3章3話 ヘレナ・エラルヴィン・ルルイエの手記3
過ぎ去りし某日。私は初めて、アーサー・ルルイエと謁見した。婚約を前にした極秘会談を設けたいと交渉した結果、アーサーは引き受けてくれた。
――おそらくは、『ルルイエ純血教団』の目論見によるこの婚姻への断りの返事をするためだろう。
会談は私の要望により、ルルイエとエーデルヒの国境近くの森に設営された天幕にて行われた。
「その……初めまして。俺はアーサー・ルルイエだ。」
「ヘレナ・エラルヴィンです。お会い出来て光栄ですわ」
栗色の髪に淡い緑の目をした彼はあまりにも地味で朴訥としていて、優しげに見えた。
どの回顧録でも英雄として剣を持った姿や凛々しい表情で描かれているからか、想像していた容貌とは、ややギャップがあった。
夢の中に出てきた表情も……ぼんやりとしか記憶にないが、違う気がする。特に……最後のあの笑顔とは。
だがそれでも、私の心はあふれんばかりの歓喜に震えていた。
ようやく、会えた……。唇がわずかに震えてしまい、扇で隠す。
一体何年待ちわびたことだろう。魔脳の中の情報でしか、触れることのできない、私の英雄に。今この瞬間に死ねるとしたら、本望と言っていいぐらいに。
しばし流れた沈黙に、彼は居心地の悪そうな顔をする。
予想通りだったことが一つある。
気品高い紫水晶のようだと評される私の瞳でいくら見つめたところで、この美しさが一切通用しないということだ。
他の男はみな、見惚れてうわごとのように褒めたたえるか、私を手に入れ、屈服させるための策を足りない頭で練るというのに。
それでいい。そうでなくては……。
彼だけは私にとって脅威と憎しみの対象でしかない、くだらない男たちとは完全に違う人間でなくてはいけないのだ。
……ああ、忘れてはいけない。
指輪型魔脳デバイスのスイッチを押して魔脳を起動し、語りかける。
「魔脳マグダラ。機密保護障壁を展開して。この会談の内容を誰にも聞かれぬように」
「承知致しました」
機械音声が鳴り響き、その瞬間に魔脳デバイスの水晶石と同じ、薄青い光が周囲に半透明の壁を作り出した。
「人払いはしましたが、誰が聞き耳を立てているかわからない。用心には用心を重ねておきましょう」
「魔脳でそんなことができるのかい? 知らなかったよ」
「まさか。隠匿魔術の術式を転用して魔脳の暗号機能を拡張したのみですわ。つまり魔導書の叡智を預かる私以外は使えない。人前では決して真似をなさらないことね、恥をかくだけよ……我が英雄」
アーサー・ルルイエは私の不遜な物言いに驚いたように目を見開く。そして軽く笑った。
「そうか……。教えてもらえてよかった。俺は神工知能のことはよくわからないんだ。便利だってわかるけど……物心ついた時から剣を持って戦場にばかりいたからね。他のことは、何も知らない。」
「存じております。あなたは幼き頃から絶えることなく世界に献身し、その体と心を限界まで削って人類に平和をもたらした。それが今の私たちの時代を創っているのです。灰色の軍機と鉄が支配していた旧時代に別れを告げし、青き空の世界を……」
アーサーは曖昧に微笑みながら言う。
「そんな……。俺は当然のことをしたまでだよ。すべての人命は守らなければならない。戦乱の世界が続いていいはずはないんだ」
「実行に移せる人はなかなかいませんわ。だからこそ、あなたは世界に愛されている」
彼はただ黙って、首を横に振った。
その謙虚さは資料で拾い集めた彼らしさの一片を示していた。勇猛果敢な一面はこの場では見えないが、私の思う彼の像と大きく乖離することはなかった。
でも、香りだけは違う……。彼からは何の匂いもしない。
夢の中で嗅いだ……そして今も時折私のそばを通り過ぎることのある、あの煙と芳しい花の入り混じったような香りは幻想だったのだろうか?
あの香りは目の前にいる、朴訥で優しげなアーサーの姿とあまりに符合しなさすぎる。
ふと、魔脳障壁の上部に表示された制限時間を見る。障壁の展開時間には限界がある。
だが……本題に入る前に『これ』だけは伝えたい。
「アーサー様。ある名も無き少女から伝言を預かっておりますの。聞いてくださる?」
「少女? もちろん、構わないよ」
「……『あのときはありがとう。私はあなたのおかげで息を吹き返し、今も生きています。この命が絶えるときまで、あなたを忘れることはない』」
あれはきっと、毒による熱に浮かされた私が見た夢であり幻。それでも、伝えたかった。
これからも私は、誰にも本心を告げることはないのだから。すべてをベールの中に覆い隠して。
「彼女はエーデルヒの子かい? 随分昔に反乱の鎮圧に向かったけれど、そのときの……?」
「まあ、そんなものですわ。どんな民の声でも拾い上げるのが王族の務めですから」
黒い扇を広げ、顔を隠すようにしながら扇ぐ。しかし送られてくるのは、生ぬるい風でしかなかった。
アーサーはしばらくためらったあと、申し訳なさそうに言葉を紡いでいく。
「その……婚姻の件だが……君には申し訳ないけれど、俺には心に決めた人がいる。だから……」
「私が何も知らずにここへ来たと? 見くびらないでくださる? 」
アーサーがはっとして、こちらの様子を伺うように私を見た。
「では本題に入るとしましょう。この婚姻は回避不可能。なぜなら『ルルイエ純血教団』が関わっているから。貴方と私が拒否したところで、彼らは別の手を打ってくるわ」
「それでも、俺は彼女を裏切りたくない……」
「わが国のクーデター事件を御存じ? あれは、彼らの目論見です。すべては私をルルイエの国母に祭りあげるために仕組まれたこと」
「……! な、なに……!」
アーサーは素晴らしい剣聖。だが政や陰謀には完全なる門外漢だと言われている。
それは当たっていたようだ。事がわからないわけではないが、幼いころから戦場に立ち続けたゆえか、帝王学とは無縁。平和を愛する良き王でありながら独特の鈍さがあり、その結果、ルルイエは現在純血教団によって牛耳られている。
対抗勢力の革命急進派との対立についても、甘受してしまっているがゆえに、ルルイエの政情はいいものとは言えない。
「彼らが欲しいのは、ルルイエ王家にいずれ現れるという伝説、『再臨の御子』の存在。私とあなたの間に嫡子が生まれれば、死した地上の神々を復活させることができ、魔脳信仰を否定できると思っている」
「大司教から常々語られているが、あんなものは、まやかしだ……。神が復活しなくとも、人々は自分の行い次第で自分を救うことができるはず。正しい行いをすれば、精霊の息吹が必ず味方をしてくれるんだ。ルルドも俺も、そう考えている」
異教徒のルルドによってアーサーの思想はかなり影響を受けていた。
『ルルイエ純血教団』が脅威に思うのも無理はない。彼の思想は亡神信仰でも魔脳信仰でもない。
地上の神々の復活、そして魔脳による救済、どちらの力も根底から信じずに現実のみと向き合うという独自の超現実主義だ。
「あら、ではなぜ否定してルルド様を娶ることができませんの? まやかしだと思うなら、そう宣言されればいい」
「……愛しているからだ。彼女に危害が及ぶことは避けたい」
胸に焼き付くような痛みが走る。アーサーの優しく、狂おしい瞳は、ここにはいない彼女に向けられている。
人に愛されたことがない私は、このまなざしを知らない。
ああ……感傷に浸っている暇などない。先に、進めなくては。
我に返った私は淡々と告げる。
「『ルルイエ純血教団』の脅威を理解しているようで何よりです。単刀直入に申し上げましょう。この婚姻を拒否すれば、確実にあなたのルルド様は狙われてしまいますわ。『伴侶』を娶るのに邪魔な存在ならばと消されるだけです」
「し、しかし……!!」
「そしてもし『ルルイエ純血教団』の目論見通りに私が『再臨の御子』を産めば、大いなる争いの火種となる。神々の復活については正直眉唾ものですが、かの子どもが誕生することで、亡神信仰と魔脳信仰の間の対立は確実に深まるでしょう。余波が他国にまで広まれば、世界は再び戦乱に巻き込まれるかもしれない。私はもう戦争はこりごり。災いの原因となる子どもを産んで、民を苦しめたくはありません。」
アーサーもその事態は手に取るようにわかるのだろう。苦々し気に下を向いた。
「ああ……尚更、君と婚姻するわけにはいかない。だが、そうするとルルドは……」
「そう悲観なさらないで。ただ一つ方法があります。ルルド様を裏切らずに守り、そして『ルルイエ純血教団』の動きを抑える術が」
苦悩に揺れ、うつむいていたアーサーは顔をわずかにあげる。
「『白い婚姻』です。私たちはあくまでも形だけの夫婦になればいい。心を通わせることも、触れ合うこともなく、ただ立場と名前だけを共有するだけの関係に」
あまりに淡々と言い放ったことに驚いたのか、アーサーは驚愕した様子でつぶやく。
「な、なるほど……だが、そんなことでごまかせるものか?」
「世継ぎはまだかと聞かれるでしょうが、のらりくらりと時間を稼いでその間に、『ルルイエ純血教団』の息がかかった王党純血派と『脳光福音団』が陰で操る革命急進派の対立を緩和する。具体的には、宗教と政治の癒着がない独自の議会を作りあげるのです」
「俺も議会設立なら何度も試みた。だが、成功した試しはないぞ。確実に教団の邪魔が入る」
私は思わず笑みを浮かべながら言う。
「宮廷の敵たちを一掃した私がいることをお忘れ? 『ルルイエ純血教団』の司祭たちを政治から追い出してしまえば、『再臨の御子』の誕生も無意味なものとなるでしょう。もしそれが成功すれば、私たちは晴れてお別れしましょう。魔脳マグダラは全ての真実を知るがゆえ、私の純潔を証明できる。真に『白い婚姻』であったとしらしめれば、お互いに婚姻歴さえ残りません」
「でも、君になんの得がある? 数年間もの間、議会設立に手を貸し、無駄な婚姻に身をささげるなんて」
彼にどんな言葉を返すか、少しだけ思案した。
本当は……私はかつて自分を夢の中で救ってくれた彼と共にありたいだけ。
ルルドを愛する彼から愛が得られないことはわかっている。そんなものは望まない……。
だから私は彼に、愛の代わりに永遠に英雄であり続けてくれることを望む。
そしてほんの束の間、私たちが共にあった記憶だけが彼の中に残ればいい。
でも、そんなことは言えやしない。私は用意していた『建前』をいくつか説明することにした。
「当然、何の代償もなく働く気はありません。私……ちょっと困っていることがありますのよ」
「困っていること……?」
私はわざとらしく憂鬱な表情を作って言う。
「実は今、五十人の求婚者に言い寄られていまして」
「は? ご、ごじゅう……?」
ぽかんとした顔でアーサーは問いかけた。彼の想定に全くない答えだったのだろう。
しかし、国内外でも噂になっているこの話を知らないとは。外国に興味がないことはおろか、婚約者の情報を一切調べないとは筋金入りだ。よほど、私に興味がないのだろう。
「みんな……とてもいい方で我が国をよくするための贈り物を自ら進んでしてくださるのよ。ですが、誰にするか決めかねていたら答えが出せずじまいで。もしこのまま、私が誰も選ばなくても、誰かを選んだとしても、全員に糾弾されてしまいますわ。ですが、相手が英雄アーサーであるならば、みんな諦めて黙るでしょう。勝ち目がありませんもの」
「そ、それでもさすがにまずいんじゃ……?」
「人が納得するのは真実ではなく、物語です。ヘレナ・エラルヴィンはアーサー・ルルイエと『運命の出会い』をした……とでも言えば、十分でしょう」
アーサーはぽかんとしたまま、私を見つめている。わずかにだが、先ほどまでの警戒に少しゆるみが出た気がする。
「大司教様は悔しがるでしょうね。『白い婚姻』ではいつまで経っても『再臨の御子』が生まれるはずなどない」
「確かに妙案だ。だが、君は求婚者たちを納得させるためだけにこんな芝居を打ってくれるつもりなのか?」
私はふっと、ニヒルな笑みを浮かべた。夢の中の彼が教えてくれた表情そのままに。
複雑な感情が渦巻こうと、私は一国の王女。他国の王に献身だけを捧げるつもりはなかった。
『建前』の中には、自分の道を作っていくための利益を用意している。思い出と共に、それぐらいはもらってもいいだろう。
「まさか。世界の平和と……これは将来のための『先払い』ですわ。あなたの協力が必要ですから」
「協力? 何が望みだ?」
「離縁のさい、エーデルヒ王国の独立を認め、私が女王として即位することをお認めください。ああ、支援状況は今のままでお願いします。何かと我が国はお金がなくて大変なので」
最後はからかうように言った。アーサーは納得しきれないのか、まだ眉根を寄せている。
「それが、この婚姻の条件……そういうことか」
「ええ、すべては我が祖国を独立国家として建て直すため。私がなりたいのは妃ではなく祖国の英雄です。誰かに所有される、ままならない人生などくだらない。何より、魔導書ネクロノミコンを受け継ぎし者として、私には使命があるのです……民を導き、国を守るという使命が!」
アーサーは不思議そうな顔で私を見つめる。ほんのわずかな興味が彼の瞳に灯った。純粋に、私と言う人間の真意をどこまでも測るように。
「属国の分際で、大口を叩くな……とお思いですか? そうですわね、ルルイエは領地を失うことになりますし、あまりにも条件がエーデルヒに有利すぎる。ですがあなたは、愛しい人を裏切らずに済み、その命を守れる。新たな議会設立のために私という協力者を得られる……さあ、どうします?」
アーサーはしばしの間沈黙していた。だが、こちらを見てはっきりと告げた。
「……わかった。君にも苦労をかけるだろうが、よろしく頼む。必ず、約束は守る」
「それでは、ここに誓いましょう――」
私は自分の首元に手のひらを置く。そのときどこからか、冷たい風が吹いた気がした。
それは命を刈り取る鎌のように私の首筋を撫でで行く。
本能的な恐怖から、びくりと背筋を震わせた。まるで、死の予感のように。
それでも私は、はっきりと……迷いもなく告げた。
「私は未来永劫、あなたの愛を決して求めません。この誓約を破ることはない」
アーサーは戸惑ったように私を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「君のような人に、俺は一度も出会ったことがないよ」
そのとき、機密保護障壁が制限時間を迎えて泡沫のように消滅した。
だから私は今もなお、あの時の彼の言葉に込められた真意を知らない。
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婚姻の儀を迎えたその日、化粧を施されて鏡の前に座った私は自分の感情のありかがわからなかった。
本来ならばあこがれ続けた、愛する人との人生最良の日だったのだろう。
――これが、偽りの婚姻でさえなければ。
でも仕方がない。すべては彼に、私の誇り高い英雄であり続けてもらうため――彼が大切なものを失わないためだ。
婚姻の儀の衣装として、白いドレスは選ばなかった。それは誰かに愛されている人間以外は着る資格などないと思ったからだ。
代わりに頭に飾った薔薇と同じ、血のような赤と、夜空のような黒が織り交ざったドレスを選んだ。
誰も不思議がらない。何せ私は五十人の求婚を蹴って、英雄との『運命の出会い』を選んだ計算高い悪女だ。
でも……なぜか婚姻の日が近づくたびに痩せていくせいか、何度もサイズを直してもらうことになった。ふと鏡で見た腕がぞっとするほど細い。顔がやつれていないことだけが救いだった。
自分に嘘をつくのは、案外簡単ではないのかもしれない。
だが、一度始めてしまったことは途中でやめることなどできはしない。
「ショーマストゴーオン……」
有神時代の誰かが残した言葉をつぶやく。
私はただ、世界の平和とアーサーのために為すべきことを成して、役目が終われば祖国の女王となる。
権力を得たいのは、安全な居場所のためだ。誰にも脅かされず、傷つけられないためには絶対的に地位を手に入れるしかない。
女王となれば、今度こそ敵はいなくなる? 私の居場所はできる?
……わからないが、愛を諦めるのだから、その可能性に賭けるしかない。
儀式が始まる前に、私は手慰みに持ち込んだチェス盤の駒を動かした。政治の勉強のために始めた趣味だが、対局の相手がいない。
黒のクイーンの駒を掴み、白亜のキングの首をこともなげに取る。
私はこれからもずっと、一人きりでこのゲームを続けるのだろう。
せめて、チェスの相手ぐらいはどこかにいてくれたらいいのに……。
ふとそう思ったとき、
「ヘレナ様。準備が整いました」
侍従の声が部屋の外から響き、私はそっと、偽りの誓いへと踏み出した。
『ルルイエ純血教団』が取り仕切る婚姻の儀は、ルルイエのカセドラルで死した地上の神々に向かって祈りを捧げ、誓いを立てることとなる。
死した神々の彫像の数々や鮮やかな色彩のステンドグラスで飾られた荘厳なカセドラルは神話国家ならではのもので、何度見ても目を奪われる。
婚姻の儀式の打ち合わせでここに来た時、アーサーとは神話の話をした。
「俺も、好きなんだ。特にあの神話」
そう言ってアーサーはステンドグラスで表現された神話の一幕、虹色の触手の塊と共に描かれた桃色の髪の少女を指さした。
「巫女メルジューヌ。『エラルヴィンの祭祀』の先祖だと呼ばれている女性ですわね。なんでも、神と心を通わせることが出来たとか」
「結末は悲しい物語だけどね。小さい頃はずっと、なぜ彼女は大切な友人となったヨグ・ソトースを拒んでしまったんだろうと考えていたよ」
「ならば、あなたは受け入れられるの……? 異形の姿をした恐ろしい神すらも救いの手を伸ばせる?」
私は英雄を試すつもりで尋ねた。彼なら、姿形になど関わらず全てを救うはずだ。
「人に危害を加えないなら、ね。もし誰かを傷つけるつもりなら、討伐せねばならない」
あまりに意外な答えだった。彼は英雄なのに神を見捨てるのか。
だがアーサーの表情は力強く、戦士の様相を帯びていた。その顔は間違いなく、英雄譚に載っていた画像の通りだった。
これもまた、本当の彼なのかもしれない。
少しだけがっかりした。理想と同じことなど何もない。私は、彼のことを何一つ知らない。これからも知ることはできないだろう。
なんとなく寂しい気持ちになった腹いせに、私は軽口を返した。
「あら、ならば気をつけなくてはなりませんわね」
「何がだい?」
「人に害をなす魔女となれば、私はあなたにいずれ討伐されてしまうということですから」
「そんなことはしない。話し合えばわかるさ」
その言葉の調子は軽かった。
さらに私は彼の真意を抉りたくなり、言葉を続ける。
「異形の神のことは、迷わず殺してしまうのに?」
「君は理想を共に追う同志だ。それに、異形の神とはあまりにも……」
彼の言葉がむなしく響いていく中、私はただ、ステンドグラスに描かれた虹色の触手の神を見つめて哀れんだ。決して叶わない、人への愛。どんなに手を伸ばしても拒まれる指先。
ふと、アーサーの言葉が途中で止まっていたと気づいて聞き返す。
「あまりにも?」
そう言いながらアーサーの方を向き直ると、まっすぐ目が合った。すると彼は何故かばつが悪そうに下を向いて咳払いをしながら言った。
「いや、何を言うか忘れてしまったよ。また思い出したら、その時に」
今日は準備の日と違って婚姻の儀の参列者でごった返している。
宗教家に政治家、貴族たちがひしめき合い、私を品定めするように眺めている。ドレスが白ではないことについて「派手好き」「いかにもな悪女」という声がいくつも聞こえてくる。
これから、ここが私の過ごす場所になるのか。きっと、故郷の宮廷以上の居心地の悪さだろう。
婚姻の儀を執り行う司祭が、私たちにもったいぶりながら尋ねる。
「死した神々の御前において、汝は誓うか? 伴侶への愛を」
地上の神々からの承認を得る時、アーサーはただ険しい顔をしていた。
彼の目線は宙をさまよい、誰かを探す。この婚姻の儀には寵姫ルルドも来ている。彼女は控えめな緑のドレスを身にまとっていた。飾らない美しさに、簡素なそれはよく似合っていた。その表情が遠くから見えたが、あろうことか彼女は恐ろしく穏やかな顔をしていた。嫉妬など、一切ない。
……当たり前か。
アーサーは政治的な目論見は語らず、彼女にだけは『白い婚姻』の件を説明したと聞いた。
誰を通じて聞かれるかもわからないのに軽率な事をしてくれたものだ。一体何のために機密保護障壁まで展開したと思っているのだろう。
だが、その愚かさは嫌いではない。彼は剣で戦って得る正しさ以外のものを何も知りはしないのだ。私はそっと、指輪のスイッチを入れ、小声でコマンドを唱えた。
『早く答えてくださいませんと。いつまで経ってもこの茶番が終わりませんわ』
アーサーは突然頭の中に響いてきた声に戸惑い、私を見つめた。魔術と組み合わせた魔脳の拡張機能を使い、思考を伝達したのだ。
ろくにこれまで顔を見てこなかった彼と目が合った。彼は驚きながらも少し長く、私を見つめた。
『嘘も方便。平和な未来のためにどうか努力してください』
わかったよ。そう、彼の唇がゆっくりと動く。そして優しく笑った。
なぜ? これから何年間も彼にとって不愉快な嘘を吐き続けるのに。
そして私たちは、互いの目的のために偽りの愛を誓った。
地上の神々は、決して私たちを罰しはしないだろう。これは愛する人を守り、争いの火種を防ぐための手段なのだから。
誓いの口づけはしなかった。『白い婚姻』なのだから、身体的な接触の全てを避けたいと、私が強く要望したからだ。アーサーは怪しまれると言ったが、私はひたすらに拒んだ。
形だけの婚姻なのだから、そんなものは不要だ。それに……もし彼に触れられたら、私はきっと、その記憶を忘れられなくなってしまうだろう。
王様、万歳!! と参列者たちの祝福が響くなか、私たちは腕を組んでカセドラルを出た。
城の大広間での祝宴が催されるので、化粧直しをした後、私は大広間の階段の踊り場に出た。階下に集う人々が一気に私を見上げる。その眼差しは完全に二つに分かれていた。
革命急進派および魔脳信仰者たちは属国の魔導書使いの王女――そして男をたぶらかす魔女とも噂される私を軽蔑する目で見つめる。
そして王党純血派およびルルイエ純血教団の者たちは、私を神から遺志を受けた魔導書使い、聖なる祭祀の娘……そしてやがては『再臨の御子』の母と奉りたいがために、恭しく頭を垂れる。
魔女、それとも聖女……。一体どちらが本当の自分なのかと困惑するような光景だった。
しかし、軽口は確実に届く。
「ルルド様を差し置いて、なんと図々しい女……!」
「あの美貌も魔術で手に入れたものじゃないの?」
何を言われようと、私は自分の道を突き進むしかない。
階段を一段ずつ降り、階下で一足先に貴族たちへの挨拶をしているアーサーの元へ向かう。
だがそのとき、どこからか音楽が響いた。楽隊などはいない。魔脳による有神時代のデータログ再生による音楽演奏だ。
「今日は映えある我がルルイエの王の婚姻の日! 皆で歌い踊り、祝いましょう!」
そう叫んだのは、革命急進派の貴族であり、近衛長を務める小太りの男、宰相ヴィードだった。
私は焦りを隠しきれずに、思わず段上で立ち止まった。
舞踏会があるなど、一切聞いていない。
アーサーはこれを知っていたのだろうか? 思わず疑念を込めて彼を見つめてしまう。
だが彼は平然とした顔をしている。
つまり……これはおそらく、「知らされる必要がそもそもない」しきたりなのだと理解した。
ルルイエは神話国家であり、貴族ならば皆が魔脳デバイスを所持しているほどの先進国。尊き身分の者は過去の遺産と呼ばれる芸術やダンスの教養もあって然り。むしろその豊かさが高貴さのしるしとされている。
この舞踏会もしきたりとして当然のものであったのだろう。
それが、意図的に私に知らされていなかっただけ。
エーデルヒはルルイエに比べて技術的後進国だ。私自身も、魔術や政治の勉強に明け暮れるばかりで、ダンスなど知りもしなかった。ルルイエの慣習について学びながらも、婚姻の儀に関しては、情報が少なく、その後の余興などについては調べようがなかった。
それでも自分の犯したミスに思わず拳を握り締める。
なぜ、予測できなかったのだろう?
宰相ヴィードはにやりとしながら階上の私に向かって声をかける。
「ヘレナ様。我が国のしきたりで婚姻の儀のあとは舞踏会を行うこととなっているのですよ。夫となられたアーサー王とは最後に踊って頂きます。それまではどなたかと共に踊ってください」
相手がいたらですが。まるでそうとでも言いたげだった。余所者の王妃である私には、不可能なことを――。
いや、故郷でも同じだ……私と踊ってくれる人なんて誰もいない。
現れるはずがない。
常に敵だらけの状況のなか、警戒を張り巡らせて生きてきた私に、誰かと手を取り合って踊るなど、できるはずがない。
思わずアーサーを見る。彼は私の焦りに気づいたのか、一瞬戸惑った顔をした。しかしすぐに目をそらし、緑のドレスを身につけたルルドの手を取って、彼女をリードして踊り始めた。
当然だ。ただの『同志』に頼れるはずもない。
――それにしても、こう来たか。思わずため息をつく。
わかりやすい嫌がらせだ。
革命急進派を構成する貴族たちの多くは七国戦争の際に活躍した元軍人たち。彼らは戦地で王を奮い立たせ、士気を保ち続けたルルドを聖母のように崇めている。
それは建前。異国人で政治に明るくないルルドを王の寵姫であり『真の王妃』に据えておけば、政治に口を出してくることもない。御しやすく都合がいいからだ。
そんな彼らにとって、私は邪魔者でしかない。しかもエーデルヒの復興に力を注ぎ、政治的な発言力を身に着けて言った私の行動から脅威を与える存在と見なして当然だ。
『ルルイエ純血教団』の者たちはこの事態に気づいているのだろうが、知らんふりをしている。
私は彼らにとって『再臨の御子』を産む為だけに用意された道具でしかない。子どもを産ませられれば、役割は終わり。それ以上に面倒を見てやるつもりなどないということだろう。
ここでもし、私が恥をかけば確実に笑い物になる。今後、王妃として政治的に威厳を持てるとは思えない。
だからこそ……決して戸惑いを見せるわけにはいかない。
しかし私は、いつもの嫣然とした笑みを浮かべることが出来なかった。
早く……早く……どうにかしないと。
魔脳に緊急アクセスして、ダンスの仕方を学ぶ? ダメだ! きっと間に合わない。
解決策を失ってしまい、頭が真っ白になる。この事態はあまりに想定外だった。
魔導書で父を追い払ってからはついぞ感じたことの無いような心もとなさと焦燥が襲う。
何より、ひとつの事実が私の心に深く……決して抜けない棘のように突き刺さる。
そう、わかっていたはずなのに……。
英雄であるはずのアーサーは、私のことを決して助けない。
彼に救いの手を差し伸べてもらえるのは、私ではない。
でも、心の中では私はある『不可能』を信じていた。自ら愛なき偽りの婚姻を結んだのに、愛を求めないと誓っても私は……彼の救いの手だけは欲しかったのだ。
この場から逃げ出したくなる。
もし、ここで全部投げ出してしまったらどうなるだろう? 世界の平和も、彼の栄誉を守ることも、祖国の女王になることも、何もかも……。
その時ふと、懐かしい香りがした。煙と香しい花の入り交じった複雑で……妖しく美しい香り。
気づけば、辺りは靄がかっていた。
どこからか、バリトンの低く、蠱惑的な声が響く。
『こんなクソどもに負けて逃げるんか? らしくもない』
でも……どうすればいいの?
私の味方はどこにもいない。最初からわかっていたのに……初めて一人でいることが怖くなった。
私は誰とも踊れない。ただの一曲も。これからもずっと。
『しゃあないお姫様やなあ、ほんまに……』
ふと、煙が晴れて視界が明るくなる。
すると、階段下に見知らぬ長身の青年が立っていた。年の頃はアーサーよりも下。おそらく十代……私と同じぐらいだろうか。
背まで伸ばした艶やかな黒髪、その中には紅混じりの編み込みが数本混じっている。
切れ長の金の瞳にかけられた丸眼鏡、異国風の装束。
大広間で上品に舞っている他の誰にも似ていない。……それでいて、とても美しい外見の男だった。
周囲がいつの間にか現れたらしい彼に驚愕し、ざわめいた。
そうだ、カセドラルにはこんな男の姿はなかった。
「あれは……竜玉公国の皇帝、楊炎龍? い、いつの間に……!」
「なぜ来たのだ? 王の戦友とはいえ、今宵の婚姻の儀には来ないと聞いていたのに」
「当たり前だ! 我ら王党純血派が華々しき婚姻の儀において、卑しい東方民族……『墓荒しの皇帝』など招くはずもないだろう。たとえ皇帝であれどもな!」
無礼な言葉がいくつも飛び交う。
周囲の反応から見るに、彼はどう見ても『招かれざる客』だった。
だが、楊炎龍……英雄アーサーとかつて共闘した若き皇帝は事もなげに言い捨てた。
「これはこれは……ずいぶんと『気の利いた』お出迎えやなぁ。ま、そう警戒せんでもええやろ。朕は旧友アーサーのお招きに預かって馳せ参じたまでや。なんせ四年も前の口約束の上、婚姻の相手まで変わったみたいやけど、約束は約束。しっかりと果たさせてもらうで」
東方訛りの目立つ言葉――なめらかなその声には果てしない皮肉と威圧感があり、聞いている者の注意を否応なく惹き付ける。
彼の口元にはどこか妖しげな笑みが浮かべられていた。
自信に満ちているような、何かを闇に覆い隠しているような笑顔。
――この男は危険……信用ならない存在だ。
なぜなら、彼もきっと私と同じように何かを偽って生きている者だから。
これは、秘密を持つ者しか作る事の出来ない笑顔だ。
「さて……まずは……」
男はそう言って私を見つめた。
そしてうやうやしく胸に手を置き、礼をする。
「今宵どうか、朕と一曲踊って頂けませんか? 我が薔薇……誰よりも美しく咲き誇る妃殿下よ」
そう言って彼は、私に向かって手を伸ばした。
まるで悪魔のように蠱惑的な金の瞳が、広間の明かりに照らされて光り輝く。
私は導かれるように階段を下りていきながら、確信した。
今の私が取れる手は、彼のもの以外にないのだと――。