2章18話(36話)
クトゥルーの体内……。
ひゅるるるるる………!!!!
体が一切言うことを聞かないまま、下降のスピードはどんどん速くなっていく。
『我は決して許さぬ! 愛で世界を殺させた『メルジューヌ』の魂よ……』
体内の中でも、確かに声は聞こえている。だが、不思議と違和感があった。その声は創生神クトゥルーの禍々しく、全ての狂気の怨嗟を煮詰めたようなものよりも、やや……澄んだ声に変わっていったからだ。
一体、このままどこへ落ちていくのだろう?
そもそも、神の体内とは一体何なのだろうか? 暗い中に臓器や血管、肉のようなものは見えない。ただ……深い闇だけが無限に広がっている。
口の中は肉色だったが、それを通り超えたあとにあったものは深い奈落と、時折うごめく触手だけだ。触手の洞穴……そう表現する以外に思い付かない。
そのとき、急に落ちていくスピードが鈍くなる。
「なっ……!! うわああああ!!!」
アダムは『どこか』にしりもちをついた。着地、した!? でも、どこに……? 体内の果て……?
そう思った瞬間、足元をどこからか生えてきた触手にからめとられる。
「!!!」
落ちたばかりで油断していた! 三叉槍を振り回し、絡みついた触手を斬ろうとするが、びくともしない。
「くそっ! 離れろ!!」
『無駄だ。ここは我の体内。我が夢見し世界の記憶が支配する領域――。お前の思い通りになることなど何一つない。お前は今から……『決して動けぬ』。』
その声はどこか、近くから聞こえた。やはり、外で聞いたクトゥルーの声より少し高く澄んでいる。アダムは変わらず身をよじって触手から逃れようと試みたが、体は一切びくとも動かない。
「クトゥルー!? 何をする気だ!!」
返事はない。だがその代わりに、暗い体内にぽつんと赤い光が灯った。なんだ……?
その光には見覚えがある。……そう、まるでノーデンスのようだ。
間違いない、これは『神性』の光……。だが、あまりにも禍々しい……!
赤い光球はどんどん大きくなっていき、ある程度の大きさとなったときにはじけた。はじけた光の跡には……薄赤い光を全身にまとった、青白い肌の少年が立っていた。
長い黒紫の髪をたゆたわせた、琥珀色の瞳の少年はぞっとするような笑みを浮かべる。黒いローブを纏ったその姿は、異常なまでに整った彼の外見とは相反して、底知れぬ老獪さまでをも醸し出している。
そして髪の毛に見えているものは、よく見れば一本一本が細い触手だと気づく。
そのうちの二本はまるで角のように頭上に立っていた。
彼は、『クトゥルー』だ……。
そう、一瞬にして察した。
触手が生えた異形の巨体神とは似ても似つかない。だが、姿が変わろうが、身にまとう圧倒的な威厳が、狂気が、さきほどまで対峙していた創生神と符合する。そして何より、鈍い琥珀色の瞳は、クトゥルーの触手に埋もれた鋭い瞳と全く同じ輝きを放っていた。
『愚かな人間が……察したのか? そう、我は夢見の創生神クトゥルー。これは精神体だ』
「なぜ、人の姿を?」
『我はお前達によって構成されている存在。外界に顕現した姿は、お前たちが神話から想像したもの……そしてこの精神体は……』
ふと、アダムは握りしめたままの槍が震えるのを感じた。
そして深い記憶の底に眠った何かを思い出す。冷たく恐ろし気な表情を浮かべた顔。
だがそれは、いつしか残響地域の湖で見た……美しい青年の姿をしたかつてのノーデンスと重なる。
あのノーデンスよりもずっと幼いが……。
「まさか、その顔……。ノーデンス……?」
クトゥルーはどこか、いまいましげに顔をゆがめる。
『奴の利き腕を体内に取り込んで以来、我が精神体になぜか、奴の容貌が反映された。好き好んでと言うわけではない』
槍の表面が一瞬震えた気がする。ノーデンスが当時を思い出し、恐怖しているのだろう。どうしていいかわからないが、思わず、槍の表面をさすった。いつも大事な時に背中を、心を支えてくれたノーデンスが、ひどく非力に見える。
クトゥルーは残虐な笑みを浮かべて続ける。
『ノーデンス、今なお我の記憶に怯えるか? 無理もない……地上の神々は体の一部を損失すれば、神性と人々の中にある、自身への崇敬の記憶を損なう。実際、お前は我を封印した後、人々から賞賛されることも感謝されることもなく、忘れ去られた。ただ、ひっそりと錆びついた神殿で死を待ったのだから』
「そう、だったのか……? ノーデンス?」
あまりにもひどい。あのとき、残響地域で見た、老人のような後ろ姿はそれをも憂いていたのだ。
『ふふ……創られた善神ごときが、生意気にも歯向かうからだ。我もまた、ヨグ・ソトースに全ての憎しみを押し付けられたがゆえに、悪に堕ちた創生神に過ぎんがな』
そのクトゥルーの言葉にはどこか、憎しみと言うよりも哀惜があった。仇敵でありながらも、ノーデンスとクトゥルーの間には、奇妙な理解と連帯があった。
『ま、言われっぱなしもしゃくじゃ。アダムを見習って、逃げるのも大概にするかの~……。よいしょっと!』
その言葉と同時に、槍が大きな光を放つ……。
次の瞬間、三叉槍のすぐそばに、金の光を纏った、隻腕の美丈夫が立っていた。残響地域の湖で見た姿と同じだ。目の前のクトゥルーが青年に成長すれば、このような外見になるのだろうと想像がつく。だが、その瞳の優しさと力強さは何度も語り掛けてきたノーデンスに違わなかった。
「ノーデンス!? 姿を……現せられるのか?」
『ここはクトゥルーの集合記憶領域ゆえ、精神体が可視化されるのじゃ。ああ、すまん。あまりのイケメンぶりにびびらせてしもうたか?』
どこかいたずらっぽく、ノーデンスは妖艶に笑う。
集合記憶領域……? アダムはその言葉と同時に周囲を見渡した。真っ暗闇のなかではあるが、目をこらせば……そこには無数の宙に浮いたモニターのようなものが存在した。一見どれも砂嵐のような映像を映し出しているかと思えば、目を凝らしてみると誰かと誰かの物語を映していると気づく。
どのモニターの映像も全て違う人物のものだ。笑ってハグをしあう男女、怒って家を出ていく青年……。息絶えた小さな犬を抱く子供……。ありとあらゆる人間の人生の『瞬間』が断続的かつ永久に再生され続けている。
「本当に、ここに全ての人の、時代の、土地の記憶が集積されているんだ……」
思わずつぶやいたアダムの言葉を遮るように、少年の姿のクトゥルーが目をかっと見開き、苛立ちを隠し切れずに口火を切った。
『くっ、忌々しいノーデンスよ!! 『嘆きの残滓』となり果ててもなお、我にその姿を見せるとは!!』
だが隣のノーデンスは肩をすくめて言い返す。
『ただの精神体相手に随分余裕がないではないか、クトゥルーよ。『嘆きの残滓』の儂ごときにキレてるどころではないぞ。今風に言うとアダムは儂とのコラボで、そこの『銀の鍵』を頂くつもりじゃ』
大して今風じゃない……やっぱりおじいちゃんだな。いや、そんなことを突っ込んでいる場合じゃない。
「そこ……!? 『銀の鍵』なんて、どこに……」
ノーデンスは虚空を指さす。指さされた先を追って大量のモニターが浮かび上がるその中で目をこらすと、そこは虚空ではなかった。ノーデンスが指さした先、あらゆるモニターが集合する最上部に、確かに銀に輝くものがあった。内部の黒紫の触手にがんじがらめにされた、『銀の鍵』だ。
クトゥルーは憎々し気に顔を歪めたまま、叫ぶ。
『『頂く』、だと!? 笑わせるな! 我はあの『銀の鍵』を決して渡さぬ! いや、『渡せぬ……』。憎しみを押し付けられた我に残された忌々しき使命は、世界の維持……。『時の改変』は、世界の崩壊を意味するのだからな!!』
「世界の崩壊!? それが、時の改変とどう関係するんだ?」
『メルジューヌの魂を持ちながら、お前はそんなことも理解できぬのか? やはり低俗な人の子だな』
アダムはクトゥルーの軽蔑の言葉の裏で、必死で情報の断片を組み合わせる。『時の改変』と世界の記憶……。過去に戻って、物事を書き換える。
そうなると、人の記憶もまた書き換わるだろう。大幅に。
「人々の記憶が書き換わることが、世界の崩壊につながるとでも?」
『世界を成り立たせるのは酸素、水、生命……? 笑わせるな、そんなものは建前にしか過ぎん! すべては、我ら神々が創生の時代より構築した記憶によって成り立つのだ』
アダムは思わず、半信半疑の感情と衝撃に震えた。思わず見上げたモニター全てに映る記憶たちを眺める。これが、世界の礎……?
『意外、とでも言いたげだな。確かに生命は表層的な現実によって生かされるもの。だが……お前達が立つ大地は紛れもなく、記憶と歴史によって成り立っている。我ら創生神がかつて一つであったころ、地上の神々をなぜ作ったと思う?』
『待て、クトゥルー! それを人間のアダムに考えさせるのは酷じゃ。代わりに儂が答えよう。地上の神々の存在意義……。それは、人々の記憶の礎となることじゃ』
ノーデンスの言う通り、アダムは混乱していた。容易には信じられないが、神々の言葉以外に、今根拠のあるものなど何もない。
『人間は思うとるより脆い存在じゃ。自分たちを構成した物語、つまりは神話のような大いなるルーツがなくては混乱し、自己存在に不安を感じて生きる意味を失ってしまう。善神であれ、路傍の道祖神であれ、我らの義務は変わらぬ。生きる事への不安と恐れを生じるがゆえに戦乱に走って自ら滅びに向かう人類にとっての共通記憶、根源的な礎となって、時にその道を諭すことじゃ。神工知能である魔脳マグダラを遺産として残したのは、神なき時代に混乱する人々への『答え』を用意するため……。だが、願いは叶わず、人々は七国戦争に身を投じてしまったがな』
ノーデンスは、最後の言葉を悲しげに言った。どこか、胸が痛む。
「世界の記憶がなければ、俺達は存在することもできない。そう言いたいのか?」
『己以外に関心のない人間には、想像がつかんだろうな。だが、これは紛れもない事実。時を戻し、出来事を改変して記憶を構築し直すことはこの世界への冒涜だ。しかし、ヨグ・ソトースはメルジューヌを愛してからというもの、彼女のために何度も時を戻し、我が維持する記憶と世界を壊して崩壊へと導いた……。メルジューヌがアダム、お前に生まれ変わったあともだ。お前は、『奇跡』を何度か見ただろう?』
奇跡……そうだ、王子だった頃、幾度も時が戻った瞬間があった。
『ヨグ・ソトースがお前への愛ゆえに時を戻すたびに、世界の記憶は狂って崩壊に向かうのだ。狂った事象への『帳尻合わせ』が発生し、見知らぬ誰かの記憶、そして人類に残された未来の時間を削っているからだ』
「なん……だって……!!」
『『時の改変』とは世界の記憶を殺し、未来を蝕むもの。数分や数秒戻すぐらいでは大して何も変わらぬ。しかし、ヨグ・ソトースの力もしくは『銀の鍵』で多大なるやり直しを行って出来事自体を大きく変えてしまえば、世界は確実に崩壊に向かう』
『時の改変』がそんな犠牲を孕んだ行為だとは知りようがなかった。だがアダムにある疑問が去来し、クトゥルーに思わず投げかける。
「で……でも、お前だって、クリフに人の記憶を改変させていたじゃないか! 世界の記憶なら、あれでもうとっくの昔に狂ってるんじゃ……!」
『あれは『一つ』とも数えるに足らん些細なことよ。『実際に起きた事象』が何も変わっていない以上、表面上の記憶の書き換えなど、ただの手品に過ぎん。それも……すべてはあやつを利用し、メルジューヌの魂をクリフに殺させ、ヨグ・ソトースと共鳴を高めたお前から『銀の鍵』を奪うための作戦の一つだった。我はすべて、クリフが『そう選択した』ように仕向けたがな……愛憎がより深まるように』
「クリフとの盟約を守る気なんて、最初からなかったのか? 最初から、そのためだけに利用したと……?」
クトゥルーは残虐に、だがどこか寂しげに笑いながら言う。
『当然だろう。憎むべき人間の約束など、なぜ守る価値があるのだ? 我はあやつを偽りの王にまつりたて、よい夢を見せてやった。真実の地位に得られなかった愛……そんなもの、まがい物が望むには分不相応。そうは思わんか?』
「何っ……!?」
アダムは体の奥の血が怒りとやるせなさで滾るのを感じた。自分に最後の望みを賭け、虹の海に身を投げたクリフの笑顔が頭をよぎる。
「ふざけるなっ! そんなの、酷すぎるっ!!! だったら、クリフは一体何のために……! それに……そんなことしなくたって、『銀の鍵』を俺から奪うだけならば簡単だっただろう! 瀕死だった俺から取り出せばよかったじゃないか!」
『それだけならばな。だが……あのときはクリフからお前への愛と憎しみが足りなかった。メルジューヌの魂が存在する限り、『銀の鍵』を取り出し、お前の肉体を殺したとしても、『銀の鍵』は転生を待つ別の個体の魂へと共に移りゆくだろう。我は『銀の鍵』そのものを消失させることはできぬ。また永い、永い時をかけて……メルジューヌの転生を待ち、今度こそ魂を殺す方法を探ることとなる。それまで、我はまた、この役目だけに縛られ……死ぬこともできず、永久に人々の記憶を、悪夢を見させられ続けるのだ……!! もう、これ以上は耐えられぬ!』
激しい怒り、そして絶望が、ただ一人、世界を維持してきた創生神の中に渦巻き、はじけてゆく。
『メルジューヌの魂を殺せぬなら、クトゥルーの『銀の鍵』を消失させられぬと言うならば、我の中で永遠に眠らせてやろう……お前という存在も、『銀の鍵』もな!』
「いやだ、俺は『時の改変』で、クリフを、ガイアを、みんなを救う! アザトースの侵攻にも負けない!」
『まだわからぬのか? 宇宙神アザトースがなぜこの星を標的にしたのか。それは……ヨグ・ソトースが自ら殺してしまったメルジューヌを蘇らせようと、幾度も時を戻した弊害だ!!』
「なん、だって……! 時を戻して、世界が崩壊に近づいたから……!?」
『そうだ。奴は何度も改変を繰り返してメルジューヌの魂だけを残すことに成功。永い時を超えてアダム、お前に彼女の魂が輪廻転生したのだ。そしてヨグ・ソトースはメルジューヌの魂が死なず、永遠に『輪廻し続ける』ように書き換えたのだ。世界を創生した神が、愛ごときに囚われ……世界を壊すとは愚かな事よ。ああ……言っておくが、アザトースの侵攻は仮に時を戻したところでもう変えられんぞ? あれは、世界の記憶を狂わせた結果の出来事だからな!!』
「じゃ、じゃあ……『時の改変』を行っても、世界には魔物が溢れるのか?」
突き付けられた事実は重くのしかかる。何より、多くの人々が命を落としたアザトースの侵攻は、すべてヨグ・ソトースがメルジューヌ……自分の魂を救おうとした結果だと考えると、激しい悔恨と恐怖が襲う。
自分が、いや……転生前のメルジューヌが世界に存在したから、皆は死んだ。クリフも、ガイアも、ヴァルトロも、アキリーズも……。
じゃあ、俺が……メルジューヌが生まれなければ……? みんな、平和に生きていられたんじゃないか? 誰も、悲しい思いも、痛い思いもせずに……。
『やめろアダム!! その責はお前が負うべきことではない! すべてはヨグ・ソトースという、狂気の時の神の悲嘆なる愛が起こしたこと。メルジューヌは争いを止めるために自らを犠牲にして死んだというのに、一方的に愛され、いまだその魂を輪廻の渦から眠らせてももらえぬ巫女を一体誰が責められようか……!!』
アダムはふと、桃色の髪をした少女が寂しげに笑う姿が脳裏に浮かんだ。
そして初めて、自分に向けられ続けたヨグ・ソトースの愛が底恐ろしくなった。
それは優しいものでもなんでもない。激しい執着だ。
彼女の魂……いや、俺の魂はヨグ・ソトースの手の中にいつまでもあるのだ。眠る事も許されず、その存在を見つめ続けるというためだけに。
『黙れ!! 眠れぬのは我も同じ……! さあ、アダム。我が体内に沈み込め。お前をここから永久に開放することはない。魂を殺せぬなら、壊せばいい。その寿命が尽きるまで……永久に我が記憶の底へ閉じ込めてやろう』
ふと、足をつけた場所が揺れる。いや、ゆっくりと沈み込むようだ。
「!? なっ……引きずり込まれる……!!」
『アダム!?』
ノーデンスは思わず残った腕でアダムの体を引き上げようとしたが、精神体では生身のアダムに触れられず、宙をかする。
『愚かな。精神体であるお前に何ができる。その三叉槍も、我の支配領域であるこの空間の中ではただの無意味な存在……お前が我を『創られた哀れな悪神』とみなす限りは何も斬れん!』
『くっ……このままでは、アダムが……!』
触手が絡まった足がどんどん、底へと沈んでいく。
『我が体内に取り込まれしお前はここで一生を終えるのだ。我と共に……人々の記憶の洪水に沈み込みながら……いずれ、その魂も終わらぬ永遠の日々に狂っていくことだろう』
「いや……だ……!」
だが、そのときノーデンスの精神体は筋肉質な片腕を挙げ、ぼりぼりと頭をかく。
そして言った。
『ま、仕方ないか~。儂も非力じゃなあ、すまんのう、アダム!』
「ええっ!? 何それ!!」
『どうにもできないもんはしょうがないじゃろ。どのみちクトゥルーは殺せん。なんせ殺せば、世界がぶっこわれておしまいじゃからな!』
ノーデンスの言葉から、ふざけている様子が消え去った。
『それで、クトゥルー。そなたは望まずしてヨグ・ソトースに憎しみを植え付けられた悪神に相違ないな?』
『今更、なんの問答だ? 答えるつもりはない』
『ならば儂が解釈しよう。今の答えは紛れもない『肯定』じゃ』
ノーデンスは一体何をする気だ? この間にも、アダムの体はどんどん沈んでいく……。
そのたびに、頭の中にわずかな映像がよぎる。緑色のリボン。ああ、ガイアの……? だが、それが白く塗りつぶされていく。
『アダム、我が深奥に沈めば、お前の記憶は消えていく。安心するがいい。やがて『辛い』とも思わなくなる……自分をなくしていくのだからな』
「い、いや……だ!! ガイアのことも、クリフにしてしまったことも……みんなのことも、俺は忘れちゃいけない……!!」
『いいのか? お前が『時の改変』を望めばまた、誰かが犠牲になるのだぞ。大勢を優先し、一人の弟を犠牲にしたお前が、今度はさらなる犠牲を産むのだ。そんなことが、許されるとでも……?』
アダムは思わず押し黙る。頭の中で、ガイアが緑の色のリボンを笑顔で巻きなおしながら、にこりと笑う。
その姿が……後ろに見えていた空が、アダムが槍を刺して上った木が、やがて真っ白になっていく。
『アダム、惑わされるでない!!』
ノーデンスの声が、遠く感じる。
あれ……俺はこの娘と一体、どこで会ったんだろう? このリボンは、なん、だっけ……?
そのとき、握りしめた槍にしびれるような電流が走る。
バチバチイッ!! とそれは激しい音を立てて発光した。
「アキリーズの……建御雷の雷光……?」
まるでそれは、ガイアを想う剣士の気持ちが発露したかのようだった。
アダムは我に返り、沈んでいく体を必死にもがいて抵抗しようとする。だが、体は絶えず引き込まれ、胴体までがクトゥルーの底なしの体内に沈んでいく。
ノーデンスは豪快に笑いながら褒める。
『よう踏ん張った、アダム! 嘆きの残滓たちもどうやら、そなたの味方のようじゃな』
『時間の問題だ。そやつは我の記憶の糧となるのみ』
『おお、そうか! ならば、急がんと!!』
ノーデンスはそう宣言し、アダムの方を一瞬見た。そして声を出さずにわずかに口を動かす。
『かまえろ』
アダムはその無言の言葉に瞬きを返し、三叉槍を握り締める。ノーデンスはクトゥルーに向き直って告げる。
『クトゥルーよ……やっとわかった。儂は少しばかり、誤解をしとったようじゃ。そう、そなたに一切罪はない……。憎しみを植え付けられ、ただ世界を維持するようにと運命づけられた哀れな創生神。それがそなたじゃ』
『たわごとを! 今更なんだと言うのだ? 貴様に討伐され、封印され……ただ、世界の記憶を、人々の怨嗟を身に受けながら夢を見続けた我の苦しみも理解せずに!』
『ああ、わからぬな! 儂は神なれども凡夫。大国主(テラ=エンリンク)から連なる慈悲の心で成り立つ模造の善神に過ぎん! ならば、世界が滅びに向かおうと、あくまでも儂は務めに徹し……我が光の槍でそなたの『憎しみ』そのものを殺し、クトゥル―、そなたと切り離す!!!!』
そのとき、槍を持つ手に、力が加わった。……ノーデンスの精神体が沈みゆくアダムに寄り添い、共に槍を持っていてくれているのだ。
暖かく、大きな手のひらが重なっているのを感じる。ノーデンスは叫ぶ。
『アダム、触手を斬るぞ!!』
「ああっ!!!」
アダムは力任せに槍を振るい、足元を拘束していた触手を、そして、体にまとわりつく触手のすべてを切り離していく。
『な、なにをする!! 我が体内の触手を斬るなど!』
『ものは思いようが肝心。この体内で育った触手はヨグ・ソトースに押し付けられた憎しみそのもの。そうじゃろう!!?』
触手が斬れた途端、底なし沼のようなクトゥルーの体内にとらわれていた体は徐々に浮き上がっていく。あと少しで……クトゥルーと同じ地平に再び立てる!
そして、この状況下にもかかわらず、ノーデンスの手のぬくもりは、アダムに無限の温かさと安らぎを与えた。
ああ……世界にこんなにも優しいものがあったなんて。
自然と流れそうになる涙で目頭が熱くなってくる。それほどまでに、その包み込むようなノーデンスの温かさは優しく、アダムの心にあるすべての寂しさと悲しみを満たして癒した。
紛れもなく『これ』は……神の無償の愛だ。
何を要求することもなく、人の罪や恐怖を責めることも罰することもなく、ただ見守り……そこに『在り続けてくれる』優しさ。
それと同時にアダムは直感した。この優しい温もりはもうじき、自分から離れていくのだと。
未来が見えるわけでもないのに、その感覚は頭の先にふっと浮かんで、消えていった。アダムは少しだけ涙声で言う。
「ノーデンス、ありがとう」
『まだ儂、何もしとらんが? キメッキメにやるのはこのあとじゃ!』
「ずっと、俺のそばにいてくれたじゃないか。都合よく助けを求めてばかりの俺を、ただの一度も見捨てなかった」
『……あーあ。別れを嗅ぎ取ったか? 勘がいいのう……。だが、これはよきこと。おそらく『成功』するということじゃからな! さあ、最後まで気を抜くな!』
「ああ……わかってる!」
その会話の間にもアダムの体は浮かび上がっていく。
クトゥルーは冷酷な表情をわずかに崩し、焦りを浮かべていた。
『貴様ら、一体何をする気だ? 体内の触手を斬ったとて、いくらでも再生する! そしてこの精神体に攻撃は届かんぞ!』
『クトゥルーよ。そなたはなぜ儂の顔にその触手の髪をくっつけておるのじゃ? 正直に言っていいぞ? それなりに儂のイケメンぶりが気に入っとるんじゃろ?』
『たわけたことを!』
『聞くまでもない。そなたは元々自分の顔を持たぬ神じゃ。人々が荒ぶる創生神に抱く恐怖そのもの、そして植え付けられた憎しみがどんどん具現化し、いつしかあのおどろおどろしい巨体になっていったのだからな。なぁ、そなたも嫌いなんじゃろ……? 憎まれ役と同様に、勝手に押し付けられたその見た目が。だから精神体で儂の姿を借りようしたが、その触手の髪だけは切り離すことができなかった……。精神体にくっついとるということはつまり、それは全ての憎しみの核じゃ!』
クトゥルーは間髪入れず、ノーデンスの言葉を否定する。だが、その様子には明らかな苛立ちが含まれていた。彼自身も理解できないような葛藤がその中には感じられた。
『笑止! 下賤な推察で我を計るな! 我はクトゥルー!! 全ての記憶を支配せし創生神である!』
アダムはノーデンスたちの一連の会話から、やるべきことを理解した。
――狙うはあの、触手の髪だ! ノーデンスはクトゥルーの気を引くためか、語りかけ続ける。
『ああ。もっと、早く気づいてやれればのう。そなたも、儂も、少しは楽だったかもしれん』
『許さぬ……! 我をこれ以上冒涜しようものなら、永久の苦しみを与える!!』
クトゥルーは触手を体内の触手を四方八方から伸ばし、アダムの肉を貫かんとする。だが、アダムは三叉槍で闇色の触手を無我夢中に切り裂きながら進んでいく。
『おおアダム、槍さばきが上達したのう! やっぱ、何事も経験じゃなぁ』
『今は……ほめてる場合じゃないよっ!』
『すまんのう。どうにも名残惜しいんじゃ。なんせ、そなたは儂のお気に入りじゃからな』
善神はどこかさびしげに、愛情深い軽口を叩き続ける。ああ、やっぱり……。
俺は、未来を変えに行くだろう。今度はもう何の迷いもなく。
たとえ、未来に代償があろうとも……。
それをノーデンスは、善悪も何もかも超えて、許してくれているのだ。
過去へ戻り、全てが巻き戻った世界でノーデンスとまた会えるかどうかもわからない。そう思うと、寂しくてたまらなかった。
クトゥルーはひるまずに肉薄してくるアダムに向かい、手のひらを掲げる。すると、体内の触手が一気にアダム達に向かってくる。
「はあああ!!」
その触手の群れもまた、アダムは槍を使ってノーデンスと共に斬りさばいていく。
『生意気な! 認識の違いなどというもので、我が触手を斬るなど!!』
『まあ、そないにショック受けんでも、そなたの神性は十分すごいぞ? でもなぁ、くっついた憎しみがカスってことじゃ。だからっ、儂みたいな嘆きの残滓ごときにやられるんじゃよっ! 知らんけどっ!』
そうしてついに、二人はクトゥルーの精神体の前までたどり着いた。
『何をする気だ? 我は精神体……攻撃できるはずなどない!』
しかしアダム、そしてノーデンスの精神体は共に三叉槍を構え、クトゥルーに向かって走って行く。
「クトゥルー、お前を戒め続ける憎しみを断ち切る! 善神ノーデンスと共に!!!」
ザッ……!!!
その瞬間、三叉槍が鮮やかな弧を描きながら、クトゥル―の髪に向かって空を切った。
バサッ…………。
すると……半透明に透ける触手の長い黒紫の髪が、斬られた。触手の断面が、少年の姿をしたクトゥルーの首元で揺れている。
目を大きく見開き、クトゥル―は動揺を隠せずにつぶやく。
『な、なぜ……だ……』
戸惑うクトゥルーをあやすようにノーデンスは言う。
『神の精神体を斬るなど、普通はできん。だが、儂も『嘆きの残滓』とはいえ神の精神体……。精神体同士ならば、攻撃が届く! 早い話、儂の加護をアダムに与えてなんとかしたっちゅーわけじゃ。ま、細かいことはスルーでよろ!』
相変わらず一言余計だ。
だが、それすらも少し切なかった。
そのとき、ぐにゃりと視界が……そして地層および記憶のモニターが浮かぶ体内の壁がゆがんでいった。それと同時に、触手に囚われた『銀の鍵』が解放され、天から降ってくる……。
「ぎ、『銀の鍵』が!!」
『『予想外の動揺を有効活用作戦』成功じゃあ!! アダム、手を伸ばして鍵を掴め!! ここは儂が抑えとく!』
だが『銀の鍵』を、歪んでいく壁の触手がもう一度捕まえようとするかのように伸び、世界がさらに崩壊して歪んでいく。アダムは飛び上がるが、『銀の鍵』には届かず、手は空をかすった。
「と、届かない……!」
『一回でうまくいくわけないじゃろ! 何度失敗してもいいから、掴め!!! あれが……あの鍵こそが、そなたらの未来じゃ!!!!』
アダムは落ちてくる『銀の鍵』に向かって限界まで手を伸ばした。
『させん!』
クトゥルーは体内の触手を無数に増やしてアダムに向かって伸ばしていき、一気に攻撃しようとする。
だが……アダムの体に届く前に、触手はすべて力を失い、しおれていった。ノーデンスが力強く言い放つ。
『悪いのう、クトゥルー! そなたの精神にまとわりつく憎しみの大半を斬った。あれらはもう言うことを聞かぬぞ!! ……まあ、そなたの精神が動揺しとる『今』は……じゃが……』
『銀の鍵』が一気に加速しながら降りてくる。アダムは手をありったけ伸ばし尽くした。
ああ、今度こそ……掴むんだ!
迷いも何もなく、ただ一つの未来のために!
頭のなかのガイアが笑った気がした。もしかして、これも、君が見た未来の中にあったの?
これを掴めば、また……君に会えるの? ガイア。
空に投げかけた問いはそのままに、アダムは……。
その拳に、『銀の鍵』を掴みとった――。
「ノーデンス! 俺は世界を変える! また……必ず会おう、次の世界で!」
『いや、二度と我ら相まみえぬことを!! 繰り返すな、振り返るな! ただ前を向いて幸せを掴め、アダム!』
少年の姿のクトゥルーは二人に向かって叫ぶ。
『やめろ! またお前は時を捻じ曲げ、世界を破滅に向かわせるというのか!?』
「ごめん、クトゥルー。俺はもう……逃げない! たとえ、未来に犠牲が待っていたとしても……大切な人たちを救って、その災いさえも自分たちの手で薙ぎ払う! 誰も、絶対に見捨てたりなんてしない!」
そしてアダムは掴んだ鍵を胸の前で抱きしめ、つぶやく。
「ヨグ・ソトース……。ヨグ。ついに、掴んだよ」
『メル……ジューヌ……。やっと……僕の中で君と会える……』
その言葉が響いたと同時にアダムを光が覆いつくす……。
次の瞬間には、アダムと銀の鍵が跡形もなく、消えていた。
『ふぃ~、疲れたのう』
そう言って、ノーデンスはのんきに伸びをする。この間にもクトゥルーの体内は崩壊していく。だが、すべての記憶のモニターは映像を流したままだ。
クトゥルーは呆然としながら立ち尽くし、モニターの映像を見守る。一万年間見つめ続けた、憎き人類の笑み、悲しみ、怒り……すべての記憶がただただ、変わらず流れていくのを眺める。
『憎しみを我から切り離すなど、愚かなことを。世界の記憶も壊れてしまう……そうは思わなかったのか?』
呟くように言ったクトゥルーに、ノーデンスはどこか優しく返す。
『そんなわけなかろう。憎しみなんかなくたって、そなたは尊き創生神じゃ。世界の記憶もそなたも、死にゃあせんよ。よくも悪くも……善神という存在を作った父でもあるしのう。嫌いじゃが、それなりに尊敬しとるぞ』
そう言い、ノーデンスはクトゥルーの精神体の前に跪いた。
『……? なにを?』
『創生神クトゥルーよ。我ら地上の神々が命を賭して守った世界の維持を一身に行われたこと、心から感謝申し上げる。たとえ未来が変わろうとも、このノーデンス・エルダーゴッド、またの名を大国主(テラ=エンリンク)・クニツ。恩義を忘れ得ぬと誓おう』
そこには静かでかつ、厳かな敬意があった。
しばしの間沈黙が流れ、崩壊を続けるクトゥルーの内部の中に一瞬の秩序が生まれ、崩壊が止まった。
クトゥルーは跪いたノーデンスを見下ろす。
元の名を捨て、善神の運命を背負わされたこの神は、大切な利き腕をもごうとも、何があろうとも善神であり続けようとする……。
その矜持は狂気の沙汰とも言えた。だが、この神の魂の強度は決して変わることがない。たとえ何万年経とうとも。
――だからこそ、面白い。
――ならば我は、この神の前に立ちはだかり続けよう。
創生神クトゥルーはうつむくノーデンスについぞ見える事のない愉悦と慈愛の入り交じった複雑な微笑みを浮かべた。
そして一瞬にしてその笑みを解き、威厳と怒りに満ちた声で叫ぶ。
『笑わせるな!! すべての記憶を集積し、痛みを、悲しみを、憎しみのすべてを忘却できぬ我と違い、どうせ、お前は全てを忘れる……。世界が巻き戻れば、また我を恐れて、憎むことだろう……。だが、我に連綿と植え付けられた憎しみは決して絶えぬ……!! 一度、断ち切られたぐらいではな!!!』
瞬間、クトゥルーの精神体の触手の髪が再び一気に伸び、足元までついた。そして、崩れ落ちていっていた体内の動きがぴたりと止まり……再び黒紫の触手があふれんばかりにうごめきながら根を張って生えていく。
ノーデンスはそれを見て、不敵に笑いながら、立ち上がる。
『ふ……こうなるのは想定内じゃ。『銀の鍵』を手に入れるにただの一瞬、そなたを動揺させられればよかった。なんせ天上天下の創生神、クトゥルーが簡単に善の下に伏すようではつまらんからのうっ!』
そして、アダムが残していった槍を掴んだ。少しだけ戸惑いながらつぶやく。
『あ、一人でも掴めたわ。精神体でも、気持ちの問題じゃな。うん』
『ノーデンスよ! 一体この憂さをどうしてくれる? あの者のせいで、我はまた悪夢の中……記憶の洪水の中、埋もれて朽ちるのみだ!』
だが、クトゥルーの中には闇の中に生まれたわずかな希望と、果てしない憎しみの底に座す信頼があった。
この善神ノーデンスだけは、時が巻き戻ろうとも、自分を許し、そして討伐せんとし続けるだろう。
『そう悲観なさらんな。ならば……この『嘆きの残滓』が擦り切れるまで踊ろうぜ、触手のぼうや!!』
そう言い放ったノーデンスは三叉槍を振り払いながら、うごめく黒紫の触手に立ち向かっていった。
創生神の悲しみと、絶えぬ怨嗟をすべて受け入れる覚悟で、触手を切り裂きにかかる。
目の前が黒紫の触手に覆われる瞬間、模造の善神は未来を変えに去った栗色の髪の少年に慈悲をかけた。
アダム、健闘を祈るぞ。たとえそなたがどのような道を築こうとも……。
わずかな時を共に過ごせたことをただ、睦ましく思う。