3章4話 ヘレナ・エラルヴィン・ルルイエの手記4
「今宵どうか、朕と一曲踊って頂けませんか? 我が薔薇……誰よりも美しく咲き誇る妃殿下よ」
楊炎龍。私は階段を下り切った後、あらためて彼が差し出した手を見つめる。
広間は静まり返って、踊っていた客人たちは私がどうするかを見守っていた。
その沈黙を破ったのは、さっき私と婚姻を結んだばかりのアーサーだった。
やや怯えた様子のルルドの肩を抱きながら、彼は少し怪訝そうに招かれざる皇帝に問いかける。
「龍。来るなら来ると言ってくれればよかったのに。同盟を断られて以来で驚いたよ」
だが、彼が『龍』という愛称で呼びかけた響きには果てしない懐かしさや、両者に流れる歳月の途切れを一切感じさせない親しみがあった。
楊炎龍もそれを感じたのか、懐かしそうに少しだけ目を細めて言う。
「我が竜玉公国は恒久たる中立国。金儲け以外では誰とも手を組まん。まぁ野暮な話は後でたっぷりと……英雄殿。こちとら妃殿下の返事待ちなんや」
楊炎龍とアーサーはかつて大戦の平定をかけて戦友として戦った仲。だが、魔脳データベースや書籍にもその顔は掲載されていなかった。
彼の謎めいた出自については多くの噂が囁かれている。
無政府国家だった竜玉公国にある日突然現れた、龍神皇帝の末裔。しかし、死した地上の神々の一柱であったという龍神皇帝に人間の子孫などあるはずがない。
また、かつて竜玉公国によって滅ぼされ、吸収合併された小国ジャーテル特有の東方訛りを持つ彼は確実に移民。龍神皇帝の統治前に存在したどの皇帝家の末裔でもないことが明らかだった。
しかし楊炎龍は無政府状態でマフィアたちが牛耳っていた竜玉公国を統一し、人々が長らく苦しんだ七国大戦をアーサーと手を組んで平定した。
大戦終了後は、魔香と呼ばれる合法煙草を開発し、その輸出入によって蛮族ぞろいの貧国と言われていた竜玉公国を富ませた。魔香は人に幻惑を見せる煙草。
一方で魔香は快楽目的だけでなく、有神時代に存在したとされる医療麻酔の代用品、または魔脳による先端医療が普及していない国では痛みを忘れさせる緩和治療にも使用され、一気に七国中を駆け巡る幻惑の救済物資となった。
魔香の輸出入によって莫大な利益を得た竜玉公国は、まるで龍神皇帝が支配していた遠い過去のように、あふれんばかりの栄華を取り戻したのだった。
しかし、合法とはいえ人の意識を幻惑し、死に至ることもある中毒症状を巻き起こす魔香をもたらして国を富ませた皇帝、楊炎龍自身については金のためには手段を選ばない、悪魔のような男だと囁かれた。
「墓荒らしの皇帝」「東方の詐欺師」「死の香りを纏う男」――。
『墓荒らし』と呼ばれる所以は、楊炎龍の出現前に龍神皇帝を祀る霊廟が暴かれたこと、そして彼が龍神皇帝の末裔という威を借りて地位を得たことによる。
不穏な二つ名をいくつも持つこの男はそのどれにもふさわしい、美しく危険な姿と、幻惑的な香りを漂わせていた。
「野蛮な東方民族に舞踏のたしなみがあろうはずもない!」
「そうだ、墓荒らしから這い上がったドブネズミにまともな教養があるはずがないからな!」
どこからか、罵倒の声がまた響く。
東方民族が多くを占める竜玉公国は富を得ながらもエーデルヒ以上に粗野な後進国と見なされている。
魔脳データベースに記された有神時代の権力者たちの野蛮で残酷な逸話が誇張されて伝わっているためだ。
それでも彼は周りの声に一切の動じることなく、私に手を差し出したままだった。
筋張って、太くごつごつとした指が目につく。
その美しい顔やすらりとした長身に対してあまりにも違和感がある手だった。
だがこの手が、偽りだらけの男のわずかな本質を映し出しているような気がした。
七国戦争を戦い抜いた猛者。出自も何もかも不詳ながら、無政府国家のならず者たちを屈服させて大国の帝位を得た、一人の若き男の――。
「妃殿下。いかがです?」
低くなめらかな声が響く。
決して、信頼はできない相手だ。
その声、謎めいた出自、美しい容貌とアンバランスで粗野な指先……どれをとってもただの男ではない。一筋縄ではいかないだろう。
だがこの場限りはこの無粋な手に預けるしかない。
私は、ついに彼の手を取った。
「皇帝陛下からのお申し出とは光栄の極み。喜んでお受けいたしますわ」
そのとき彼が見せた表情は少し意外だった。ほんの一瞬だが目が泳ぎ、年齢にふさわしい戸惑いのようなものが浮かんだ。そして彼は小さな声でつぶやく。
「ああ、やっと……」
だが、彼はその言葉の続きを言うことはなかった。
すぐにニヒルな笑みで全てを覆い隠す。
そして彼は私を抱き寄せ、ゆっくりとステップを踏み出す。どうすればいいかわからない私の耳元で彼はささやいた。
「適当に合わせればええ。あっという間に終わる」
体が近づいたことによって芳しい煙と花の毒々しい香りが私を包み込み、くらりとする。
男は身勝手で、いつでも女を利用し傷つけ、骨身まで貪りつくす。
私の母は、男に搾取された挙句に死んだ。
だから、嫌いだ……。誰にも触れたくない。触れられたくない。私の英雄以外の、誰にも。
それなのに、この毒々しく美しい香りはなぜか懐かしくて、嫌いではなかった。
油断すると、このなかでいつまでも酔っていたくなってしまうだろう。
周囲はざわつきながらも、私たちを注視する。
馬鹿にしていた東方民族の男が完璧なステップを踏み、無理なく私をリードしているからだ。
しかも彼の動きはあまりになめらかであり、足さばきや私を導く手にも熟練した余裕、そしてゆるぎない情熱があった。
「『どこで身に着けた』……? そう言いたげやな。有神時代に滅んだある王朝の宮殿で嫌と言うほど見て、『拝借した』だけや。だから奴らの真似事よりもマシに見えるんちゃうか?」
楊炎龍の言葉の全てを理解するのは難しく、混乱する。
彼に導かれて踊りながら、私の目はアーサーを追っていく。目の前のルルドだけを見つめる彼の目に、私は映ることがない。
もし、私が彼女だったら……。もしくは私と踊っている男が、英雄アーサーだったら。
この底なしの寂しさは、満たされただろうか?
「朕では不満か? 妃殿下」
私の心を読んだように、異国の香りを漂わせる男は私を導きながら囁く。
「いいえ、そんなことはありませんわ。ご厚意ありがたく思います。何が狙いかはわかりかねますが」
「狙い?」
「私に貸しを作って、どうなさるおつもり?」
楊炎龍の金の眼が光り輝き、からかうように言う。
「美しい女を踊りに誘う。それに理由が何か必要か?」
「私以外にも、美しい女ならば大勢いるでしょう。借りはなるべく早く返しますわ」
「へえ? ほな、何してもらうか考えとくわ」
この皇帝は何を要求してくるのだろう。
無茶を言われたとしても、求婚者たちのようにあしらうしかない。
いや……そう簡単にごまかされる相手ではないことが明確だ。
わずかに私は焦りを感じた。思わず、言い訳がましい言葉が口をついて出てくる。
「そうですわね。あくまでも常識の範囲でかつ、御恩に見合ったもので……」
そのとき一瞬体が突き放され、後ろに反った。
突然の浮遊感に戸惑い、激しく心臓が高鳴ったが、彼の逞しく骨ばった手は私の背をしっかりと支えたままだった。
私は息を呑み、正面から見つめてくる楊炎龍から目が反らせなくなる。
「まさか。離すわけないやろ」
いたずらっぽく、情熱を宿した低い声でそう呟きながら握られた片手にわずかな力が込められる。
同時に曲が終焉した。私達はそのまましばし静止していたが、楊炎龍は私の体をゆっくりと抱き起こす。
「せやけど、この宴の最後は王に譲ったるか」
そう言って私をアーサーとルルドの元へ導く。そして私の手を離した。
そして恭しく、頭を下げてどこかわざとらしい口調で告げた。
「喜ばしい儀へのお招き、真に感謝痛み入る。では、正妃様と永らく睦ましくあらんことを。我が密友殿」
その言葉を聞いて、アーサーはどこか気まずそうな顔をした。
大切なものを守り、世界の争いを避けるための形だけの婚姻とはいえ、寵姫ルルドがいる身でありながら正妃の私を娶った事実に変わりはない。
だが、ルルドは私に向かってドレスのスカートをつまみあげ、うやうやしい礼をして言った。
「王妃様。大変失礼を致しました」
どこかたどたどしい発音のまま、そう話した彼女の弱弱しさと可憐さに苛立ちを感じる。
私は余裕の態度を演じながら、皆に望まれそうな言葉を選んで言った。
「いいえ、しきたりですから。あなたもお役目を果たされてさぞかしお疲れでしょう。ゆっくり休まれたらいかが?」
気丈さと嫉妬をにじませて言うと、彼女は本当に悲しげに目を伏せた。だが、アーサーから離れていった彼女の信奉者が何人も、手を差し伸べた。
この場の被害者は、アーサーと正式な婚姻を結べなかった悲劇の少女ルルドだからだ。たとえ、いじめのような余興があったとしても、その事実に変わりはない。
私も弱さを見せれば、彼女のように誰からも愛されるのだろうか。
アーサーは明らかに気まずそうに私の手を取った。
憧れていた英雄に手を取られているのに、激しい寂しさに胸を貫かれていて、何も考えることができなかった。
心は上の空のまま、私はなぜか『アーサーに会いたい』と思った。
彼は目の前にいるはずなのに、私を闇から救い出した英雄と彼はあまりにも違う。
会いたい、会いたい――。
「君には、申し訳ないと思ってる」
「すべて承知の上ですわ。今更何を?」
「じゃあなぜ、そんなにも悲しそうなんだい?」
私はそんなにも自分の表情を隠しきれていないのか。心を隠そうとしても、何の熱も感じない彼との白々しいダンスにさらなる悲しさを感じる。
当然だ。私はルルドではないから。英雄も愛だけは偽れない。
それでも今目の前にいるアーサーは、私が会いたいアーサーではない。
別の誰かだと信じたくなった。
「気のせいですわ。それより、楊炎龍陛下と四年前に約束を交わしていたとは本当ですか?」
「ああ。戦地で苦境に立たされた時、もし生き残ったら結婚式に来てほしいって。あいつは食えない奴だけど、約束だけは絶対に守るんだ」
七国中を香りで幻惑した東方の詐欺師と呼ばれる男が、約束だけは守る。
その矛盾こそが、共に踊ったときに感じた情熱の理由だろうか。
「残念でしたわね。婚姻の相手が変わってしまって」
「……そんなことはない。これは宿命だ」
皮肉しか、口をついて出てこない。本当は、アーサーと共に踊れていることへの喜びや、親しい言葉を口にしたいのに、あまりに寂しさの方が大きすぎた。
そのとき――。
「お似合いだったわね。『墓荒らしの皇帝』と魔女。あの女、王にはあまりに不釣り合いだわ」
「恥ずかしいと思わないのかしら。野蛮な東方民族と踊っておいて」
『小声』とは言い難い音量で、周囲の批判の声が響く。
ふとアーサーが少し強めに私を抱き寄せた。
私への同情だろうか? ちくりと反発心がうずき、私はぼそりとつぶやく。
「そうですわね。私が皇帝陛下と昵懇だとでも誤解されると厄介です。ただでさえ魔女と呼ばれているのに」
「魔女なんかじゃない。君は美しく、誇り高い少女だ」
美しさも誇りも、役に立たないことがある。
皆に取り囲まれ、誰からも愛されるルルドの姿がそれを証明している。
いつの間にか、曲は終わっていた。私はアーサーから身を離す。
きっとこれが、私が英雄に触れた最後の瞬間になるだろう。それなのに、あまりにもあっけなかった。
私達は夫婦の顔をした永遠の他人。これから先、触れ合うことも、心を通わせることもない。
**********************
宴もたけなわになった頃、私は宮殿の広いバルコニーに出た。
思わず深呼吸をする。外の空気は幾分か澄んでいて、私をわずかに安心させる。
思った以上に、息苦しい場所にいたようだ。嘘のように呼吸がしやすい。
――それと同時に、あの香りが鼻腔をくすぐる。
やはり……バルコニーにいるようだ。
舞踏会の行われた城の上階にあるバルコニーからは地上の庭園がよく見える。
動物の形に刈りそろえられた園芸は有神時代の宮廷を模していると言われているが、芝生はもちろん人工。長い大戦によって荒れ果てた無神の時代の環境でおいそれと作れる代物ではない贅沢な美術品だ。
議会を設立で斬れば、倹約の一つとして人工芝の削減を進言しよう。そう思った。
満月の光が照らしだすなか、私はある香りを辿ってバルコニーを歩いていく。すると、煙の香りが強くなった。
バルコニーの豪奢な装飾が施された手すりに身を預け、煙管に灯した火をくゆらせながら、楊炎龍の後ろ姿があった。
彼は私に気づいたのか、咥えていた煙管を口から離しながら、こちらを振り向いた。
ゆらりと立ち上る煙と彼の金の眼が、月明かりに照らされる。
「かような喜ばしき夜に一人歩きとは。妃殿下、一体どういった風の吹き回しや?」
もったいぶった言い方がどこか気に障る。
「お礼を申し上げに参りましたの。そして先ほどの借りをお返しに」
「それはそれは殊勝なことで。さっき言うた通り、こちらとしてはそないなつもりはなかったんやけどなぁ?」
「『無償の善意』ほど恐ろしいものはありません。相手が竜玉公国の皇帝、楊炎龍陛下とあらば、尚更ですわ」
「炎龍で構わん。堅苦しい呼び名はどうにも好かんのや」
「そうはいきませんわ。大国の当主には敬意を払わなければ」
「ほな、参考までに聞いとこか。一体何をしてくれるんや?」
私は頭を巡らせて考えておいた案をいくつか提示することにした。
「魔導書ネクロノミコンの叡智の一部をお教えいたしましょう。魔術的素養がなくとも再現可能なものを2点ほどお伝えできますわ」
一見便利ではあるが、素養のない者が扱ったところで大した武器にはならないものを提案する。
魔術は『秘教エラルヴィンの祭祀』のみに伝承された力であり、喉から手が出るほどに必要とされる財産だ。
神々が死んだこの世界において、魔脳以外に存在するとされる異能や超常的な力は『再臨の御子』の誕生で蘇る地上の神々からしか得られないとされている。
魔導書はその中で唯一の例外。『ルルイエ純血教団』は地上の神々の復活を望みながらも、それまでのつなぎとして魔術の力に興味を持っている。
『再臨の御子』欲しさに今回の婚姻は仕組まれたが、『ルルイエ純血教団』は隙あらばいくらでも、魔導書ネクロノミコンと魔術を私から盗もうとするだろう。
明け渡す気は一切ないが。
ゆえにたとえ皇帝と言えども、超常の力には興味を示す可能性がある。ガラクタをつかまされたと後で知った場合は、適当に逃げればいい。
「いらん。所詮は持て余すのみやし、竜玉公国には間に合っとるんや」
そう簡単にはいかないか……。頭の中で舌打ちしながら、私は次善の策を提案する。
「ならば、我が祖国エーデルヒにて現在密輸されている魔香流通の一部を公認しましょう。医療の発展のためにより表立って行いたいところでしたが、わが国の古い考えから長らく公式化できなかったものですが、私が橋渡しを行いましょう」
楊炎龍はフン、と鼻を鳴らした。どこか冷酷な影が差す。
先ほどまでの緩やかな空気が緊張し、彼は一瞬にして大国を統べる皇帝の顔になった。
「妃殿下の祖国エーデルヒの方がメリットを被ることを一体なぜ? わざわざ我が国が『許される』必要があるのか疑問やなぁ? 今のままでも十分や」
「単純に言うとお金ですわ。密輸のさいにあなた方は直接国境を通らず、海路を使われている。海路を使った運搬は人も物もコストがかさむ。ですが公認すれば、国境を渡る際の関税は頂きません」
「もちろんわかっとる。だが、密輸やからこそ吹っ掛けられた大金をそれで回収できるとは疑問やな」
思わず、戸惑って口を噤んでしまう。
彼の方が一枚上手だ。
これはあくまでも、差し引きした利益をうやむやに隠した提案だった。
それをあっという間に見抜かれてしまった。
並みいる求婚者たちならば、すぐに騙されてくれただろうに。
他に想定していたカードを出そうとしたが、楊炎龍がもう一度口を開いた。
「一つ、覚えとくんやな。自分から支払いを申し出たら負けや。相手を牽制するためやろうが、あまりにリスクが高い」
「なぜ?」
「相手がもっと欲しくなる。先払いした以上のものをな」
たとえ何を差し出そうとしても、彼は自分の欲するもの以外は受け取らない――。
そう悟った私は自分の浅慮を後悔した。
大抵の人間、特に馬鹿な男たちはいくらでも言い負かせるのに。この男相手には通用しなかった。
だが、ここで引けば本当に負け。あえて気丈に振舞う。
「では何をお望みですの? ああ、私には後ろ盾があるとお忘れなく。なんでもお答えすることはできかねますわ」
「亡神を祀る『ルルイエ純血教団』どもか? 心配せんでも、金にも地位にも困っとらん。宗教にも興味はない」
「ならば、一体何を……」
そのとき、楊炎龍の煙管から立ちのぼる煙が龍のような形を取りながら肥大した。そしてその中に包まれた彼は一瞬にして姿を消す。
「なっ……」
思わず周囲を見渡す私のすぐそばに、その香りが近づいてくる。気づくと隣に彼が立っていた。
「今のは、どうやって?」
煙の龍を現してみせるなんて……これは異能?
まさか……魔術と魔脳以外には、そんなものは神々が死した世界に存在しないはずだ。
肉薄した楊炎龍は戸惑う私の顎を優しくつかんだ。
「ほな、頂こか。つかの間の手ほどきの報酬を」
そして……その形のいい唇を近づけた。整った顔立ち。こんなにも美しい男は終ぞ見たことがないと再び感じた。
幻惑的でかつ、どこか懐かしい香りに包まれて頭がしびれた。心臓が早鐘のように脈打つ。
『白い婚姻』とはいえ、自分が恋焦がれた英雄の隣に立つ権利を手に入れた。なのに……。
我に返った私は思わず、彼の頬を勢いよく張った。
「ぶ、無礼者!!」
だが彼は悪びれることもなく、張られた頬を気遣うこともなく、にやりと笑った。
「おっと、元気がよろしいようで。安心したわ」
「何が!?」
「僭越ながら、妃殿下の傷心をお慰めできればと思ったんやけどなぁ。英雄アーサーは異国の『風語り』に現を抜かして、美しい王妃に見向きもしない」
「思いあがるのもいい加減にして! あなた、自分の接吻にそんな価値があるとでも思っているの? 少し美しいからって、誰もが熱を上げると思ったら大間違いよ!」
彼の美しさは「少し」どころではないと頭の中ではわかっていたが、今は思い切り批判したくてたまらなかった。
そうでないと……赤く染まった頬が青白く戻らない気がした。
だが煙管をくるりと回しながら弄ぶ楊炎龍は余裕の態度のまま、豪快に笑う。
「期待通りの反応やな。妃殿下……いや、ヘレナ。お前はそうでないと」
期待通り? まるで私を知っていたかのような物言いだ。
今日初めて会ったはずなのに。『魔女』との噂からだろうか?
「陛下。名を呼び捨てするのは辞めていただけます? 私はこれでも一国の王妃です」
「『炎龍』で構わん言うたやろ。そっちがそう呼びさえすれば対等や」
対等。
その言葉が不思議と耳障りよく、だが少し切なく響く。
いくら努力しようとも、どんなに弁舌で打ち負かそうと、ほかの男達は決して私をそうとは見なさない。アーサーと私も、対等にはなれない。
それは……私がアーサーを愛していて、アーサーが私を愛していないからだ。
彼はどこか面白そうに私を眺める。苛立ちながらも私は尋ねた。
「炎龍。ならば聞くわ。あなたは何が欲しいの。どうして私を助けたの?」
「朕はこの世の全てを手に入れた。かの龍神皇帝の『嘆きの残滓』を預かってから、まあ多少苦労はしたが……今や竜玉公国の領地も金もすべてが思い通りや」
「『嘆きの残滓』? それがさっきの異能の正体なのね。煙の龍を操った……」
初めて聞く言葉だ。魔脳で学んだ各カテゴリーの項目にも、魔導書ネクロノミコンにも記載がない。いや、未解読部分に記されている可能性がある。
「まあな。簡単に言うと、『借りもの』や」
確信した。彼の異能は死した地上の神々である龍神皇帝より受け継いだもの。
召喚魔術の類に近いのかもしれない。何らかの方法で、絆を繋ぐそれは本来、人が行うべきでない禁術とされているはずだ。
行ったものは、永遠の原罪を背負うと言う――。
「一体どうやって手に入れたの? 噂通り、龍神皇帝の墓を暴いて?」
「えらい質問攻めにしてくるやん。朕に少しは興味を持ったか?」
どこか嬉しそうに炎龍は問う。
「ごまかさないで。質問に答えて下さる? 一つ一つで構わないわ」
彼は皮肉った口調で切り返す。
「構へんで、『常識の範囲』でな。でも、ここじゃ何や。場所変えるか」
「ならば、機密保護障壁を展開しますわ」
「必要ない。他に、誰にも声が届かん場所がある」
そう言って炎龍はまた煙管をくわえ、煙を長く吐き出す。
すると、たちまち煙は灰色の巨大な龍へと姿を変えていく。それはあまりにも長い体長を形作りながら、バルコニーの外側にその身を浮かべた。
「ほら、乗るで」
「乗る? 何に……」
思わずぽかんとした私の体を引き寄せたかと思うと、彼は私を連れてバルコニーの手すりから……飛んだ。
「ひっ! きゃーーーっ!!」
これまでの人生で一度も上げたことのないような悲鳴がのどの奥から出た。
ここは城の上階。落ちたら、確実に命がない。
だが、ふわりとした雲のような感覚を膝に感じる。
『座っている』……? 何かに。見下ろすと、雲のような灰色の鱗に覆われた幻獣……東方の龍の背があった。
「そんなん、『煙の龍に』決まっとるやろ?」
彼はあまりに軽くそう言って微笑んだ。




