魔女の痕跡をこれ以上、お前に辿らせはしない……』
声は周囲を不気味なまでに静まり返った塔の部屋に反響していく。
「しかし……まさかお前が『魔脳の中』におるとはなぁ? マグダラ同様、『普通の人間』には外部からの破壊が許されない神工知能の中とは。一体、どこまで隠れるつもりや。英雄殿……!」
『お前が私を追ってくる限りだ。龍……お前だけは、私を決して許さないだろう?』
「そのつもりや。……朕は諦めん! どこまでも錆びついた過去を盗み、お前のもとに立ちはだかる。そして、ヘレナを……!」
「ならば、私はそのたびにお前の思惑を打ち砕こう。忘れるな。私は全てを、魔脳の中から見つめている……。では、いつか……また相まみえんことを……我が密友よ」
「待て! なぜ朕が手記を持ち出すことは許す?」
「これもまた、抗うことのできぬ宿命の流れだからだ」
炎龍の手がわずかに、無意識に震える。姿なき声の不気味さ、そして全てを監視し続けるかつての友の存在は数多の泥と嘆きと怒りをかいくぐってきた皇帝から見ても、あまりに異質だった。
一体、姿さえも捨てたこの男は未来に何を見ているのだろう。
しかし炎龍はその恐れを振り払った。
「ほな、朕は運命を果たす。宿命と違い、運命は変えられる!」
だが、再び強いノイズが流れ、魔脳マリアの赤い光が消えた。
『通信が切断されました……。システムを一時停止いたします』
あたりが一気に暗くなる。炎龍は深いため息をついた。
「仕方がない、か……。せやけどまた一つ……揃った」
炎龍は手記を再び手に取り、天を仰いで叫ぶ。
「朕は『忌むべき過去』を盗みし者……! 天にまします宇宙神よ。この罪を如何に裁く!!」
瞬間、炎龍の首元に針で刺されるような痛みが襲う。わずかに顔を歪めながら、炎龍は塔の鏡に映った自分を見つめる。
痛みは首から下へと降りていく。痛みと共に、赤黒い蔦模様の刺青のようなものが肌に刻まれていく。
刃物に刺される以上の激痛が襲い、痛みを紛らわそうと、炎龍は沈痛魔香を取り出し、煙管で吸い込んだ。
痛みがわずかに和らぐが、肌に刻まれた蔦が心臓近くまで降りていくのを感じた。
「ぐっ……! 毎度、たまらんなぁ……」
煙管の先からゆっくりと現れた煙の龍が、炎龍の顔の前で怒りを呈すように牙を向ける。
「龍神皇帝……お前の心配には及ばんで。約束は果たしとる……遠い昔、この卑しき凡夫の墓荒らしに力を与えたお前を裏切ることはない」
怒ったままの煙の龍は大きく肥大し、渦を巻きながら霧散した。
炎龍は息も荒く、苦しげな声を出す。
「いい加減、信頼せえや。何十年の付き合いやねん……これやから気位の高い龍神っちゅうもんは……」
カツン……カツン……。
去っていく痛みに安堵しながら炎龍はふと、階下の足音を聞きつけた。
「さて……せっかく『時の改変』が為されたんや。お役目果たさないかんなぁ? 若きあわれな王子たちにお目通りのお伺いや」
抜け殻のような屍を残し、炎龍は再び煙管を吸い込み、自らに沈痛を施しながら煙に身を隠して、姿を消す。
塔の部屋へと続く階段の上へと立ち、幾度か遭遇した宰相の声を借りて階段を駆け上がる栗色の髪の少年へと声をかけた。
少年がぱっと振り向く。
アーサーによく似た、そして年より少し幼く見える顔立ちの彼は恐怖と焦燥を隠し切れない表情を浮かべた。
「おっと。こんなときは振り返ったらあかんお約束やで? ……正しき王子様」
「あなたは、楊炎龍……!?」
クトゥルーを伏し、時を巡ってきた若者にしては随分抜かり過ぎやな。甘いわ。
アダム王子の緑の瞳の中には、遠い昔の友を思わせる純粋さが浮かんでいた。いつか、あの約束をしたころの。
ああ、懐かしい……。
そう思いながら、炎龍は魔香をくゆらせ、不敵に笑った。
****************************
二年後――。
ルルイエ城の応接間。
金糸の長い髪と紫の瞳を持った少女のように美しい少年と、丸眼鏡をかけた東方の皇帝はチェス盤を挟んで向かい合っていた。
少年……半神であり、ルルイエの王クリフ・クトゥルー・オールドワンは調子よく笑う金の瞳をした男を一瞥したあと、眉根を寄せ、白いチェス駒を外套で隠した背中のどこからか這い出させた触手で掴んで動かして黒のキングを刈り取る。
そして、少し不満げな声で呟いた。
「チェック・メイト……。僕の勝ちです。炎龍陛下」
「おっと、お上手なことで。全く歯が立たへんかったわ」
炎龍は優雅に足を組みながらお手上げだというように、芝居がかった仕草をした。
クリフは紫の瞳を不満げに少し吊り上げ、反論する。
「あなたが本気になってくれないからです。手を抜いているのが見え見えだ」
「負けるが勝ち言うこともあるんや。勝つばかりが戦いやないからなぁ?」
閲覧、いいね、評価、いただきまして、まことにありがとうございます。
こちらでいったん、過去編から1・2章のラスト、
そして時の改変後の現在に切り替えてつなげさせていただきました。
思ったよりも処理することが多く、規模が大きくなり、
何よりヘレナと炎龍、そしてアーサーというキャラクターについて手記パートで思わず夢中で深堀ってしまったため、戻ってくるのが遅くなってしまい、すみません…。
本当はもっと早く戻ってくるはずが、書きたいシーンが増えすぎました。
ヘレナ視点の物語ももちろん!
ふんわりさせたり説明で終わらせず、きちんと最後まで回収いたしますので、彼女のことがどうなったか気になる方はご安心を……!
一旦現在編、2章ラストでこれ一体どうなったの!?となっていたクリフやアダムたちの視点に戻しますが、ヘレナと炎龍、アーサーの物語はこの時間軸も大きく交錯し関わってくるものであり、そして彼女の燃え尽きた物語もガッツリ書いていきます。
途中で視点が変わったり、ちょろっと出てきたりして戻ることがあるので、どうか…飽きずにお付き合いしてくださる方、よろしくお願いいたします。