3章2話 ヘレナ・エラルヴィン・ルルイエの手記2
宮廷の中にある、暗い物置。
かびくさいリネンの匂いがただようなか、私は靴音を立てながら奥へと進んで行った。
「あの……こんなところに呼び出すとは……何の用です? 手紙も差出人不明で困りましたわ」
あえて不安げでどこかとぼげた声を出す。ここに誘い出してきた『相手』の油断を誘うために。
誰がこんな馬鹿げた罠で騙されて、ノコノコ現れると思うのか。
しかし、これはあまりに好都合だ。敵からわざわざしっぽを出して誘ってくれるなんて。
そのとき、背後から急に誰かに押さえつけられ、首を絞められた。
「うぐっ……!」
私の首にかけられたその細い指の主は、おそらく宮廷の寵姫の一人だ。
「なぜ……! お前はあの毒で死なないの! 王の心を奪ったあの女は殺せたのに!」
ぎりり、とさらに力が込められ、私の脳内は一瞬白明しそうになる。しかし、強く明らかな意思がそれを拒む。
――こんなところで私は負けない、決して!!!
瞬時に私は古代ルルイエ語の詠唱を唱えた。
その途端、寵姫は風圧で後ろに吹っ飛んだ。もう慣れたもので極短縮した詠唱でも魔術を使えるようになった。
「なっ……体が勝手に! こ、これは魔術!?」
「少し、強すぎたかしら。風の魔術は加減が難しいようですわ」
私は首の当たりに付着した相手の汗を拭いながら、吹き飛ばした相手の下へと向かっていく。
彼女の汗の匂いが漂う。ああ、なぜ人は生きているだけで不快な匂いを発するのだろう?
寵姫はがたがたと恐怖で震えながら言う。
「ま、魔導書ネクロノミコンによる、禁じられた魔術は神々の残した魔脳マグダラによって禁じられている! そ、その禁を破ったお前は神々の反逆者として魂を永遠に呪われる……! 勝ち誇っていられるのも今のうちよ!!」
「それは魔脳信仰の総本山、『脳光福音団』が一方的な魔脳との対話から導き出した解釈であり、死後の話でしょう? 仮にそれが真実だったとしても、生きている今には関係ありませんし、何よりも私の信ずるところではない」
そう言いながら、私は彼女にゆっくりとにじり寄っていく。
「ひっ……!」
軽く指輪型の魔脳デバイスを立ち上げた。『記録完了』とホログラムに表示される。
「あなたのお誘い、とても嬉しかったわ。今の様子はこの魔脳デバイスに記録させていただきました。父王と貴族院に報告の上、処分は後々に伝えます」
「なんですって!? きゅ、宮廷内のいさかいなど、誰にも裁けないはず……」
殺人未遂を諍いと言って済ませるのか。面白い感性だ。そう思いながら再び言葉を紡ぐ。
「これまで通り、真実が闇に隠れて明らかにならなければ……ね。あなた方が母を毒でなぶり殺した時のように。だが、あなたがたが信仰してやまない魔脳は偽りなき真実しか語らない。言い逃れはできないでしょう」
寵姫は目を大きく見開き、唇を震わせた。私は優しい口調で告げた。
「ああ、死刑にまではならないと思いますわ。労働など一度もしたことがない由緒正しき家柄の方には、追放後の生活は耐えられないかもしれませんけれど」
彼女は怯えが止まらないのか、口を手で覆った。それは行く末を思った恐怖だけではなく、唯一の取り柄である家柄を誇っていた者が卑しい育ちの女から生まれた娘である私に敗北し、崩壊させられたプライドゆえだろう。
いい気味だ。いつまでも苦しめばいい。私と母を苦しめた分だけ。
――こうして私は宮廷の敵たちを次々に排除していった。ネクロノミコンの魔術、もしくは最優先で身に着けた知識による策略によって。
母の毒殺に関わった寵姫たちをみな追放し、そして私に嫌がらせを続ける『脳光福音団』の息がかかった者たちの勢力を抑えるため、彼らの収賄の事実や隠し口座のありかを暴いた。
この国の政治を担う貴族院に出入りし、魔脳の知識提供と引き換えに純粋に国の戦後復興を願う有数のまともな政治家たちとのつながりを作り、国務政治に自分の提案が通る土台を作った。
そうしていると、いつしか……敵は存在しなくなった。
宮廷で「魔女」と呼ばれる私には。
「ふふふ…ふふふ……あーはっはっはっ!!!!!」
高笑いが止まらない。
それは全ての孤独と、恐怖を紛らわしてくれる。
愛しい、憧れの人……英雄アーサーには決して見せたくない姿だ。
報復とはいえ人を絶えず蹴落とし続ける私に彼はきっと、ひどく幻滅するだろうから。
月日は過ぎ去り……気づけば私は十七歳を迎えていた。
玉座に座りながら、謁見しに来た相手を一瞥する。
目の前の男が情けなく頭を垂れていたが、ゆっくりと顔を上げ、まるで熱に浮かされたように話し始めた。
「お、お目通りできて光栄です。ヘレナ様。噂以上にお美しい……! ぜ、是非、私と婚姻を結んでいただけませんか?」
私は黒い扇で顔を隠しながら、ホログラム状の魔脳データベースを確認する。
五十番目の求婚者はナーザ王国の伯爵。確か……『石材』というあだ名を頭の中でつけたはずだ。
十七の歳を迎えてから、小国であるエーデルヒ王国、そして本来は嫡子ではなかった私の足元を見て、美しい王女を物にしたという名声が欲しい好色家や、領土や国交を狙いとした外国の貴族たちがいくらでも結婚を申し込んでくるようになった。
この男はどう見ても五十は超えている。結婚を申し込む前に歳が離れすぎているとは思わなかったのだろうか?
誰も私の美しさを讃えこそすれ、愛してなどいない。裏には目的がある。
若く美しい女を所有すること……もしくは領地の拡大。
誰かに利用されるのはまっぴらごめんだ。
何より父に性的な目を向けられてからというもの、私は男という存在が徹底的に苦手になった。
魔法で自分の貞操は守れたものの、恐怖や不信感が染み付いており、同じようなじっとりとした視線を向けてくる男と話すだけでも体がこわばって、酷い苦痛を感じるのだ。
相対するのが英雄アーサーならば、きっとこんな苦痛は感じないのに。ただまっすぐ前を見据え、正しさを愛する彼は私の美しさや表面上の言葉に惑うことは決してないだろう。
だから、いい。
この苦痛の時間があるなら、魔導書で更なる魔術を習得したい。新たな貿易ルートを見出したい。彼に近づくために。
この男からはくだらない時間の浪費とストレスに見合う対価を貰わなければ、割に合わない。
そう思いながら、私は扇を畳んでにこりと微笑んだ。
「私も大変嬉しく存じますわ……。こんなにも素敵な方だと思わなかったもの。しかし、結婚にはかなり迷っておりまして……。なかなか、答えが出せませんの」
いくらでも、嘘が口をついて出てくる。
相手を否定せずにわざとらしく、物憂げに話せば大概の男はうっとりと私の顔を眺める。彼らはなぜかみな、美しい人間はか弱く優しく、自分に対して好意があって然りだと誤解しているからだ。
――五十人、揃いも揃って、私の美しい顔と都合のいい建前だけを信じてくれる単純な頭脳の持ち主ばかり。本当に助かる。
「ど、どうすれば、選んで頂けますか?」
「そうですわね……。実は水害対策用の防波堤を作るための石材が不足しておりまして、今はその調達で頭がいっぱいですの」
「せ、石材!? 」
「困りましたわ……民を守るために必要でして、夜も眠れませんの。それが解決すれば、結婚のことももう少し前向きに決断できるかもしれないのですが……」
この貴族の生家は代々続いた名のある石工の家系。ある王の命で荘厳なコロッセウムを建てた功績によって爵位を賜ったと言われており、現在も石材の輸出や販売を生業としている。
「それならお安い御用です! 私が何とかしましょう!」
「そんな……恐れ多い。私の婚姻相手に関する最終決定権を持つのはこの国の貴族院。どんなに良くしていただいてもお気持ちに答えられるかどうかはわかりませんわ。誠意を示してくださる方の気持ちにぜひともお応えしたいのですが、どうなることやら……」
決定権は私にあったが、毎度最後はこのセリフで締めくくれば、ことがうまく収まる。
「そ、それでもいい……ただの一瞬、美しいあなたに見つめて貰えるなら……」
男が帰ったあと、多大なる疲れから玉座に座ったままため息をついた。罪悪感は特にないが、相手をただ哀れに思う。求婚者のなかには、たまに彼のような「ただの愚鈍」が含まれている。
多くの求婚者は出会い頭に体を触ってきたり(その場で魔術を使って報復するか、腹を下す呪いをかけてやった)、あきらかにこちらを下に見てエーデルヒの領地狙いの話ばかりをする下衆ばかりで、痛い目に遭わせるのが然りだが、稀に現れる愚鈍な彼らは、ただ美しい女と結婚したいという目的の為だけに来たのであって悪意などない。
本来なら、結婚をダシに利益を掠めとることは避けた方がいいのだろう。
でも私は『この手段』をやめるわけにはいかない。
なぜって……。
『復讐か? 男への』
誰かの声が聞こえた気がして振り向いたが、誰もいなかった。だが、少し……煙と不思議な花の匂いが混じった香りがする。
幻想だ。私に声をかける者など誰もいない。
宮廷で魔女と呼ばれて恐れられ、大臣や侍女からも嫌われ尽くしている私には話し相手なんていたことがないのだから。
一人きりで話すのが、気づけば癖になっていた。腕を組みながら軽くつぶやく。
「違うわ、これは自己防衛よ。そして、いずれ愛しい人に会うための布石」
民を富ませ、祖国に私の居場所を作ること。宮廷の敵たちの罪を糾弾し、追放し……もしくは魔術の脅威で黙らせた今、私が次に目指す段階はそこにあった。
エーデルヒ王国はルルイエの傘下に入ったことで経済的には安定している。だがそれは表面上のことだと、魔脳マグダラとの対話を通して知った。城の中にいるだけでは知らない事実が多くあった。
戦時中に崩壊した街の大部分の復興がまだ完了しておらず、倒壊した家屋の中、飢えて凍えながら暮らしている民が多くいる。
父王は彼らに目を向けることもなく、ルルイエの属国となったことによって得た経済的支援を貴族と自分たちの私腹を肥やすことにしか使っていない。
貧困に苦しむ戦災孤児たちや、明らかな水害リスクの高い地に廃材で作ったバラックで雨風をしのぎながら息を殺して住まう貧困層を救うためには金と実質的な支援が必要だ。
一度、街に視察と支援に向かったが、飢えた子供たちはまともな教育を受けておらず、言葉すらまともにしゃべれずに、与えた食糧を必死で奪ってむさぼるのみだった。
その姿が、過去の自分と重なった。いや……宮廷で庶子として扱われていたのでずっとマシではあるが。
命の危険と隣合わせだった頃、私はきっと彼らと同じ目をしていたはずだ。
孤児だった母も、こんな生活を余儀なくされ、人に優しくされることも何かを所有することも許されず、搾取され尽くして死んだ。
この国はあまりに持たざる者に厳しい……。この状況を変えられるとしたら私しかいない。天啓のようにそう感じた。
だが、いくら父を脅したところで金庫までに手を出せば、私の身に危険が及ぶ。
何の後ろ盾も後援勢力もない私の使える資源はゼロだった。
そこで目をつけたのが、こちらの足元を見てくる求婚者たちだ。
彼らが私を利用しようとするなら、私も存分に利用する。
結婚の答えを出さずに曖昧な態度をのらりくらりと取っては気を惹き続け、『恋わずらいからの贈り物』を受け取り、それを民たちに還元して国を富ませる。
そして功績を作って祖国の地盤を固めれば……いつか、エーデルヒの復興を成し遂げた王女としてルルイエのアーサーに謁見が叶うかもしれない。
私は魔脳データベースを開き、アーサーの精悍な顔を見つめる。
魔脳マグダラのデバイスを手に入れてからというもの、多忙ゆえに本ではなくこのデータベースでアーサー・ルルイエの伝記および、アーサーの画像などの情報閲覧を行うようになった。
彼の存在だけが、私の憂さと疲弊した心を癒してくれる。
若き英雄アーサーに憧れ、婚姻を申し込む王女は各地に存在する。
本来なら、領地や利権分配のリスクが絡むことの無い属国エーデルヒの王女である私にも妃になれる可能性があったかもしれない。
だが、アーサーは誰も受け入れない。彼の隣に描画された少し浅黒い肌をした赤毛の女がその理由。彼女がいる限り、それはあり得ない。容姿は美女の部類には入るだろう。
辺境の南方民族の『風語り』──風に宿る精霊の声を聞き、祈りを捧げて癒しをもたらすという、聖女ルルド。
戦時中にルルドはアーサーを精霊との対話によるまじないの祈りで癒して支えたという。
戦後、アーサーは彼女を妃に迎え入れようとしたが、神話国家ルルイエの貴族によって構成された、『ルルイエ純血教団』の息が強くかかった政治派閥、王党純血派によって断固阻止された。
彼らは宇宙神の血筋を受け継ぐと言われるルルイエ王家に、野蛮と忌み嫌う異民族の血が入ることを決して許さない。しかも南方民族の異教徒の代表である『風語り』のルルドの存在を許すわけがなかった。
神々が死した世界において『精霊』という存在を信じ、純血教団が妄信的に信じる『再臨の御子』の到来がなくとも、人々は自然精霊の愛によって既に救われているという南方民族特有の異教徒思想は断固として拒絶されるものだからだ。
アーサーは泣く泣くルルドとの婚姻を断念し、彼女は寵姫として王宮に迎え入れられた。
だが正妃になれずとも、心優しく美しいルルドは国民や、ルルイエの王党純血派に対立する政治派閥、革命急進派の若者たちと中流階級に絶対的な人気がある。
何より……婚姻はできなくとも、彼女は誰よりもアーサーに愛されていた。
――精霊との対話なんて本当かしら? 私の方がずっと美しいのに。
憧れの人の隣にいるルルドにちくりとした嫉妬を覚えることもあった。だが、アーサーが愛しているのならば、仕方がない。
元々、彼の妃になるなんて夢のまた夢。だが一度だけ彼に会いたかった。
会えたら、生きる勇気を与えてくれたお礼を言いたい。それから……。
いや、言葉なんて出てこないかもしれない。胸がいっぱいで。
私はホログラムに表示された彼に向かって手を伸ばす。指で頬に触れようとしたら、ホログラムをすり抜けてしまった。
決して触れられないからこそ、いいのかもしれない。
彼は昔の父や求婚者のように、私に何も要求をしないから。ただ、画像の中で凛々しく戦っているだけ。
人に希望を与えられる存在は、距離があるからこそいいのだ。近づけば……知りたくないことまで知ってしまうかもしれない。
謁見の権利だけでいい。でも、それを得るためにはどれだけ努力しないといけないのだろう。常に宮廷で寝首をかかれないか、注意を張りめぐらせていて、心休まる時が一瞬もない。
いけすかない求婚者たちから利益を搾り取り、曖昧な態度を取り続けるにも限界がある。この美しさと同様、これは終わりのある資源だ。
どこかで決着はつけなければならないだろう。すでに国内外で男に指一本も触れさせずに手玉に取る悪女だのと言われ始めてはいるが(それに対して反論する気はない)、「運命の出会い」とでも称して誰か選びさえすれば、その物語いかんで人々は納得するかもしれない。
誰か選ぶ? 五十人の中で一番マシな男を?
憎しみしか感じられない相手と添いとげるなんて無理な話だ。五分たりとも一緒にいられないだろう。
私は、誰も愛することができない。
夢に現れ、私を救ってくれたアーサー以外……。
本当は……もし彼と一緒にいられるならば、どんな代償も払えると思うほどに。
そんなある日のことだった。
『脳光福音団』による政治的クーデターが発生した。彼らは武器を持って女子どもを人質に取り、自分たちの教会に立て篭った。
元々、この国の宗教対立はエラルヴィン秘教の源流であり、宗主国ルルイエの主宗教『ルルイエ純血教団』への反発から起こっている。
『ルルイエの純血教団』の思想はルルイエ王家にいつか『再臨の御子』が生まれ、死んだ神々を復活させられるという奇跡をひたすらに信じて祈るというもの。
それでかつ、かの教義では異民族……西方民族以外の者は神々の復活による救いの対象から徹底的に排除されており、教本には『異なる民』と侮蔑的な記載がある。
ゆえに『ルルイエ純血教団』および、エラルヴィン秘教における選民思想は、エーデルヒ王国で産業と農耕を支え続けた異民族たちからの激しい批判と憎しみをあおることになったのだ。
エーデルヒ王国がルルイエの属国となってから、『ルルイエ純血教団』の宗教・政治勢力が強まったことによって、その対立は溝をさらに深くした。
対する『脳光福音団』は死んだ神々の復活などはありえないことだと謳い、神々の遺産である魔脳のみを神として崇め奉り、人類の救い手である『再臨の御子』の存在を根本から否定する思想だ。
神の再臨を待ち、選ばれし民族にのみ救いが訪れると信じる『ルルイエ純血教団』、
神の再臨を否定し、死した神々の遺産である『魔脳』こそが正義であり人々を導くものだと信じる『脳光福音団』……。
この宗教対立こそが、七国戦争のそもそもの火種だったとも言われている。だがその真偽は、魔脳に問いかけたところで明らかにはなってはいない。
今は神亡き時代だというのに、不安に駆られた人々は真実を求めることと、神の存在から逃れることはできないのだろう。
クーデター中、父王は震えて武器を持つことも拒否し、交渉で事を解決しようと貴族院の大臣を現場に向かわせ、あっけなくテロリストの猛襲によって彼を殺させてしまった。
愚鈍の極みだ。もう、こんな者に国を任せるなどできない。
「姫! 勝手に城を抜け出すなど許されません!」
「止めないで! 国民の命がかかっているのよ!」
ろくな武装もせずに城を飛び出て教会へと向かった私をテロリストは笑って迎えたが、魔術で雷を落としてやると一瞬で黙った。
反乱をどうにか制圧した私は膝を折って、教会に崩れ落ちた。
解放された国民たちは私に向かって涙を流しながら、感謝した。そして口々に言う。
「さすがは『エラルヴィンの祭祀』の遺児であらせられる姫だ! 」
「伝説の災いなどあるはずがない! 彼女こそが救い手だ!」
国民ほど単純なものはない。かつて母を災いの象徴たらしめた魔導書も、自分たちを救う救世の象徴と転じれば一気に手のひらを返す。
苦しい戦いではあったが、身を挺して制圧したことには意味があった。
秘められた魔導書の使い手であるエーデルヒの末姫の噂は国外にも届き、私はこの時から『エーデルヒの薔薇』と呼ばれるようになった。
その渾名の理由は、髪につけていた薔薇の飾り、そして敵の血を全身に浴びながら戦う姿からだったと言う。
殺人だけは犯さない。その信条に基づき、致命傷は避けたが、相手の負傷は避けられなかった。
この事件を契機に私の支持者は増え、資金源を確保することができた。
もうくだらない求婚者に対してのらりくらりと無駄な会話をする必要もなくなり、かねてより『脳光福音団』の営業妨害に苦労させられていた、西方民族たちの商工組織からの資金援助を受けられることになったのだ。
ろくな血筋も後ろ盾もなく、美しい顔で男をたぶらかして弄ぶだけの末姫――。
私に根付いていたそのイメージは一夜にして『魔術を駆使して戦い、国を守る戦姫』へと成り代わった。
だが、この事件には明らかな違和感があった。
『脳光福音団』はたしかにエーデルヒ王国の反乱因子となりうる要素はあったが、こんな大規模なクーデター事件を起こしたのは初めてだったからだ。しかも主犯者は具体的な国家への要求は語らず、私が魔術で追い詰めようと口をつぐんだままだった。
そして彼は捕縛した次の日に自殺した。結局、目的と黒幕は誰かわからずじまい。
まるで……何かに仕組まれていたような展開だ。下手すると、私の救出行動が評判になるところまで……。
寝覚めは悪いが、魔脳デバイスにいくら問うても答えは返ってこず、この一件は保留にせざるを得なかった。
変わったのは私の評価だけではない。国内の空気はこの出来事以降、明らかに一変した。
これまで、国を支えたことである程度の地位を築いていた異民族たちの立場や政治的主張が一気に弱くなり、魔脳信仰を馬鹿にする風潮が一般化した。
魔脳は、あくまでも道具……。神ではない。我らが信じるべきは、死した地上の神々。宗主国の主宗教である『ルルイエ純血教団』の力と声が確実に強くなった。
何より大きかったのは、ルルイエからエーデルヒへの興味関心だ。『秘教エラルヴィンの祭祀』は『ルルイエ純血教団』の中でも亜種の一派とみなされており、魔術への傾倒を嫌う主流派からは排斥されることも多かった。だがこの一件により、まるで秘教の存在を自分達の一部として認めたかのような発言を大司教がするようになったのだ。
その理由は明らかだ。『 秘教エラルヴィンの祭祀』を取り込めば、『人々を脅かす魔脳信仰を見事に制圧し、民を守ったのは、死した神の遺志に選ばれし御子の娘による奇跡の魔術だった』という、『ルルイエ純血教団』にとってひどく都合のよい……いや、あまりにも都合のよすぎるプロパガンダになる。
だが私はこの考察をあまりにも早く、疑惑を向けるべきある人物を相手に披露することとなった。
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「……本件に関する私の見立ては以上ですわ。ルルイエ純血教団の大司教様。あなたのご意見をお伺いしても?」
はるばるエーデルヒ王国まで謁見に訪れた大司教はつかみどころのない笑みを浮かべたままだった。
皺の刻まれた小太りの顔はひどく柔和な好々爺のように見えるが、目の奥は決して笑っていない。
「おお。伝説の女神のように美しいだけでなく、あなたは聡明でいらっしゃいますな。ヘレナ様」
「今の答えは肯定? 魔脳に尋ねれば答えてくれるかしら」
私は指輪の形の魔脳デバイスのスイッチを入れ、尋ねようとする。だが、いまいましげに司教が言い放つ。
「かようなガラクタが真実を語る事などありえん! 死した神々の意思以外に何を信じられようか!」
そして憎むように魔脳デバイスをにらみつけた。
憎しみの根拠はきっと、本人も、純血教団の信者たちも忘れているはずだ。
だがきっと何かを憎まなければ自分の正しさを証明できないがゆえに、人は何かを憎み続ける。
「肯定ということですわね。ただのしがない魔女だった私を祭りあげて、一体どうなさるおつもり?」
大司教は鼻を鳴らし、私の言葉を弄ぶように告げる。
「祭りあげる? なんのことですかな。もしもこの出来事が『何かしらの意思』を持って動いていたとしても……それは神の御心でございます」
あくまでもしらを切りとおすつもりか……。
私は大司教に向かい、淡々と言い放った。
「あなた方が何をお望みかはわかりませんが、最初に私の宗教的考えを述べておきましょう。私は『エラルヴィンの祭祀』の娘ではあり、母を苦しめた『脳光福音団』には思うところはありますが……亡神信仰と魔脳信仰の対立につきましては完全に中立です。大いなる力を持つ魔術は宇宙神と地上の神々が残した大切な遺産だと考えておりますし、一方で魔脳については使い方を間違えなければ、神亡き世界に生きる我々に最大限の安心を与える神々の叡智と捉えております。この二つが共存する世界こそが、真に望まれる未来なのではないでしょうか」
「おや、聡明な方とは言え、随分と恐れ知らずですな。属国の末姫という身分でありながら、宗主国ルルイエの司教に宗教談義を持ちかけるなど」
「私は王女、あなたは大司教。階級から判断して、立場的な遠慮はいらないかと思いましたが?」
明らかに大司教は苛立ったように顔をぴくりとゆがめたが、柔和な笑顔に戻った。
「すばらしい理想をお持ちであることはわかりました。だが、魔脳信仰はいずれ人類を滅ぼしますぞ。一刻も早く……再臨の御子の誕生が望まれる」
再臨の御子。それはルルイエ純血教団の思想では、宇宙神の血筋を継ぐ王家の子と選ばれし民の間にいずれ生まれると言われている。
「さて、前置きはこの辺りにいたしましょう。今回お伺いしたのはほかでもない……我がルルイエの王、アーサーとあなたの縁談を持ちかけるためです」
「……!!! あ、アーサー・ルルイエと……?」
それはあまりにも予想外の事態だった。だが、理由は手に取るようにわかる。
「そう。あなたがたは『再臨の御子』を教団の象徴として祭り上げるために、純血の嫡子がほしいのですね? できれば西方の民族。そして魔術の使い手、『秘教エラルヴィンの祭祀』の娘である私との子であれば、神の子であるとの信憑性が増す……」
考察しながら、辿り着いた答えに思わず、頭に血がのぼるような怒りを感じた。神を崇め奉る者たちがした、信じがたい反人道的行為を思わずなじる。
「あなた方はそのためだけに、クーデター事件をでっちあげたと? 犠牲者は出なかったと言え、人命を一体なんだと思っておられるのです!!」
「おや、ヘレナ様。いくら誰も殺さずに制圧したとはいえ、あなたも心の奥底にはある『願い』があったのでは?」
「願い……?」
「民に示したかったのでしょう? 虐げられた自分の力を。そして英雄と呼ばれたかった。まるで、わが国の王アーサーのように」
「ち、違う……」
そう言いながらも、私は自分の心に真実を問いかけることを拒んだ。
大司教の言葉が完全な嘘ではなかったからだ。民を救う。そうは思いながら……私は何のためにそうした?
誰かに必要とされたい……愛されたかったからかもしれない。
私の真実は一体、どこにあるのだろう?
大司教は私の迷いを感じながらか、ひどく優しく語り掛けてくる。
「あなたの願いは我が国にお輿入れすれば、叶えられますよ。アーサー王と婚姻を結べば、もう誰も貴方を虐げはしない」
「ですが、アーサー様には心に決めた方がおられるはず。私の出る幕などありませんわ」
「ルルド嬢は決して我が国では正妃になることはできない。野蛮な異民族の『風語り』との婚姻など、我ら純血教団が許しませんからな。正妃に迎えたく思うのは貴方様のみです。最大限の礼節を尽くしてお迎えいたしましょう……大切な、『再臨の御子』の母となる女性として」
私は唇を引き結んだ。
この婚姻を拒否することは物理的に不可能だろう。彼らはこの目的のために人命さえも惜しまず、私にこうも大きな名声を与えたのだ。もし拒めば、今度はエーデルヒ王国に対して何をするかわかったものではない。
いや、これはただの建前の思考だ。本当は……。
私の本心は……民の救い手ともてはやされようと、常に乾ききっている心は、ただ一つ求めるものに手を伸ばそうとしていた。
大司教の提案にうなずきさえすれば、誰の邪魔もなく、私はアーサーの正妃になれる。
――いけない!! そのとき、冷静な思考が自分のエゴを遮った。
私の中のアーサーは正しいことしかしない。
彼は決して、愛する女性ルルドを裏切ったりしてはいけないのだ。
彼の存在と誇りに傷がついてはいけない。
でも、私は……アーサーに会いたい……。
夢幻ではなく、現実のアーサーに。
さまざまな思いが渦巻く中、頭を全力で働かせて私は一つの答えに辿り着いた。
そうだ、『これ』なら……。私の中のアーサーの正義が揺らぎ、傷つくことはない。
「かしこまりました。ルルイエへ参りましょう……私でよろしいのでしたら」
私はそう言ってまた、習い性になった不敵な笑みを浮かべながら、扇を広げて顔を隠した。