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2章19話(37話)

 アダムは気づくと、虹色にきらめく世界のなかにいた。

 まるで、溶鉱炉の海にそのまま包まれているかのような……。

 どこもかしこも薄暗く、モニターの放つ光だけが見えていた、さっきとは大違いだ……。でも、一体どうやってここに来たんだっけ……?

 そうだ、ノーデンスが助けてくれて、『銀の鍵』を手に入れたんだ……。

 それで、俺はここに来た……。『時の改変』を行うために。

『メル……ジューヌ……』

 その声が響き、アダムは振り返る。

 だが、どこにもヨグ・ソトースの姿はない。

「ヨグ? ヨグ・ソトース? どこにいるんだ?」

『ぼくのこと、怒ってる? メルジューヌ……。ぼくのわがままで……君の魂を蘇らせ続けて、世界を狂わせてしまったこと』

「いや……怒ってないよ。そのおかげで、俺はガイアやクリフに会えた」

 それは本音だった。クトゥルーからこの話を聞いたときは自分が生まれたことが正しかったのかと自問自答した。

――だが、今は違う。

「もし俺が生まれなければ、誰にも出会えなかった。自分が裏切ってしまった人たちにも、救えなかった人たちにも……。きっとみんな、俺と出会わなければ、もっと楽に生きれたはずだ。もっと……幸せだったはずだ。でも……俺はみんなに会えてよかったと思ってる! 自分勝手、だよな……」

『ううん、そんなことない。でも……少しだけ変わったね、メルジューヌ』

「ヨグ。たとえ君の愛がどんなものであっても、俺は、生まれ変わったことを後悔していないよ。記憶はないけど……俺の中にあるメルジューヌの魂も、きっとそう思ってるはずだ」

 アダムは自分の胸を思わずぎゅっと押さえた。

 自分の魂の根源、前世でもあるメルジューヌ。彼女とヨグ・ソトースの関係がどういったものだったのかはわからない。

 だが、ヨグ・ソトースに対してはなぜか温かい気持ちになる。それがきっと、メルジューヌの残した残滓ラメントなのだろう。

「姿を現してくれ、ヨグ・ソトース。一体どこにいるんだ?」

 そのとき、アダムの目の前に虹色の球体が現れ、強く発光する。

『バラバラになった僕の体は……受肉結晶を培養したところでもう二度とつなげない。『これ』が限界だ。でも、ちょうどいいや』

「どうして……?」

 虹色の球体は光を放ったまま、悲しげに言う。

『姿を見せて、君をまた怖がらせたくないんだ。メルジューヌ……。でもぼくはずっと、君のそばにいるよ。姿があろうと、なかろうと、片時たりとも離れたことがないんだ。たとえこの声が届いても、届かなくても』

「そう、なんだ…………。でも、ここはどこなんだ?」

『受肉結晶を溶かした溶鉱炉の中だよ』

「えっ……!? あの中!?」

『大丈夫。受肉結晶が培養されたことで、ぼくの力は強くなった。君が『銀の鍵』を掴んだ瞬間、ぼくは時を並行的に繋げて君をここへ移動させたんだ』

「へいこうてき……?」

『時の流れは一本道ではない。選ばなかった未来、選んだ未来、それぞれが無数に存在するんだ。クトゥルーはそれを、記憶領域を混濁、飽和させるノイズでしかないと言うだろうけどね』

「選ばなかった未来もある、ということかい?」

『ああ。だが、それはあくまでもクトゥルーの中に蓄積されて終わりだ。決して本物になることはなく、ぼくと、ぼくが選んだ者以外はその中に入れない』

「それじゃあ……! 時を戻さなくても、ガイアが死ななかった世界や、クリフを助けられた世界はあるのか?」

『ああ。だが、その並行世界は限りのあるものだ。世界を維持するうえで、やがては自然淘汰され、選ばなかった未来はただのガラクタになる。ある一定以上、その中で時が進むことはない……。今君がいる、『アダムがクトゥルーの口内にもぐりこまなかった世界』も一時的なもの。いずれは時が断絶されて消え去るだろう』

「『正史』以外は切り捨てられてしまう。『時の改変』をしない限り……。そういうことだね」

『そうだ。でも……やっぱり、今の君にとっては大事なのは彼らなんだね。メルジューヌ……君が、時を超えてまでも選びたいものは……』

 そのヨグ・ソトースの言葉には痛みが感じられた。虹色の球体も少し、発光が弱まったように見える。

「ごめん……そう。それが、今の俺の願いなんだ」

 今ならはっきりと言える。何にも臆することなく……魂の希求のままの願いを。

『謝る必要なんてないよ。それでこそ君だ。ぼくが世界を壊して無限の輪廻を課した魂だというのに……君はどんなに掴もうとしてもすり抜けていく。だからこそ……いいんだ。永久に掴めないからこそ、いつまでも見つめていられる』

 果てしない悲しみと憧憬が入り混じった声が響き、虹の海の中に溶け込んでいくようだった。

「どうして俺を……メルジューヌをそうまでして求めるんだ? 一万年もの時を超えて……」

『誰かを愛し続けるのに、理由なんて必要かい? 一万年経った今もなお、愛おしくてたまらない。君の魂がようやっと輪廻の糸に辿り着いたときの歓喜が、想像できる……?』

 その声は高揚し、訴えかける強さを持っていた。

 指一本すら、触れることができないのに。

 姿形もなく、どこからか見つめられているだけなのに。

 その切なる想いは恐ろしくも、確かに伝わってくる。ちくりと胸が痛んだ。

 この神の想いに応えられないことが、ひどく悲しく感じる。

 一度応えてしまえばきっと……命どころか世界も、大切なものも、何もかも失ってしまうだろう。

 だが、ヨグ・ソトースはメルジューヌが振り返ることはおろか、憐みすらも求めていない。

 ただ、見つめ続けるということ……。メルジューヌの魂が存在し、絶えず無限に生き続けること……。それだけを求めているのだ。

 そのために、記憶を殺して世界を壊したのだから。

『でも、そろそろお別れだ。君は確かに『銀の鍵』を掴んだ。そしてぼくの受肉結晶は十分培養された……。完全体ではないから限界はあるが、『時の改変』で、望む時間まで戻ればいい』

 ついに、この時が来た。だがふとアダムは疑問を口にする。

「だけど、待ってくれ。俺の記憶はどうなる?」

『『時の改変』で戻っても、君は現在の記憶を保持したままだ。だが、ほかの人たちは違う。君がどうするか、だね。誰にどれぐらい、いきさつを話すかどうかは君次第だ』

「わかった。記憶が残っているなら、よかったよ。今度はちゃんと、全部覚えておきたい。自分の罪も、弱さも、みんなの悲しみも……」

『せっかく過去に戻るんだ。そんなにも自分をいじめないで、メルジューヌ。十分、頑張ったじゃないか』

「そんなことない! だって俺は……失敗ばっかりしてきた!! 弟だって見捨てて、ガイアも……目の前で死なせたんだ!」

 そう簡単に人は変われない。自分は弱い……矛盾ばっかりだ。

 戻ったところでうまくいくかどうかなんてわからない。

 クリフの絶望を救えるか、ガイアを死なせずに済むか……。

 誰も取りこぼさないように生きるには一体どうすればいいのか、わからない。

 だけど……その答えと最善の結果は、自分でつかみ取るしかないのだ。

 その現実だけが、目の前に提示されている。

『違うよ? 君はこれまでだって、できうる限り最善の道を選んでいるんだ。その証拠に、こんなところまでたどり着いたじゃないか』

 ヨグ・ソトースの声には優しさと同時に、アダムの心を奮い立たせようとする強さがあった。

『だから大丈夫。自分を信じて』

『でも……! ヨグ。君は、俺に甘すぎだよ……』

『いいでしょう? ぼくぐらいは君を甘やかしても。怖がってもいい。泣いたっていいんだよ……メルジューヌ』

 アダムの目から涙があふれる。

「……うっ……うぅっ……!!」

 嗚咽を抑えきれず、アダムは自分が救えなかった全てと、犠牲にした全てを想った。ヨグ・ソトースは優しく子どもをあやすように言う。

『だから、最後だけはぼくの中で眠って……。君の魂が無限の輪廻を超えた果てに、疲れて眠りにつくその時まで……僕は君を永久に見つめ続ける』

 その愛はどこまでも深い神の慈悲でありながら、底恐ろしかった。

 ヨグ・ソトースの視線と無限に聞こえ続ける呼び声は永久に自分から剥がされることはない。

 何度輪廻を繰り替えそうとも、どこまでも遠く離れていようとも。

 これが……地上の神々と世界を殺した、もう一人の創生神に愛されるということなのだ。

『答えはいらない……。メルジューヌ。いや、アダム……準備はいい?』

「ああ……」

 アダムは『銀の鍵』を改めて掲げ、叫ぶ。

「時の神、ヨグ・ソトース! 俺は『時の改変』を望む! 戻してくれ、二年前のクリフの誕生日……俺が、大事な約束を違えてしまった日に!!」

 あの日、ドラゴンと戦う前に父上にちゃんと伝えるんだ。そして鍵をもらって、クリフを解放する!

 もう、優先順位を間違えたりなんてしない。

 それからどうなるかはわからない。……だが、戻ってみるしかない。

 一つずつでいい……正しいことを、選びなおすんだ!

『わかったよ。アダム……。では、新たな世界で会おう。忘れないで。ぼくは、すべての時間軸、すべての次元の君を見つめ続けていると……』

 掲げた『銀の鍵』が強く発光する。そして……周囲の虹色の世界が高速で流れていく。気づくと、体が宙に浮き、そのまま早戻しで後退させられるような感覚に陥った。

 流れていく……ひたすらに後退しながら。すべての後悔と、罪すらも、共に……。

 アダムは目を閉じ、決意と共にその流れへ身を任せた。

 ………………。

 ………………。

 ………………。

 ………………。

 二年前、二月六日――。

「アダム王子! コランド山にて繭が割れ、巨大なドラゴンの魔物が出現しました!」

「ドラゴン!? 以前、千人を殺した魔物だな! すぐに向かう!」

 城で報告を受けたアダムは急ぎ、武装を整える。魔物にとってはいかなる武器も効かない、攻撃は鎧を貫通してくるとわかりながらも、最大限の防備を行うしかない。

 早く、皆を助けないと……! 正しき王子として!

 ……だが、そのとき、アダムの頭の中に一瞬虹色の閃光が走った。

『違う! その前に、やることがあるはずだ! 彼との約束を、守らなきゃ……!』

「!? 声……俺の?」

 『これ』は……一体なんだ?

 アダムはどこからか、違う『自分』が入ってきたような感覚に身を捉えられた。見知らぬ光景がいくつも見える。首にはめられた不思議な首輪。

 牢獄に閉じ込められていたはずのクリフが王子の姿となって、どこか悲しい目を向けながら自分に命令をする姿。

 アダムが倒せないはずの魔物を相手取り、必死で戦う姿。

 そして、愛する少女ガイアが口づけのあとに死んでいった光景……。

 神話物語の挿絵でしか見たことのない、触手の化け物のような邪神……いや、創生神クトゥルー。虹色の溶鉱炉で、三叉槍を振り回し、金色こんじきの善神と共に戦った記憶……。

 それらが、どんどん脳内に入りこんでいく。アダムはただ困惑し、これを見せているであろう『何か』に問いかける。

「これは……俺の未来なのか? 一体どういうことだ?」

『ああ、これから『俺たち』が変える未来だ! この道を進まずに、救えなかったみんなを救うために!!』

 アダムは声の主が誰かを理解する。

 これは、『未来から来た自分』の声だ。そしてその声が、頭の中に入り込み、徐々に一つになっていくのを感じる。

 不思議とそれはまったく恐ろしくなかった。当然のように感じる。

「俺に……できるかな? 何を大事にすればいいかもわからないのに」

『大丈夫……俺たちならできる。未来でいろんなものを知ったから! 今度は、迷ったりしない!』

 その言葉は、アダムの意識に不思議な納得を与えた。

 きっと、そうなのだろう……。未来を見てきた自分の言葉は力強く、『よき王子』であろうとも、『よき息子』であろうともしていない。

 ただまっすぐ……善悪など通り越し、自分の守りたいものへと手を伸ばしている。

頭の中では虹色のビジョンのなか、もう一人の自分が強い意志を持った瞳でただまっすぐこちらを見つめている。

 アダムは呆然とつぶやいた。

「ああ、そうか。『君』はずっと、俺が……なりたくてもなれなかった自分なんだ。未来の俺は、変われたんだね? ちゃんと、ほしいものを『選べる』ように。真っ正面から、戦えるように……」

 未来から来た自分が、アダムに向かってただ訴えかける。

『俺に向かって必死で伸ばされている手がある! 今なら遅くないっ!! 全部、間に合わせるんだ!』

 『彼』……未来を見てきた俺になら、選択を……そしてこれから掴むべき、よりよき未来を託せる。

 自分の意思を……あの残虐で悲しくありながらも、愛にあふれた未来を経た記憶があるのだから。

 早く、クリフを……助けなきゃ。クトゥルーとあんな恐ろしい賭けをさせられる前に! 絶望した彼が      自己存在の消失を願ってしまう前に!

 だってクリフは、俺の……たった一人の大事な弟なんだ。

 そのとき、アダムの中に未来から来たアダムの記憶と意識が完全に入り込む。

 それらは美しく符合するように重なり合い、ただ一つの意識……記憶として統合された。

 アダムは立ち尽くしながら、ただ前を見据えた。

 記憶の奔流に脳が、体が……いまだに戸惑いを起こしている。

 だが、これからすべきことはもうすでに分かっていた。

「アダム……王子……? どうなさったのです? 沈黙されて」

 家臣の……宰相ヴィードがどこか恐れるような表情でアダムを見ながら聞いた。先刻アダムに流れた奇妙な沈黙を、本能的に恐れたのだろう。

 アダムは深呼吸をする。そして、決意を新たに言い放った。

「すまない、ヴィ―ド! 俺には……皆を救う前に、やるべきところがある! 弟のクリフとの約束を果たさなくては!!!」

 アダムはそう言って駆け出していく。

「あっ……、アダム王子!!!」

一瞬も立ち止まる事もなく、息を切らしながら父が魔脳との対話でこもり続けている塔を目指した。

 早く、早く……クリフの牢獄の鍵を!

 走っている間、記憶が混濁して、頭がやや痛み、めまいがする。激しい混乱、恐れ、悲しみ、不安。すべてがないまぜになったものが襲ってきて、今にもつぶれそうになる。

意識が統合されたとはいえ、人間の記憶や心はどうにも簡単ではないらしい。現在、そして見てきた未来が……混ざりあうことに明らかに困惑している。

始まったばかりなのに『これ』だなんて。

 望む未来を構築するのはきっと、簡単ではないだろう。

 ただ、一つだけ言えることは……

「俺は、すべてをあきらめない!! 決して……!」

 やがて辿り着いた、寂しい塔の長い階段をひたすらに賭け上がっていく。

 だが……ふと背後に気配を感じた。

「アダム王子。思わず心配でついてきてしまいました」

 さっき聞いたばかりの声だ。宰相ヴィ―ド……。

 アダムは思わず、振り返った。なぜ? 足音すら聞こえなかったのに。

 だが、そこに立っていたのは……。

「おっと。こんなときは振り返ったらあかんお約束やで? ……正しき王子様」

「あなたは、楊炎龍ヨウ・エンロン……!?」

 竜玉公国の皇帝……いつしか神話の語り部としてアダムの前に現れた、長い黒髪をところどころ編んで流した異様に美しい男。

 丸眼鏡の奥の金色の瞳が妖しく光る。

「ある『未来』では語りの清聴おおきに。それと……『時の改変』の成功、心より祝い奉る」

「な、なぜ……それを……? ヴィ―ドの声色を使ったのか?」

「言うたやろ? 朕はあらゆるものに変幻自在。声ぐらい、なんともないわ。姿は面倒で省略したけどなぁ?」

 二十五、六歳程度に見える容貌ではあるが、その男の言葉と笑みには底知れない含みと老獪さがあった。

 男は煙管キセルを取り出し火をつけ、軽くくわえて吸い込み……長く息を吐いた。むせるほどに甘く芳しく、異国の空気をそのまま運んできたような香りが漂う。

「魔香にはいろんな使い道があってなぁ。昔は戦乱で積みあげられた死体の腐臭を隠すために用いられた。そのせいで生者どもは中毒者まみれになったんやけど……それはまた別の話。あるとき……亡国の大皇帝の墓に忍び込んだ、名もなき墓荒しが気づいた。魔香は偶発的に、『死者』のいた時間に人をいざなうことがあると」

 アダムはふと、ヴィ―ドのことを思い出す。

 ヴィ―ドは、自分が見た過去にもいた。そうだ、あの日、最初の討伐を終えたあとに話したはずだ。

「もちろん、どこの時間に飛ぶかは無作為ランダム。しかも『正史』の時間にしか飛ばれへん。せやけどもし……魔香で紐づける死者の数が多くなれば? 自分と深くかかわった死者なら? より正確に照準を合わせることができるんや。失敗という失敗を何千回と重ねてきたけどな」

 男が何を伝えようとしているのか、アダムは悟った。だが、そんなことがありえるのか?

「つまり、あなたも未来から来たのか……? おそらくあなたがよく知る死者、父の時間をたどって」

 だが、何のために? そしてなぜこのタイミングに合わせることができたんだ?

「『どこかの未来』で朕が神話語りをしたあの日、魔香を嗅いだやろ? アダム王子の深奥に眠る父、アーサーの記憶を魔香に覚えさせて、より『死者の時間』に飛ぶための精度を高めた。そんで、ちょうどまあ都合よく『時の改変』が起こったから、そこに便乗させてもろたんや。『正史』を塗り替える好機やからな」

「で、でも……! 『時の改変』は『銀の鍵』を持った俺にだけ許されるはずだ」

「誤解しとるようやなぁ? 朕はあくまで、重なった『偶然』を利用しただけ……。『時の改変』がなされた次元に『たまたま』戻れて幸運やったわ。まさに漁夫の利やけど」

 あの日、神話を教えたのも何もかも、計画のうちだったのか? 『時の改変』に便乗するために……?

「あなたの目的はなんだ?」

「せやなぁ……。ほな、『そのうちの一つ』は話したろか。あとは煙に巻かせてもらう」

 決して、『あと』の理由を語る事はしない。

 その意思を明確に感じさせながらも、男は低く滑らかなバリトンの声を空恐ろしくも響かせた。

「アザトースの侵攻下において、我が竜玉公国を支えるは奴の眷属である魔物たちの肉体から生成した軍事用霊獣キメラ。それを動かす力となるのは死者の魂や。自国の死霊は自国防衛分だけでカツカツでなぁ。対外輸出用キメラを増やして国を富ませるためには、自国以外の死者がもっと必要なんや。神と時を繋げた半神の死霊ならなお、使い勝手がええ」

「ま、まさか……!!」

 炎龍は再び、口に煙管キセルをくわえる。ゆっくりと筒から煙が立ち上がり……それはあろうことか、大きな龍の形となっていった。

「可愛い可愛いクリフちゃん……。世にも美しく歪んだあの子が、兄弟の愛やなんやで、いい子ちゃんになってしもたら困るんや」

 その言葉には皮肉と……奥底に潜む強い意志が感じられた。

「それが、あなたに何の関係がある!?」

 何よりも、なぜ……自分がクリフを救いに行くと知っているんだ?

 炎龍はアダムの中に浮かんだ疑問には当然構わず、質問に対する答えを返した。

「我が国の実入りが減る。ルルイエと竜玉公国は軍需同盟にて一心同体。古代東方魔術を応用した溶鉱炉で受肉結晶を培養する技術を教えるかわりに、あの中で溶けた半神たちの死霊を我らに捧げると盟約を交わしとるからなぁ。バカでかい国を養おうと思たら、軍需で儲けるしかないんや」

 この男がクリフと協力関係にあったことはわかった。だが、なぜここまで知っているのだ? クリフを俺が見捨てたことも、彼がしゃべるとは思えない……。

「国を富ませるため? そんなことのために、クリフを利用するのか!? たとえ、ほかの理由があったとしても……許せない!」

「飢えたことないガキにはわからんか。朕は凡夫なれども、大皇帝の最後の墓守。竜玉公国の維持を代償に末裔、炎龍エンロンの名を得た。どないな手段を使ってでも、龍の眠る霊廟と広大な国家を守り抜く……!」

 アダムは身構える。キセルの煙から顕現した龍がただ、こちらをにらんでいる。灰と煙から成るその姿には計り知れない威厳があった。龍はどんどん巨大化していく。

 ただの使い魔などではない……これは、一体?

「かつて地上の神々が滅んだ際に、龍神であった大皇帝もまた命を落とした。そして、忘れ去られた霊廟の中、志を継ぐ者を待ち続けた。これは、かの龍神の『嘆きの残滓ラメント』……」

 過去に戻った以上、三叉槍はない。

 だが、アダムは帯刀していた剣を抜き去った。

 相手が龍を操る半神に近い存在だったとしても、傷を負わせて、どうにか逃げ切るしかない……。龍には太刀打ちできなかったとしても、この男になら、届くはずだ。

「悪いが……俺にはもう、立ち止まってる暇はないんだ!!」

「そうか、それは残念」

 次の瞬間、龍が周囲全てを煙に巻いた。

 何も、見えない!? あの男はどこだ……!

 目をこらそうとするアダムにかまわず、煙の龍は鎌首をもたげ、アダムに向かってくる。

 だが、アダムは剣を振るい、階段を滑り落ちる勢いで炎龍に斬り込む。

 ……手ごたえがあった。炎龍の腕をかすったのだと気づく。

「へえ? 朕にわずかでも傷をつけるとは。ひ弱やと思とったが、やるやないか」

「大事な物を取りこぼさないためだ! もう二度と!」

「その心意気、眩しいなぁ。だからこそ、伏しがいがあるというもの!」

 煙で視界がふさがれる中、アダムは必死で戦った。

 クリフを救う。そして、ガイアがあんな辛い目に遭わなくて済むように! 自分はどうなってもいい、だから……!

「誰が立ちふさがったとしても、ここで諦めるわけにはいかないんだっ!!!」

「なんや、英雄殿アーサーそっくりやないか。その薄っぺらい正義感!!」

 再び、煙の龍が顎をもたげ、襲ってくる。

 アダムは攻撃をかわそうと身を反らした。

 だが、ふと背後にせまる気配を感じた。あまりの恐怖から、ぞっと全身の血が冷えていく。

「背中が甘いところもなぁ? 戦地で幾度、助けてやったことか」

 ズチャリ……。

 抵抗する間もなく、一瞬にして炎龍の短剣レイピアが背中からアダムの腹を貫通して突き刺した。

「あっ……ぐああああああ!」

 アダムの血でべっとりと汚れた短剣レイピアを引き抜き、炎龍は平坦な口ぶりで言った。

「甘いねん、前ばっかり見るからや。さあ、次は心臓を……」

「ダメ、だ……!! 俺は、クリフを……助けないと……! あの子はずっと、闇の中にいるんだ……!!!! たったひとりで……」

 炎龍は眼鏡の奥の、金色の目をわずかに見開く。明らかな動揺がその中にはあった。

「……お前のことを、待っとるんか? あの子は……」

「ああ! ずっと待ってる! でも、もう一つの未来では……助けられなかったんだ……」

 炎龍はしばらく静止していた。そしてその手をわずかに震わせ……短剣を下ろした。

「気が変わった……殺しはせん。『本懐』は果たしたことやしな。可愛いクリフちゃんに誕生祝いや。あの子を救いにたどり着けるかどうかは、お前次第」

「な……」

 炎龍の表情から一瞬、冷酷な皇帝の仮面が剥がれ落ちる。

「ヘレナと同じ、あの顔にはどうにも弱い。嫌になるわ……」

「あなたは、一体……正妃ヘレナとは、どういう……?」

「ほら。はよ逃げろ。また気が変わるかもしれへんで?」

 アダムは腹を抑えながら、逃げるようにらせん階段を駆け上っていく。父に……父に鍵をもらって、クリフを助けないと!!

「まあ出血量と塗った毒で、十五分と意識がもたんやろうけどな……。せいぜい気張りや?」

 炎龍は悪びれる事もなくそう呟き、去りゆくアダムを見送った。

 そして懐の中に入れたチェスの駒……黒のクイーンを取り出し、どこか切なげに見つめた。

「ヘレナ……お前の堕ちた地獄に一歩、足がけしたで? もうすぐ、「あがり」や」

 彼は美丈夫の容貌にはどこかアンバランスな、ごつごつと骨ばった大きな手で駒を握り締めた。

 そのとき、窓一つない薄暗い塔の中に流れるはずのない風が一筋吹き、喪われた龍神の『嘆きの残滓(ラメント)』を背負う皇帝の長い髪を慰撫するように揺らした。

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