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3章5話 ヘレナ・エラルヴィン・ルルイエの手記5

 ひゅううううううう……!

 激しい風の中、煙の龍が勢いよく夜空を駆けていく。

 これに乗っているなんて、にわかに信じがたかった。

 体中の力が抜けた私は大きく息をつきながら、すぐ前にある煙の龍の頭を眺める。

 厳格そうな鋭い瞳、鋭い顎。長い龍の髭。

 それは魔脳データベースでいつしか見た、東方の伝承に残る威厳顕な龍神の姿によく似ていた。

 煙が龍になるなんて、聞いたことがない。魔術でも、こんな召喚魔を呼ぼうものなら、相当な代償が必要だろう。

 煙の上に体が乗っていることがにわかに信じがたいが、不思議な安定感まであるから、尚更困惑する。

 数々の思考が渦巻いている私を見て、隣に座った炎龍はにやりと笑った。

 私は思わずかちんと来ながら、ぼそりと呟いた。

「この恨み、絶対忘れないから」

「そーか。ほなダンスの手ほどきをした貸しはこれで相殺やな」

 人を食ったような態度。つくづく、腹の立つ男だ。

「こっちは死ぬかと思ったのよ! そんなことと引き換えにされちゃ困るわ」

「『そんなこと』まで言われると傷つくわぁ~。ほな、両方とも保留ってことにしとこか……いつかお互い、返せるときに返せばいい」

 私は下を向かないようにしていたが、こわごわとどんどん遠ざかっていくルルイエの城を見る。

 高度が上がっていくたび、それは小さくなっていく。

「空から見下ろせば、お城はずいぶん小さいのね」

「そんなもんや。何もかも、小さくてくだらん。とっくの昔に死んで星になった神々も、人同士の諍いやらしょうもない戦いを笑っとるやろな」

 どこまでも煙の龍は高く飛んでいく。本当に、ここには私達二人しかいないのだ。

「これも『嘆きの残滓(ラメント)』の力?」

 炎龍は煙管を少しだけ懐かしげに見つめながら言う。

「ああ。死した龍神皇帝からの借りもんや。『わが国の帝政復古のため、尽力すればすべてを与える』……あるときそう言って、霊廟に忍び込んだ、どこぞの馬の骨とも知らん墓荒らしのガキに、自分の力をたくしたっちゅー話や」

 その『墓荒らし』が楊炎龍という男のかつての姿なのか。真実かはわからないが、噂のどれかとは一致している。

「そんな話をしていいの? 周知の事実に近いことだとはいえ、血筋に関する噂が確定するのは避けた方がよろしくてよ」

「もうここまで来たら誰も聞いとらんわ。ほら、質問のうちの一つには答えたで?」

「不十分だわ。もっと詳しく話すべきじゃない?」

「それを決めるのは朕や。ともかく、亡神の力にあやかってよろしゅうやっとる。ただ、龍人皇帝との約束を破ったらしまいや」

「約束?」

「わが竜玉公国を富ませ栄えさせ、恒常たる帝政を敷き、盤石なる武力を備え、他国にいずれの理由を以ても屈しない……そんなところやな」

「しまいって……厳しい条件ね。それを破ったらどうなるの?」

 炎龍は答えのかわりにただ笑い、話を挿げ替えた。

「今夜は雲が多い。尚更、このままお前を奪っていっても、誰にも気づかれへんやろな」

「何を言っているの? ふざけないでよ」

「まさか、冗談とでも? なぜお前を助けたか、何が欲しいか。これがその質問の答えや」

 そのとき、龍が空を翔ける速度が速まって揺れた。私は言い返す間を失って煙の龍の頭を掴もうと思ったが、それは指を簡単にすり抜けてしまった。

思わず、代わりに炎龍の服を思わず掴む。にやりと彼は笑った。

「そう……。魔導書ネクロノミコンと魔術の使い手を御所望なのね」

「は? なんでそうなる?」

「あなたが私を欲しがるとしたら、それ以外は思い付かない。魔術的素養がある者しか使いこなせない魔導書と私が共にあれば、戦力になる」

 なぜか炎龍は少し目を丸くし、落胆したような顔をした。眼鏡の奥の金の双眸がわずかに曇る。

「はぁ……失敗したな」

「え……?」

 だが彼は一瞬にして人を喰ったような態度に戻って言う。

「ま、オプションとしては悪ない。何かとウチは物騒や。龍神の『嘆きの残滓(ラメント)』を以てしても、肝を冷やすことが多々にある」

「オプション? それ以外に私を欲しがる理由なんてないでしょう」

「理由なんているか? なんでもかんでも理詰めで説明しとったら、人生つまらんで」

「まさか、美しさに惹かれたなんて言わないでしょう?」

「そうやとしたら、落胆するんか? 誰にも触れさせることなく、散々その美しさを利用してきたくせに?」

 ああ言えばこう言って煙に巻く。つくづく不愉快だ。

「落胆はしない。あなたに好かれたいとは思わないから。ただ、少し見損なうわね。大国を統べる皇帝が美しさ如きに惑って、かつて友情を結んだ英雄の妻を奪うなんて」

「アーサーがあの『風語り』を二の次にしてまで妻を娶るはずがない。何か、この婚姻に裏があるんやろ?」

 核心を突かれ、私は思わず息を呑んだ。炎龍は私の動揺をからかうように考察を続ける。

「さしずめ、亡神信仰の過激派どもが信じとる『再臨の御子』が関わっとるんやろうな。ヘレナ、お前はその生贄であり、聖母に祭り上げられるために輿入れさせられた。だが、お前はこの大陸随一の中立派であり、反戦思想の持主。……ま、その思想を隠そうと公の場では有耶無耶にしとったが、見とったら大体わかるわ。そうなると、この婚姻は形だけの――」

 全部、見抜かれている……恐怖すらも感じて思わず私は言葉を遮った。

「デタラメよ!」

 だが、反論をもろともせずに炎龍は勝ち誇ったように笑う。

「ほう? その態度、当たりか。適当にヤマ張ってんけどな」

 隠しても、無駄か。私は深くため息をつく。

「仮にそれが真実だったとして……あなたには関係ないでしょう」

「大ありやとも。竜玉公国内でも亡神信仰と魔脳信仰の争いが出てきとって、えらいキナ臭いんや。せやけど、お前を奪っていくことで万事が解決……とはならんが、『一石二鳥』なんや」

 一石二鳥?

 思わず考えた。炎龍が私をさらっていく理由。

 その後、ルルイエで何が起こるか……。

 ゆっくりとだが、あいまいだったパズルのピースが頭の中ではまっていく。

「そう……やっとわかった。それがあなたの狙いなのね。妃を略奪されたルルイエが、竜玉公国に戦争を仕掛けるようにわざと仕向ける……。アーサーがどうであれ、現状の議会にて、大いなる決定権を持つ純血教団は『再臨の御子』の母体となる私を取り戻そうとするに決まっているから。そしてあなたは終戦後もなお、魔香の利益によって育てあげた軍事力で対抗し、ルルイエの領土を獲得するつもりでいる。そうでしょう?」

 炎龍は悪魔のように、にやりと金の眼を光らせて笑う。

「純血教団のクソジジイどもは、東方民族を馬鹿にしながらもウチの広大な領地には大層興味がおありのようでなぁ? 攻め込みたぁてウズウズしとる。わざわざこっちから仕掛けて賊軍となるつもりはない。『大義』のもと、アーサーを無理やり担ぎ上げて攻めて来た奴らをおびきよせて、迎え撃てばええ。わが国力は盤石。たとえ英雄が相手でも敗北することはない」

「戦争はまっぴらごめんよ! あなた、友情を結んだアーサーに悪いと思わないの!?」

「一国の長が、友情ごときに左右されるようでは話にならん。アーサーとはとっくの昔に話がついとるで? 『もしお互いが敵に回ることがあれば、手加減なしに全力で戦おう。たとえ殺し合うことになったとしても』……と、あいつからなぁ?」

 私を欲しがったのは、そういうわけか。つくづく、食えない男だ。さらに炎龍は煙の龍の上で言葉を続ける。

「朕は欲の深さでは折り紙付きでなぁ? どうせなら、あまねく全てを手に入れたい。世にも美しく、聡明な后。そして戦後被害の少ないルルイエの領地。クソジジイどもが牛耳る純血教団もついでにぶっ潰す。これで万事が解決するやろ。……そうや、あとでこう言えば、もっと辻褄が合うな」

 その時、強い風が吹く。煙の龍から落ちてしまう……!

「あっ……!」

 思わず体のバランスを崩しそうになった私は、軽い悲鳴を上げる。

 その瞬間、彼が私を抱き寄せた。そのまま、私の耳元で、どこか芝居がかった口調で歌うように囁いた。

「『形だけの婚姻の犠牲になった哀れな美姫に強く惹かれ、さらわずにはいられなかった。我が愛のため、かつての友と袂を分かつことになったが、仕方がない』……とでもな。悪ない筋書きやと思わへんか?」

 そう言い終わると、彼はそっと私から身を離す。私は少し荒れた息を落ちつけて反論する。

「どこが? 笑えるほどに安っぽい物語ね。私は哀れな美姫でもなんでもない。あなたの思い通りにはさせないわ。それで何人の民が犠牲になるとお思い? 私は私のやり方で、誰の血も流させずに純血教団と脳光福音団との争いを収めてみせるわ」

「多少の犠牲は払って根を絶たな、意味ないやろ。大方、ルルイエに宗教の介在しない議会を作りたいんやろうが、そううまくいくか? ほっといても戦争は起こるし、誰かの血は流れる。最小限の犠牲だけで済む最適の策を提案したんやけどなぁ」

「やってみないとわからないでしょう。私を見くびらないで」

「そのうちに、何かの『間違い』で再臨の御子を身ごもるかもしれへんで? もしかしたら、お前も表向きでは平和やなんや言いながら、それを期待しとるんちゃうか?」

 再臨の御子を身ごもる。つまり、アーサーと結ばれるということ?

 ありえない……そんなことは、あってはいけない。

「まさか。馬鹿にしないで! 私が望むのは独自議会の設立であり、究極なる中立の下、誰もが争わない世界! 彼、アーサーとはその思想でのみ、結びついているのよ」

「人の気持ちは変わるもんやで? アーサーは少なくとも、お前を嫌ってない。ほんの少し誘惑すれば、お前のものになるかもしれへんで?」

「彼はそんな卑しいことをする人じゃない! あなたみたいに狡猾な手を使ったりしないし、誰のことも嫌ったりしない、心が綺麗な人なの。形だけの妻の私にも、優しくしてくれるもの……」

 そう……だって、彼は英雄だから。

 私を愛していないだけ。ルルドに誠実だから。私が入り込む隙などないだけ。

「優しく? 舞踏会で独りぼっちのお前を無視したのに?」

「しきたりだから仕方なかったの」

「そう思いたいだけやろ。頭がいいくせに、英雄のことになると一気に冷静さを欠くんやな」

「さっきから何なの? あなたと話していたら本当にイライラする!」

「朕と共に来たら、一人にならんで済むで? そうやっていつでも怒ったらええし、泣きたいときは泣いたらええ。欲しいもんはなんでも与えたるし、お前がいなくなる以外のことやったら、なんでもしてええで?」

 直感した通りだ。この男は危険――。

 ニヒルな笑みの底に、甘い毒を隠して、人を誘惑する悪魔。

 そして人が心の奥に押し殺した欲望を見抜き、利用しようと弄ぶ。

 決して、近づいてはならない。たとえ、どんなに孤独が……永遠に感情を偽る人生が、恐ろしくても。

 私はあえて、にっこりとしたあとに告げた。

「謹んでお断りいたしますわ。私は英雄に心を捧げた身。このルルイエの地を蹂躙する者と手を取るなど言語道断」

「英雄、ねえ? あの誇張された英雄譚を信じとるんか? あいつはただの剣バカや。育ちが良くてお人好しの上に単純。何度足を引っ張られたか」

「信じているわ! アーサーは救ってくれたもの……ただひとり、闇の中にいた私を」

 炎龍は煙管をくわえて再び煙をくゆらし、耳にやけに残る低い声で淡々と言う。

「『一か月前に会って衝撃的な恋に落ちた』。……たかだかそれだけで?」

私が幼い日に見た夢は、私しか知らない。この想いは、アーサーとも、誰とも共有することなどできはしない。私はこれから先も、ただ一人きりで夢に縋りつくのか――。

 そう実感すると、計り知れないほどの寂しさが襲い、心もとなさから煙の龍の鱗を掴む。あまりに煙はあっけなく、私の指の間をすり抜けていく。

「あなたには、決してわからない。夢の中で、あの人が何を言ったか。私に何をしてくれたか。誰に何を言われようとも、私にとっては真実よ……だって、私が信じているから!」

 毒に侵され、死を待つ朦朧とした意識の中、現れた救い手。

 あのときだけは確実に、アーサーは私の英雄だった。

 ただの夢幻だとしても、この手につかめなくても、心の中に深く沈み込む私だけの『真実』が崩れ去ったとき、果たして、生き続けることができるだろうか?

 それほどに唯一の救い手であるアーサーの思い出は、あまりに不安定で寂しい私の根底を支えていた。

 炎龍がぽつりと言葉を零す。

「それが……お前にとっての救いなんか?」

「ええ。その思い出があるから、どんなに辛いことがあっても乗り越えられて生きていられた。これからも同じよ」

 炎龍は少しだけ戸惑ったように言う。

「『これから』も、か……。わかったわ」

 でも……心のどこかではわかっている。

 夢は、現実になんてならない。自分を救うための甘いまやかしでしかないと……。

 下を向けば夜空の中、ただただ遠くなっていく地上が見える。炎龍が軽く警告した。

「おっと……飛び降りようもんなら、どこまでも追いかけて拾いに行くで?」

 現実に引き戻された私は憎まれ口を返す。

「あらそう。結構なことね。あなたになんて助けられても嬉しくないけど」

 彼は私を蠱惑的な金眼で静かに見つめ、深いため息をつく。

 一瞬、その瞳はどこか寂しげに見えた。

「何よ?」

「いや。人が見たら笑うやろな。冷酷で何十人もの求婚者を振り回し、血まみれになりながら戦う魔女がこないに夢見がちな少女やなんて」

「私に失望した? 別に構わないわ。あなたにどう思われようがどうでもいいもの」

「いや、尚更欲しくなった。さて……あと数十分もすれば、わが国に着くで」

 再び地上を見下ろすと、色とりどりのネオンの光り輝く都市の姿が見えた。

 魔香産業で儲けた結果、竜玉公国は栄えて眠ることのない発展都市となったと聞いていたが、本当だったようだ。

 かつては多くのスラムがひしめいていた街は国民の半数以上を占めていた違法移民たちに市民権と荒れた土地を整備させる仕事を与えた。

 そして元々マフィアが牛耳っていたカジノや娼館といった裏稼業を国家公認事業として隆興させ、他国からの観光客相手に毎夜莫大な利益を生み出していると言う。

 何より一大産業となっている現地の魔香は密輸されるものよりも濃度が濃く、より見られる幻想のリアリティが高いという理由で訪れる観光客が後を絶たないと言う。

 だが、彼らは魔香窟に訪れたが最後、過剰摂取で自分のことさえ忘れて財も何もかもを手放してしまい、祖国に帰ることがない。

 人の欲望を無限に飲み込み、絞りつくして光り美しく猥雑な街――。

「……よく似てる」

「ん?」

「まるであなたみたいだわ。あの街」

 表向きは美しく魅力的だが、その裏にはどろりとした底知れない恐ろしさと闇がある。無数の屍、誰かの嘆きや痛み、恨みが狂気のように幾重にも積み重なっているのだろう。

「おほめにあずかり光栄や。一応、発展させるのに五年もかかったからな」

「ほめてない。このまま無理に連れて行こうものなら、こちらも考えがあるわ」

「魔術で攻撃するか? どうぞご自由に。せやけど、煙の龍は朕しか操れん。お前、空飛べるんやったっけ?」

「……!」

 あらゆる魔術を習得する努力は行った。

 だが、飛行魔術だけは解読が難しく、できたためしが一度もない。だから甘んじてこの龍に乗っているのだ。炎龍を攻撃して、この龍がどうにかなってしまったら、容赦なく真っ逆さまだろう。

 そこまで見抜かれているとは……すごぶる居心地が悪い気分になった私は、ぶすっとしながらそっぽを向いた。

「すまんすまん、つい意地悪してしもた。まあ、無理強いはせえへんわ。今日のところは諦めてもええ」

 意外な答えだった。一瞬、あの光り輝く危険極まりない都市に降り立つことを想像した私はほっとした。

「じゃあなぜ、龍に乗せてここまで私を連れてきたの?」

「最初に言うたやろ。話がしたかった。それだけや」

「私はルルイエの正妃なのよ。ルルイエ純血教団に告げ口したら、どうなるとお思い?」

「へえ? 話したいんか?」

 私は思わず、押し黙る。

「じゃあ、今日の事は二人だけの秘密や」

 煙の龍の進むスピードがわずかに、緩やかになった気がする。

「……驚いた。意外と諦めがいいのね」

「諦めてへんで? また、必ずお前をさらいに来る。返事が変わるときまでな」

「私が嫌だと言ったら?」

「また馳せ参じるのみや」

「どうしてそこまでするの? 私の同意なんて、ルルイエの領土を手に入れるためなら関係ないでしょう」

 炎龍は答えずに、再び煙管を吹かした。彼が吐きだした煙は少し、青みがかったもので、さっきと色が違う。

 芳しい煙と花の匂いが強く香って、頭の芯をしびれさせる。

「ほな、再見サイチェン。また何かあったらいつでも助けたる。――いつか、お前の方からうなずきたくなるように」

 激しい眠気が襲ってくる。私は瞼の重みに抵抗できず、目を閉じそうになる。

 魔香の効果か……?

「わたしは……いやよ……形だけでも……英雄の、アーサーのそばに……ずっと……」

 意識が遠のいていく。炎龍が不安定になっていく私の体をそっと支えた。

 そして離れていく意識の中、彼の声だけがぽつりと一言、闇の中に落ちて言った。

「わかっとったけど……辛いもんやなぁ」

 …………。

 …………。

「ヘレナ、ここにいたのか。探したよ」

 はっとした。目の前にあるのはバルコニーの手すり。その傍に私は立っていた。人工芝の植えられた庭が目下には広がっている。

 声に遅れて反応しながら振り返ると、やや心配げな顔をしたアーサーがいた。

 私は、一体……? さっきまで、煙の龍に乗っていたはず。

 あの魔香を嗅いで眠ってしまったのか。もしかして、私は疲れて夢を見ていたの?

 そのとき、軽く吹いてきた風が私の髪をなびかせた。すると、あの金の瞳の皇帝の纏っていた香りが強く漂った。

 いや……あれは現実だ。炎龍は本当に約束を守り、私をここに返したのだ。

「ヘレナ?」

「少し、疲れましたの。気分が悪くて……でも、もう収まりました」

「そうか。今日はゆっくり休んでくれ」

 アーサーはそう言って優しく微笑みかける。

 見れば見るほど、いつしか夢の中で見たアーサーとは表情が違う気がする。

 精悍で爽やかで、絵に描いたような英雄像。若きプリンス。

 いつか……夢に現れ、私を毒から救ってくれた英雄は、こんな優しい顔をしていただろうか。その優しい顔が少しだけ心配そうに眉根を寄せる。

 ……答えを返していなかった。そう気づき、頭を軽く下げながら告げる。

「お心遣いどうもありがとうございます。それでは、広間に戻りますので」

 ふと、アーサーが私の目をまっすぐ見つめながら言う。

「君の紫の瞳、見れば見るほど不思議だ。思わず引き込まれてしまう……。昔、南方で聞いた精霊の伝承を思い出すよ」

「あら。どんな精霊かしら。人を喰い殺す化け物とか?」

「そうじゃないけど、近いところもあるかな」

 私はフンと鼻で笑い、軽口を返す。

「形だけとはいえ、婚姻を交わした日にひどいことを。これから先が思いやられますわね」

「悪い意味じゃない。とても美しい女性の姿をした、紫の瞳の精霊だ。彼らは自身の伴侶となった人間の男の運命をまるごと変えてしまうと言われている」

「良くも悪くも……ということでしょう? こういった逸話は人間の男が美しい女によって『悪い方』に転がされるのがお決まり。『狂わせたのは女の色香のせい』……男にとっては都合がいいようにね? 魔女の私にはぴったりのたとえ話で光栄ですわ」

 アーサーはそのとき、私を抱きしめた。

「……! 陛下?」

「強がらせてしまってごめん。今度は必ず、君を守る。俺は過ちを犯してしまったよ。あのとき無視するべきではなかった」

「結構です。私は魔術も使えますし、自分の身なら自分で守れますから」

 アーサーの腕が少しだけ強く、私の背に食い込む。

「こんなにも、細くて華奢なのに? 君は、本当に……あの精霊のようだ」

「……っ!」

 その強さに、私はわずかに身をこわばらせた。

 アーサーは深いため息をつき、腕の力を緩めながらつぶやく。

「ああ……いや……すまない……」

 なぜ、こんなことをするのだろう。この人は私を愛していないのに。

 アーサーと触れ合うことなど、もうあのダンス以来ないと思っていた。

 また冷たい風が吹いてきて、煙と花の香りが漂う。

 そのとき、ぽつりとかたくるしさのにじんだアーサーの声が落ちてきた。

ロン……いや、炎龍のことをどう思った?」

 この香りで思い出したのだろう。

 質問の意図は理解しかねるが、竜玉公国に関心を抱いたとでも思われたら面倒だ。

 私は煙に巻きながら適当に答える。

「なんというか……変わった方ですわね。まるでこの世界全ての毒を呑みこみ、あえて遊んでおられるよう。それと、女の扱いに慣れています。誠実なあなたとは正反対」

 アーサーはどきりとしたように、私から身を離す。

「ご安心ください。私は使命を果たすのみ。最初に申し上げた通り、それ以上は何も望みませんわ」

 そう告げながら、私は彼の隣を通り過ぎ、広間に戻るべく、歩き出した。


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