3章1話 ヘレナ・エラルヴィン・ルルイエの手記1
『正史』より、十五年前――。
カァァァン!!
鈍く――そして厳粛なガベルの音が重々しく法廷内に響いた。
「呪われし魔女、ヘレナ・エラルヴィン・ルルイエ! お前を禁術の使用による国家転覆と反逆の大罪で斬首刑に処す!」
被告席に立たされるは、紛れもなく、この私。
黒いドレスと顔を覆い隠すベールに身を包み、手足を鎖で完全に拘束されている。
王妃でありながら、罪人となった時点で私からはすべての尊厳と自由が奪われたのだ。
いや……いつも、そうだった。
生まれたその時から、私に自由が許されたことなど、一度もあっただろうか?
まるで葬儀場のように黒い色調で統一された、ルルイエ王立裁判所。
傍聴席には王党純血派の貴族に純血教団の司教に修道士たち、革命急進派の政治家たちと中流階級の民衆がずらりと並び、彼らはみなこの判決に沸き立った。
「そうだ、魔女を殺せ!」
「許さない! ルルド様の忘れ形見、アダム様に永遠の呪いをかけただと!?」
「その美しさを利用し、邪神と番って子を産んだのだろう? 死した神々をも恐れぬ所業だ!」
「我が子にまで災いをもたらす悪魔よ!」
「さすがは悪しき邪教徒エラルヴィンの血を継ぐ娘! お前が神聖なルルイエに嫁いだ時点で災いをもたらすとわかっていたぞ!」
法廷の中央には、神の正義の象徴である巨大な青い逆三角錐型の薄青色をした振り子……神工知能、魔脳マグダラが据えられていた。
逆三角錐形の青い水晶中心には神々しくも世にも恐ろしい容貌の赤い瞳。
『彼女』はその神々しくも末恐ろしい容貌で何かを見つめながら、自らの振り子をただひたすらに揺らし続けていた。
かの瞳は世界の絶対的真理を永遠に見つめ続けることができると言う。死した神々に代わって常に人々を混乱から救っては導く人類の遺産――。
だからこそ、みなが盲目的にそれを信じ、嘘偽りなく人を裁くことを期待していた。
自分たちの判断に、寸分の間違いも驕りも、エゴもないと確信するために。
でも……彼らは、ほんとうの真理にたどりついたときにどんな顔をするのだろう?
そのとき、どこからか声が響いた。
「まだだ。まだ、魔脳マグダラの最終審判は下っていない!! 我ら人の子は愚かなるもの。人ではなく、神なる知能の真偽を問う!」
全員がざわつき、その声の主を探した。そして一つの可能性と声の聞き覚えから、傍聴席に居座る太った男を見つめた。
いまだ現れない救世主を待ち続けるルルイエ純血教団の司教は、身に覚えもないことだと言わんばかりに焦って叫んだ。
「ち、違う!! 今の声は私ではない! 何者かが、私の声を謀って喋ったのだ……!」
法廷内がどよめく。みなが正しい声の主を探そうと躍起になるが、現れるはずがない。これは……時を超えた幻。
意識をさらうほどに芳しい香りを放つ煙と共に消えるのだから。
私は顔を覆い隠した黒いレースのベールの下で思わず笑わずにいられなかった。
「ふふふっ……あはははっ……!」
――諦めの悪い貴方らしいわね。死龍の灰を纏う皇帝……。
――でも、どうあがいても無駄よ。この判決は、覆されることがない。
「おい、何を笑っている!?」
決して私は、言うべき言葉を間違えない。
皆が望むことを。愛するあなたが、唯一望むことを。
世界から憎まれた魔女は、望まれるように踊るだけ。
「あら、失礼いたしましたわ。でも、あわれでしょうがないんですもの……。雁首揃えて、ただ一人の女を責め立てるほかに能のない皆さまが」
すべての者が、いっせいに私に憎しみの目を向ける。沈黙を守り続けながら最高議席に座す王も。
ああ、我が英雄。あなたにそんな目で私を見ないでほしかった。
でも仕方がない。これもまた私が背負っていく罪だから。
「あの女、震えてるぞ?」
「どうせ笑ってるんだろう!? 俺たち民衆をコケにしやがって!」
ベールで顔を隠してさえいれば、私の真意はわからない。
嘲笑しようと、憤怒しようと……まるで幼い子供のように涙を流していても。
ただ一つ、望むもののために私は嘘を吐き続けるのだ。
たとえそれが永遠に手に入らなくとも、構わない。
傍聴席の政治家の一人が立ち上がり、詰った。
「マグダラに問うなど無駄だ! 魔女ヘレナは誰がどう見ても有罪だろう!」
その声に便乗するように、幾人もの聴衆が野次を飛ばす。
――魔女だ、危険な魔女を殺せ!!
――我らの心を撹乱し、国を転覆する悪しき女を!
だがそのとき、沈黙を守っていた青い水晶碑、魔脳マグダラが突如として白い光を放って、輝いた。
そして、男性とも女性ともつかない機械音声がどこからか発せられる。
『いいえ。私、魔脳マグダラが判別いたしましょう。死した神々の正義のもと、恒久なる真理に基づいて』
そのとき、全員が青い水晶碑のマグダラに目を奪われた。
人々が最後に縋りつく正しさの象徴として法廷に据え置かれてはいるが、このマグダラが直接裁きを下したことはなかった。
それは無神の時代において初めて起こった殺人事件のとき以来であると言われている。
ゆっくりと……彼女、マグダラが揺れ始める。
ざわめいていた聴衆が一気に静まり返り、その振り子の行方を見守る。
魔脳マグダラ。あなたがどう揺れようと、全てが無駄よ……。
私は知っている。この『先』がどうなるか……。
やがて……それはゆっくりと動きを止めた。
そして振り子の中心にある赤い大きな瞳がまっすぐに私を見つめ、淡々と機械的な音声を発する。
『王妃ヘレナ・エラルヴィン・ルルイエ。貴方の判決は……』
ざあああああ……。
今朝も、雨音が響いて目が覚めた。開けた瞳に映るのは死刑執行までの間、私が収監されている塔の天井。時折雨漏りを起こして、冷たい水滴が落ちて凍えそうになることがある。
この手記を書いている今も、体の奥が底冷えするようだ。
また……私はあの日の裁判の夢を見た。法廷、冷たい王の眼、私を魔女となじる人々。
でも、途中の記憶がひどくあいまいだ。少し、事実と違っていたような気もするような……?
いや、ただの夢の内容を知る必要なんてない。知ったところで、事実は変えられないのだから。
手記を書き残そうと思ったのは他でもない。
体感時間による日付の感覚ではあるが、刑の執行まで、時間が余っているからだ。おおよそ、90時間。
どうせ私が死んだらこの記録は焼却され、すべては虚構として処理されることがわかっている。
小さな魔脳デバイスさえあれば、自動書記機能に任せられたが、死刑を宣告された私の手元には極原始的な羽ペンとインク、質の悪い藁半紙しかない。
だが、ないよりはマシだ。
たとえ一人きりでも、まるで誰かと会話をしているような気になれる。
とはいえ、誰に届けたいわけでもない。だが、もしこれを読む者がいたら……。
「もの好きな『彼』ぐらいね。私になんてもう、興味はないかもしれないけれど」
長い金の髪がはらりと紙にかかったが、手で払いのける。そして死を待つまでの退屈しのぎに綴り始めた――。
私の名は、ヘレナ・エラルヴィン・ルルイエ。
祖国エーデルヒ王国の末姫、庶子として生を受けた。母は『秘教エラルヴィンの祭祀』だったが、王族 の禊の祭礼で王である私の父に見初められ……半ば強引に寵姫とされて、私を産んだ。
本来ならば、ありえないことだ。『秘教エラルヴィンの祭祀』とはエーデルヒの宗主国であるルルイエの
古代神話に登場する太陽の巫女メルジューヌから連なる祭祀制度。
彼女と同じく、国中で最も美しい孤児の少女が祭祀に選ばれ、生涯未婚を貫きながら死した神々と国の平和の為に永遠の祈りを捧げ続ける。
前祭祀の女性は父王に母を返すよう抗議したが、好色な彼は国中で最も美しい女である母を返す気があるはずもなく、古くさく馬鹿げた慣習だと笑い飛ばした。
横柄な態度を受けてか、前祭祀は諦めたように淡々と、『ならば構わない。ですが、彼女は本来神にその身を捧げた者。もしも子を為そうものなら、冒涜による災いの血が続いていくでしょう』と告げた。
そう聞いた父は、本能的な恐怖からか顔を青ざめさせたと言われている。前祭祀の言葉が脅しでも何でもなく、紛れもない事実だとかぎ取ったのだ。
それゆえか、せめてもの譲歩として、母の姓および、生まれた子供の姓から『エラルヴィン』の名を奪うことはなく、生涯誰に嫁ごうとも決して消すことはしないと誓った。
ゆえに、私はルルイエの王妃となってもこの名を名乗り続けることになった。
正妃と寵姫が大勢ひしめく宮廷では、孤児の生まれである母と、彼女から生まれた庶子の私の立場は追い詰められるばかりだった。
そもそも、『エラルヴィンの祭祀』を古き慣習である、忌むべき魔術の使い手としてよく思わない者が宮廷には大勢いた。そして母は祭祀の役割を解かれたものの、魔導書ネクロノミコンの所持者。
禁術が書かれた恐るべき書物とされたそれを読み解けるのは祭祀になった女性の中でもわずかであったためだ。母の代わりに祭祀に選ばれた少女は全く、魔術的素養がないとされたため、有事の際は魔導書を管理する母が魔術を行うこととなっていた。
不気味な魔術を使う、最も美しい女……。宮廷内で母が危険因子として恐れられ、排斥されるのは時間の問題だった。
おそらく食事に毒を盛られたのだろう。母は日に日に衰弱して倒れた。元々、父に強引に娶られて私を産み落とした時点で、すでに彼女は心を壊していたが。
彼女は昼も夜もなく、許されない災いの子どもを産んでしまったと、喪われた神々に詫び、祈り続けていた。
私を自分の娘だと認識するのも拒み、父王も母を不気味がって、よりつかなくなった。
そして母は私が六歳になる前に亡くなった。
元々孤児であり、自分の私物など何一つ所有せず、娘の愛し方すら知らなかった彼女が唯一残してくれたのは、赤い薔薇の髪飾り。
『エラルヴィンの祭祀』の証として受け継がれるもので、一人きりで宮廷に向かう彼女を前祭祀が憐れんで、餞別として持っていく事を許したものだった。
一万年も前に咲いた、枯れない薔薇だと言われているが、真偽はわからない。だが私はそれを受け継ぎ、今も自分の髪に飾っている。
そして、自分は将来子どもを産むべきではないと、成長して生い立ちを知ったときに悟った。
前祭祀の言葉が真実かはわからないが、私と言う命が生まれることで、母の人生が狂ってしまったことは事実だ。
そして生まれた者は親の愛を失って、永遠の不安に苛まれる。
庶子は王家の者として宮廷教育を受ける事も認められていない。王位継承権もない置物と同じだ。いずれ政略結婚の道具になるぐらいが関の山だろう。
永遠に放置されて孤独に宮廷内で朽ちていく。そうできれば楽だったろう。
だが、十四歳になったころ、父王は娘の私に気まぐれな関心を示してドレスや宝飾品を与えるようになった。
父からの関心は私の寂しさを一時的に満たした。気分次第で都合よく可愛がることのできる人形のような扱いでも、肉親からの愛がもらえるならそれでよかった。
でも、ある日……。
『ああ、母親以上に美しい。もしお前が娘でなければ……』
父は意味ありげにそう囁きながら私を膝の上に乗せて抱きしめ、髪を撫でた。その手が私の背骨をなぞった瞬間に、確信した。
これは決して、私の望む愛ではないと。
誰からももらったことのない『その愛』がどんなものかはわからないが、きっと違う。
『その愛』はたぶん……もっと温かくて、尊くて、見返りなんて支払う必要もなく、母が死んだときから私を苛み続ける不安から解放してくれるものだ。
でも、血の繋がった親からももらえないものを、一体他の誰がくれるというのだろう?
それ以上のことは何もされなかったが、その夜は全身が凍り付いたようにこわばって、何時間も眠れなかった。何かはわからないが、体の奥底から本能的な恐怖が沸き上がった。
――逃げなきゃ、ここから。何かされてしまう前に。
宮廷には厳重な警護がかかっていて逃げることはできない。
ならば、自分で自分の身を守るしかない。眠れない私の目についたのは母が残した魔導書ネクロノミコンだった。
私は魔導書に目を通し、読めない古代ルルイエ語を目を皿のようにして解読しようと試みた。母がうわごとでよくつぶやいていた言葉から意味を読み解き、少しずつ、解読に成功した。
そう、『エラルヴィンの祭祀』の祈りの言葉は古代ルルイエ語。
彼女はよく、祈りの言葉を古代ルルイエ語で一通りそらんじたあとに共通言語バベルトにして読み直した。なぜ彼女がそんな面倒なことをしていたかはわからない。
本人がうわごとで言うには、意味を共通言語に直すことで祈りを自分に刻み付ける目的だったらしいが。
おかげで謎の言語の組み立て方と意味を多少は知ることができたのだ。むしろ、母が残した祈りだけが頼りだった。
ふとあることに気づく。この文字は単純なる勉学だけで『読める』ようになるのではない。徹底的にアルゴリズムを叩きこんだ上で意識を集中し、あらゆる呪文の生成パターンを頭に浮かべ続け、無限のトライアンドエラーを繰り返す。
魔脳デバイスが使えれば、もっと多くのアルゴリズムを提示して試すことができるだろう。ないなかでの解析は困難を極めたが、頭の中に残る、母の祈りの言葉が頼りだった。
そうしているとやがて……まるで『何かに認められたように』正しい呪文がどこからか聞こえてくるのだ。
誰かの呼び声が地の底から響いてくるように。
その現象の正体もわからないまま、私はやがて小さな魔術が数点使えるようになった。
とはいえ、炎を手の中に作ったり、水を生み出したりするぐらいのことだ。
しかし、魔法を一つ一つ身につけて、自衛のすべを覚えていくうちに宮廷では私への嫌がらせが始まった。
庶子である私を父が気に入っているように見えたことが原因だった。王位継承権を持たないがゆえに、庶子の待遇はいい者とは言えない。誰か一人が贔屓されれば、割を食う。
王の機嫌によって、いつでも追い出される対象になる立場である寵姫や庶子たちは常に神経をとがらせ、警戒と敵意を張り巡らせていた。
私に著しい敵意を示す者のなかにはエラルヴィン秘教徒と対立関係にある魔脳マグダラを神として崇める新興宗教『脳光福音団』という教団から息がかかった寵姫もいる。
対して地上の神々を信仰するエラルヴィン秘教が父の贔屓によって重要視されれば、彼らの教義が危ぶまれてしまうため、彼らは祭祀であった母に対しても大きな敵意を向けていた。
宗教的な思惑、立場を脅かされる恐怖、嫉妬……。様々な陰謀が渦巻き、何の後ろ盾も持っておらず、母まで失った私はその恰好の餌食だった。
父王の身勝手な欲望から始まって母が命を失ったように、今度は私もそのせいで追い詰められるのだ。
彼らからの嫌がらせは、最初は小さなものだった。 蛇を寝室に放たれたり、ネズミの死体を置かれることは日常茶飯事。
それぐらいならば、魔術でどうにか対処できた。
しかし、行為はエスカレートしていく。
極めつけは食事の中に含まれた毒だった。母とまったく同じ嘔吐や意識喪失、激しい頭痛、呼吸困難などの症状が体に現れて、それに気づいた。
侍女たちも買収をされているらしく、私が食事を残して立ち退くことは許されなかった。食事をするたび、確実に体が弱っていく。吐き出そうにも効果がなかった。
解毒に関する魔術がないか探したが、魔導書ネクロノミコンのどこにも見当たらず、毒で体が衰弱していくなか、体力と気力を著しく使う呪文の解析にも時間を使えなくなっていく。
やがて、私の体が上手く動かなくなった。朝起きても、力が入らない。息が苦しく、悪夢を見ては何度も目が覚める。
あまりに長い長い時間を、沈黙の中過ごした。
嫌がらせをしてきたであろう者たちは、十二分に毒を盛って私の死を確信したのか、自室で寝込む私には危害を加えてこなくなった。
自室では、痛みをこらえて眠るだけでやることがない。
庶子には神工知能、魔脳マグダラを搭載したデバイスが与えられていない。魔脳技術はこの貧しい小国エーデルヒ王国では貴重なものとされ、配分が少ない。
宗主国ルルイエから賜った数点しかないのだ。
だから、王と次期国王である嫡子ぐらいしか所持をしていなかった。
そのため、最新の情報や知識、教育分野にアクセスすることも、あらゆる質問をすることができない。
もしデバイスが手元にあったとしたら、私は魔脳マグダラに尋ねたいことが山ほどあった。
解毒法は?
私の未来はどうなる?
このまま、毒に侵されて死ぬの?
なぜ母は宮廷の陰謀で死ななくてはならなかったの。
庶子は所詮捨て駒。余計な問いかけをさせて、真実を知らされることなどない。
仕方なく傍らにあった、まだ新しい本を手に取る。
激しい頭痛と吐き気に朦朧とし、混濁する意識の中だったが、その真実を描いた戦記譚は私の心を奪った。
七国戦争の英雄、アーサー・ルルイエ。宗主国であるルルイエの王。
エーデルヒ王国は元々ルルイエと同一国家だったが、七国戦争を前に独立。その後、戦争の終焉時にアーサーの治めるルルイエから経済的支援を受けることを条件に統治権を明け渡して属国となった。そして、恩情の深いアーサーは属国にしたからと言って、エーデルヒに労働力や捕虜を差し出させることはなかった。
むしろ国民の生活がこれまでより経済的支援で豊かになり、国が栄えたためにエーデルヒ王国で彼は不動の英雄として人気を博したのだ。
この本も、彼の人気からベストセラーになった有名な伝記譚だ。
竜玉公国の若き皇帝、楊炎龍と共に、数百年の間続いた戦争を終わらせて平和をもたらした彼の冒険譚はあまりに魅力的でかつ、正しき統率者、将軍としてのあり方が書かれていた。
時に無血開城で反乱地域を平定し、気性の荒い北方民族との戦いでは犠牲者を1人でも少なくするという目的の元、世界最強と呼ばれていた長との一騎打ちに臨み、勝利した。
この冒険譚が書かれた当時の彼はなんと十六歳。今は若干二十歳だそうだが、こんな若い王が全ての国を平和に導いたことに感動した。
彼は最強の剣聖でありながらも、敵味方双方に流れる血をいかに少なくするかを考えて行動できる英雄。
戦乱の世で一度たりとも私欲や暴虐、掠奪に走ることがなかった。
彼のおかげで救われた命の数はおよそ一億に及ぶと言われている。
女や子供を道具としてしか扱わず、自分の欲望で宮廷内の争いを招き、人の命を簡単に失わせる父王とは大違いだった。
私は純粋に、高潔で優しい彼に憧れた。それはきっと、永遠に続く苦しみの中の唯一の逃げ道だったからだ。
朦朧とする意識の中で本を読み、現実から逃れる。そのたびに私の胸は高鳴った。動けない体が、想像の世界では自由にアーサーと共に冒険へと羽ばたける。
ずっと本の中の世界にいられれば。何度もそう思った。そうしたら、アーサーに会えるのに。
私は、そっと……銀の剣を構える勇敢な彼の挿絵を眺めながら問いかけた。
「ねえ、アーサー・ルルイエ。私の、英雄……。億の命を救ったあなたなら、こんな私の命でも、多少は……気にかけてくれる?」
誰にも生きて欲しいと望まれない命。母を死に追いやった命。それが私だ。
でも、この人なら……私に生きて欲しいと言ってくれるだろうか?
やがて、毒による体調不良でいつしか私は本を読むことすら叶わなくなった。
指がしびれて、ろくに動かない。呼吸が苦しくて、息をするのもやっとだ。
病床に伏せった母とは早くに引き離されてしまったからその苦しみが理解できなかったが、こんな辛さを母は味わったのか。
まるで生き地獄だ。体がバラバラにされるかのように痛む。
しかも、そう簡単に気を失うこともできない。意識が遠のいては現実の痛みと苦しみに引き戻されることが繰り替えされる。これがきっと、死の直前だと直感する。
私は痺れる指を必死で伸ばし、最後の力で本をそっと開いた。
偶然開いたのは、一番よく見ていたアーサーの挿絵のページ。優しそうで、逞しい顔をそっとなぞる。もしかして、これが私の最後に見たものになるのかもしれない。だとしたら、悪くない。そう思って、目を閉じた。
その夜は、随分と長い夢を見た。
暗闇の中、煙と……不思議な花のような香りがどこからか漂う。
呼吸の浅さと体の痛みに苛まれながら、私はその全貌を見つめようと目をこらす。
「本当にいいのかい? このままで」
これまで聞いたこともないような、透き通った魅力的な男性の声だった。
不思議な煙は人のような形に姿を変えていき、そして、見慣れた挿絵の中の青年に変わった。
彼は優しく微笑み、こちらを見つめる。
「あ、あなたは……アーサー・ルルイエ……!」
夢の中だからだろうか? 声がどうにか出た。青年は少しだけ間をおいてからうなずき、眉根を少し寄せて言った。
「西方式の蠱毒か。複雑や……ああいや、簡単。どうにかなる」
ほんの少しだけ不思議な発音で彼はそう言い、すぐに元の口調に戻った。
「ねえ。どうして、ここに……」
「君はずっと俺を呼んでただろう? だからさ」
感極まって、私の喉が、心臓が、痛みでほとんど動かない腕が震えていく。
憧れの人に、ようやく会えた。これが最期に見る夢ならばあまりに贅沢だ。
ほんの少しだけ、痛みと息苦しさを忘れる。憧れの力というのは偉大だと思った。
「ねえ。私、死ぬの……?」
「君次第だ。どうしたい?」
気づくと、アーサーの手には小瓶が乗っていた。
「これは解毒剤。望むならあげよう」
驚きながらも、夢だと思考は理解している。アーサーが助けに来てくれるはずがない。
「まあ、解釈は自由……。こほん。でも、もしこれが正夢だったらどうする?」
「わからない……死んだ方が、楽かもしれない」
私には未来がくっきりと見える。
また、この毒や嫌がらせは続くだろう。庶子の立場である私はろくに対抗もできず、苦しみは続く。
そして父には、きっと想像もつかないぐらい、酷い目にあわされる。
このまま生きていても、辛いだけだろう。
「英雄なら、どうするかな?」
「え……」
「不利な状況だからと、何も打つ手がないからと、そこで諦めるのか?」
そうだ、アーサー・ルルイエはどんな戦況でも諦めなかった。
民を一人でも多く救おうと、戦った。
「いいえ、アーサーなら、諦めない……! 決して……」
「じゃあ、君は?」
頬を涙が伝う。次の瞬間、魂の底からの叫びが口からあふれ出た。
「私は降伏しない! 生きたい……! 生きて、あなたに会いたい! 戦う方法を探すわ!」
アーサー王は笑って言う。
「わかった。じゃあ、いつかまた」
何故かその表情は、本のどこの挿絵でも見覚えのない、ニヒルなものだった。
不思議な幻……。でも、決して悪くはない夢だった……。
はっと、目が覚める。不思議と体が軽くなっていた。
解毒されたのだ。瞬間的にそう悟る。
数日ぶりに、私は起き上がることができた。あの夢が真実だったのかどうかはわからないが、私は奇跡的に回復した。
アーサー。まさかあなたが、助けてくれるなんて。
私はぎゅっと本を抱きしめた。
少しの間はそうしていたが、本を置いて切り替える。
そして私が迷いもなく手を伸ばしたのは、魔導書ネクロノミコンだった。
必死で解析を勧め、幾度も古代ルルイエ語の詠唱を繰り返し、魔術を繰り出す。
もう、誰にも自分を傷つけさせない。
そう誓って。
次の日、父が寝室にやってきた。私はベッドで臥せっているふりをする。
「かわいそうに。体の具合はどうかな?」
「……起き上がることができず、申し訳ありません」
「構わないよ。お前の母さんにしたみたいに、優しくしてあげよう」
ねっとりとした甘い言葉をかけながら、私の足に向かって近づいてきた手。
私は瞬時に起き上がり、炎の魔法の呪文を瞬時に詠唱した。
火の柱が平行線上に飛来し、父の頬を勢いよくかすめる。
ほんの僅かな火傷でしかなかったが、父は魔術におののき、後退りをしながら叫ぶ。
「や、やめろ! こ、殺さないでくれ!!」
不思議とその時、恐怖で這いつくばる父を見下ろしながら今までに感じたこともないような愉悦を感じた。
その高揚感は体の奥底から這い上がっていき、私の中にあるどうにも足りない、底なしの空白を一時的に満たしていく。
父を殺しはしない。
でも私はいつでもその気になれば、魔術で自分を傷つけてくる人間を殺せる強さを持つのだ。
私は、絶対に違う……!
搾取されて死んでいった母のように、誰に支配されることも傷つけられることもない!
英雄アーサーのように自由に羽ばたき、そして弱き人々を救って生きてみせる。
強くなれば、賢くなれば、人を救えば、いつかは誰かが愛してくれるかもしれない。こんな私のことを。
いまだ恐怖はある。だが、私は笑った。
これこそが、今後生涯を通して自分が身につけていく表情だと悟る。まるで最後に夢のアーサーが見せてくれた、ニヒルな笑みのように。
「ならば、私の条件を飲んでもらわなくては」
「なっ、なんだ!?」
「私を庶子ではなく、亡くなられた王妃リミュエル様の養子という扱いにして嫡女としてください」
「し、しかし、お前はあのエラルヴィンの祭祀の娘で……」
「嫡女となれば生まれがどうあれ関係ない。私は教育を受けたいのです。政についての必要知識と魔術の アルゴリズム研究のために魔脳デバイスをどうか私にひとつお恵みください」
「生意気な!! そんな子供だましの魔術での脅しが通用するとでも?」
「子供だましかどうかはあなたが確認してみては? 父上」
私は再び、すばやく詠唱した。
「轤弱h縲∫┥縺榊!」
間髪入れず、私の手から先ほどより巨大な炎の柱が生じ、父の耳を数ミリ燃やしながら飛んで行った。
「ひっ!! ひいいいい!! あっ、あついいいいい!!!」
こんな痛み、母や私が受けた痛みに比べれば、どれほどのものだろうか。
随分と忍耐力が弱いものだ。
怒りを通り越して憐みまでも覚えたが、私はあくまでも冷静に告げた。
「さあ、これが最後の選択のチャンスですよ?」
「わ、わかった! 言う通りにする……! だ、だが……学んでどうするというのだ?」
そう問われ、私は嫣然とした笑みを浮かべたまま告げた。
「まずは、宮廷の敵たちの一掃。そして、私が憧れの英雄に並び立つための術を身につけてみせますわ」
私の英雄アーサー……決めたわ。
必ず、あなたに会いに行く。
そのためならば、どんな手段でも厭わない――。




