2章16話(34話)
「ま、まさか……自分自身を石化したのか!?」
「ああ、首だけをね。クリフ、俺は君に殺される気も、殺す気もない! ねえ、もういいんだよ。君は、消えたりなんかしなくていいんだ!」
アダムはそう言って、石化の影響がない腕を伸ばしてクリフを抱きしめた。クリフは驚愕で震えながらも、身をよじって逃れようとする。
「嫌だ、僕は消えたい! もう一人きりになんてなりたくないんだ。そのためには、生まれ変わらなきゃ! アダム、今度こそ君を殺して、正しい存在になりたい……!」
クリフの触手で突き刺されれば一貫の終わりだろう。だが、それでもかまわなかった。ただ、クリフの全てを受け入れたかった。闇の中から、救い出すために。
「変わったりしなくていい! 俺は時を戻して、君が君のままで、明るい場所で生きられる世界を創りなおす! ごめん……俺は、やっぱり選べないんだ。クリフも、ガイアも、みんなを助けたい! 今度はちゃんと、時を繋いで全員を救う!」
「偽善者だ! 君の言葉なんて、何一つ信じられない!」
クリフの声は激しく怒り、震えていた。
「それでもいい。俺も、クリフも、みんなも……何も変わらないままで、よりよい未来を生きていくんだよ。俺達で、ずっと一緒に!」
クリフの体からゆっくりと力が抜けていくのを感じた。アダムは身を離し、その手を握った。
遠い日に、薄暗い牢獄でそうしたように。
「今度は二度と君の手を離さない……。必ず、君を闇の中から救ってみせるから! もう一度だけ、俺にチャンスをくれ!」
クリフの唇がわなわなと揺れる。大きな宝石のような瞳から涙があふれだす。
「今更……君を信じられるとでも?」
「信じなくてもいい。だったら、信じてくれるまでクリフと向き合うよ。何度だって時を超えて、君に会いに行く! 俺は簡単に死んだりしないからな!」
クリフはしばらく動きを止めていた。そして次に口から出た言葉は、ひどく冷静なものだった。
「だとしても、一体どうする気? まさか、クトゥルーが持っている『銀の鍵』を奪うとでも言うのかい」
「ああ、そのつもりだ! 俺はクトゥルーを倒して、『時の改変』の権利をもらう! やっぱり、絶対に譲れない。君を、ガイアを、みんなを救いたいから!」
そのとき、初めてクトゥルーが口を開いた。
『たわごとを! クリフよ、アダムを殺さぬならば、お前の願いは永久に叶わぬぞ。そやつはきっと、同じようにお前を裏切る。時を超えても、同じ過ちをおかすだろう。人はどこまでも弱く、変わらぬ生き物だ。さあ、早くその者の魂を壊せ!』
「そうだね。……人が簡単に変わるわけがない」
そう言ってクリフは冷たい表情で、アダムの手を振り払った。
届かなかった……。アダムは絶望に打ち砕かれる。
クリフは、アダムの目を見据えて淡々と告げる。
「アダム。君は、どこまでも嘘つきの偽善者だ。僕の乾ききった心に希望を与えては、いつも打ち砕いてきた」
その言葉は淡々としているが、先ほどよりもどこか、生気が感じられた。
やっぱり……戦いは避けられないのか?
「……『今の僕』は決して、君を信じることはできない!」
そう言ってクリフは触手を勢いよく伸ばす。アダムはまた体を石化しようと構えた。
だが……クリフの触手は予想を裏切り、鉄橋の上にある階層の操作盤まで伸び、金の三叉槍を掴んでアダムの頭上で放した。
とっさにアダムは手を伸ばし、三叉槍を掴む。だが、疑問が
「クリフ!? どうして……?」
「だって……」
クリフはしばらく黙っていた。だが、顔を挙げて言い放つ。
「未来は気が変わっているかもしれないもの。君も僕もね……アダム?」
クリフはそう言って、王の立場に相応しい気品ある笑みを浮かべた。
いつも人前で見せていたこの余裕ある表情は、泥を這いながら偽りの王座に就き続けてきた彼が必死で身に着けたものであり、そして最大の『ブラフ』なのだ。
『裏切者め! アダムを……メルジューヌの魂を殺せ! さもなくば貴様がその気になるまで苦しめてやろう!』
クトゥルーの太い触手が四方八方からクリフに向かって襲ってくる。
「危ない!」
アダムは戻ってきた三叉槍を構え、クリフの前に立とうとする。
だが、クリフは微笑み、首を横に振る。そして、橋の手すりに腰掛けた。
「クリフ?」
「アダム、僕は君を許さない。だけど……やっぱり君は、僕にとっては唯一の光だ」
そして、ゆっくりとクリフは不安定な鉄橋の柵の上に立つ。
『何を考えている、クリフよ! アダムが憎いのではないのか! なぜこのような行動をとる!』
だがクリフは激高するクトゥルーに臆することなく言った。
「ヨグ・ソトースのすべての憎しみを押し付けられただけの君には、複雑な人間の感情はわからないか。まあ……そうだよね、僕も自分の気持ちがよくわからないし」
『黙れ! 我をこれ以上たばかるな!』
「それでも……僕は、『光』だけは絶やしたくない。それだけはわかる!」
クリフに迫りゆくクトゥルーの触手をアダムは三叉槍で払おうとした。だが、触手の重みは圧倒的であり、後ろにはじき返されてしまう。
「うっ……! クリフ、一体何をする気だ! 溶鉱炉にこのままじゃ落ちるぞ!」
「君以外で考えたら、時をより多く戻すのに僕ほど優れた神食個体はいないと思わないかい? アダム」
アダムはその瞬間、クリフの行動の意味を理解した。全身の血が一気に冷えていく。クリフは『時の改変』のために、溶鉱炉に神食された体を溶かすつもりなのだ。
「で、でも……君の中には受肉結晶がないんじゃ?」
「忘れたのかい? クトゥルーはヨグ・ソトースの半身だ。そのまま彼の触手を受け入れた僕のこの身そのものは受肉結晶と同等の価値を持つ」
クリフの返答で、彼の意図が、意思が本気だとわかる。アダムは震える声で訴えた。
「そんなのダメだ! クリフ! 君が、自分をたとえ、過去に戻れたとしても、『今の君』を犠牲にするなんて……!」
「神食度で考えて君か僕のどちらかがここに沈まない限り、大して時は戻せない。少なくとも……ああ、僕が君にあのこっぴどい裏切りを受けた後になってしまうだろうね?」
あえておどけてみせるクリフの瞳には、今までにない光が灯っている。
それはまるで、ゆるぎない『希望』のように輝いていた。
アダムの言葉、彼がついぞ得られなかった誰かからの抱擁が、それを灯したのかもしれない。
「勘違いしないでね、アダム。僕は君を憎んだままだ……。僕がここで生きている限り、クトゥルーは君の魂を殺させようとするだろう。魂が殺された人間は時をいくら戻そうと、元には戻せないらしいから」
「だとしても、ダメだ! ほら、俺に捕まって……!」
アダムは柵に立った手を伸ばす。だが、クリフは触手でその手を振り払った。
衝撃でアダムは後ろに倒れ、柵にぶつかった。クリフは冷淡に言い放つ。
「断る! たとえ偽りの王だろうと、憎き裏切り者に膝を折るほどに落ちぶれてはいない!」
その声はどこまでも気高く、だがわずかな寂しさをまとっていた。
「クリフ! ダメだ……! 一緒にクトゥルーを倒そう! 二人で、『銀の鍵』を……」
「まったく、人に甘えるのもいい加減にしたらどう? ああ……やっぱり僕は君みたいな偽善者、大嫌いだ……心の底から、憎くてたまらないよ!」
それでも、アダムは立ち上がり、再びクリフに手を伸ばす。
だが、クリフはその瞬間に柵から足を踏み外した。落ちていく瞬間、彼は全ての悲しみから解放されたように笑った。
「さよなら、兄さん。もう一度だけ、君に賭けてあげる……」
その言葉と共に、彼は溶鉱炉に落下していった。アダムは柵から乗り出し手を伸ばすが、間に合わなかった。
「クリフ――――――――――!!!!」
アダムの叫びがこだまする中、虹色の海は彼の体をゆっくりと包み込み……無限の時の夢を見る肉の中に沈み込んでいった。
「うわああああああーーーーーーー!!」
慟哭しながらアダムは虹の海を眺め続けた。いつも自分を守護していたヨグ・ソトースの肉体がここまで残虐なものに見えたのは初めてだった。
クリフが見えなくなっていく……。
守れなかった。結局、救えなかった……。
頭の奥がキィンと激しく痛んだ。それは、自分が『背負っている者』すべてからの叱咤だと、一瞬で理解する。
もう声も何も届かない。ただ、背後に気配を、息吹を感じる……。ガイア、アキリーズ、ヴァルトロ、そして……クリフの影と、意思を。
彼らはただ、無言で問いかけ続けている。
絶望して、立ち止まっている暇なんかない!!
この犠牲を背負って、自分はこれからすべてを救いに行くんだ……!
アダムは三叉槍を持って、ただ前を向いた。前を向くほかに、もう自分には選択肢が残されていないのだ。
『なん……だと……なぜ、あの者はあのような行動を? メルジューヌの魂を壊せるはずだったというのに!』
クトゥルーは明らかに混乱していた。ヨグ・ソトースに押し付けられた憎しみだけを背負った創生神には理解しがたい行動だったのだろう。
「クトゥルー……その『銀の鍵』は俺が貰う! 『時の改変』の権利を得るために、お前を必ず倒す!」
『黙れ……メルジューヌの魂を破壊できぬというなら、お前をそう簡単に殺しはしない。未来永劫、いたぶりつくして、気が狂うまで拷問にかけてやろう。お前が愛する者が現れるまでな!』
クトゥルーの体に生えた触手が数本一気にアダムに向かってきた。
先ほどと同じで、槍だけでは防げない……!
だが、アダムは祈るような気持ちでそれを構える。そして叫ぶ。
「ノーデンス! 一生のお願いだ! あなたは……ちゃんと手を伸ばせば、助けてくれるんだろう!?」
しかし何も起こる気配はなく、ただ目の前に頭ほどの太さの触手が向かってくる。
『ノーデンス? はっはっはっはっは!! 遠い昔に腕をもぎ取ってやった作り物の善神か!! あやつにメルジューヌ……貴様はつくづく、我の不俱戴天の仇ばかりを背に負う不愉快な子どもよ……』
「ああ。気は、合わないだろうねっ……!」
アダムは軽口を返しながらも、それに反して冷や汗が流れてくるのを感じた。あの太い触手で叩かれたら、それだけでも虹色の海に落下する可能性もある。そうなると、今度こそ一貫の終わりだ。
アダムは三叉槍を使って防護しようと前に突き出す。その時だった。
『しかと聞き届けたぞ、アダム! 久しぶりの善神チート……派手に暴れてやろうかのう!』
金色の光が目の前に現れ、懐かしい感覚が身を襲う。
『その前にちょいとばかし、口と体全体借りるぞ。アダム』
「えっ……い、いいけど?」
『んじゃ、拝借!』
そのとき、アダムの口が妙な感覚になった。何やら、勝手に開いていく。
クトゥルーを見据え、アダムの口を借りたノーデンスはよく通る声で言い放った。
「久しぶりじゃのう、触手のぼうや! また会えて最悪な気分じゃが、ここは礼儀正しくご挨拶に上がろう!」
そう啖呵を切ったノーデンスを見下ろすクトゥルーの異形なる貌には、残虐な笑みが浮かんでいた……。