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2章15話(33話)

 世界に一気に色がついた。黒紫の触手がアダムを解放する。

『どうだ? 自分の罪の味は? 絶望に声も出ない……とでも、言いたげだな』

 愉悦に満ちた声で、クトゥルーが自分に問う。この異形の神は人の悲しみを、果てしなく続く後悔を求めている。

 気づくと、目の前のクリフが答えを求めるような顔でこちらを見ていた。

 そう、ずっとクリフは答えを求めていた。何度も、何度も……。

「クリフ……俺は、ダメな兄さんだ。君を救うはずが、君に救われていたなんて。どんなに謝っても、許されない……」

 しかし、クリフの凍り付いたように悲しげな表情は寸分も変わらなかった。

 きっと、この言葉のなかに彼の欲しい答えは一切含まれていないのだ。

 アダムは自分自身に激しく失望した。クリフが望んでいる言葉を言いたいのに、何一つ、自分からは正しい答えが出てくることがない。

 どうりで誰も救えないはずだ。俺は、何も理解していない。人の痛みにも、悲しみにも、寄り添う力がない。

 当然だ。人にどう思われるか……そればかりで、自分の本当の望みにも、耳を傾けられないんだから。

「勘違いしないで。僕は君を救ったんじゃない。ただ、僕は父上の血を引く君のような王子様に生まれ変わりたかった……君についてより深く知るために、生かしてやっただけだ。君の目をもっと見つめられれば、君の声をもっと聞ければ、わかる気がして……」

 だが、そう言いながらもクリフの声は震えていた。

「そうまでして、なぜ、生まれ変わりたいんだ?」 

「僕はずっと暗闇の中にいる。今もまだ、その中から出られない! だって、今の僕は全部偽りだから……! 王の血を持たず、正当な王の真似事をしているだけ。どんなに優しく、慈悲深い君を真似たところで、僕は君になれない……。でも、父上の子どもとして生まれ直せば、今度こそ、誰からも愛される完璧な王になれる!!」

「そんなことをすれば、クリフ。君は君じゃなくなってしまうだろう!」

「自分という存在を呪い尽くしたことのない君には一生わからないだろうね、アダム……僕は大嫌いな自分なんていらないっ!! いらないんだ……」

 クリフは激しく言い放った。そして、か細い声で続ける。

「ねえ……君が父上に僕のことを一度も話さなかったのは、嫌われないためだろう? 魔女ヘレナの子を救いたいだなんて、父上が許すはずもないもの」

 弱弱しい声はアダムを刺し貫く。それはクトゥルーの触手の刃などよりも深く、心の奥底を抉るようだった。

「……そ、そんなことない……」

「嘘だ。君は常に父上や国民にどう思われるか考えて行動してきた。父上が僕を嫌っていると知って、話してくれるはずがない……。君が起きない間、ずっと寂しくて……裏切りの理由を毎日考え続けた。歳月が経つうちに理解できたんだ。僕はその天秤にかけられて、負けたんだと」

 アダムは反論の言葉を失う。クトゥルーに見せられた自分の記憶の断片に眠っていたのは……それに紛うことのない真意だったからだ。

 クリフはアダムの胸倉を両手でつかむ。弱弱しい力が悲しかった。

「答えてよ! アダム。僕はずっと君の答えが欲しかった。約束を破った本当の理由を教えて……」

 アダムはクリフのまっすぐ見つめてくれる瞳を恐れた。紫色の光が不安定に揺れる。

 ずっと無視をし続け、答えることを拒んだ問いから、もう逃れられない。

 もう、向き合わないといけないんだ……。

「ああ……そうだ。父上に、国民に、嫌われたくなかった。俺はみんなの良き王子でありたかった」

 クリフは今にも泣きだしそうな顔をする。

「いっそのこと、君が僕を嫌ってくれればいいのに。君があの日、僕の手を握らなければ……僕に、気づかなければ……」

「迷ったよ……でも、君を救いたいと思ったのは嘘じゃない! あの日はクリフの誕生日だったから。俺は確かに、牢屋の鍵を手に入れるつもりだったんだ!」

「信じない……そんなの一体、どこに証拠があるんだ!? 結局、君は来なかった。その結果だけが全てじゃないか!」

 アダムは思わず、言葉を失う。

 そしてクリフはクトゥルーに向き直り、その巨体を見上げながら跪いた。

「クトゥルー……お願いだ! 何でもする……何でもするから、アダムの中から取り出した『銀の鍵』で僕を生まれ変わらせてよ! どんなに演じても、努力しても、もがき苦しんでも……人の出生だけは『時の改変』によってしか変えられない。自分を殺して生まれ変わる。それだけが僕の悲願なんだ……!」

 計算高く冷静な仮面も何もかもが、今のクリフからは剥がれ落ちていた。

 それにしても、あまりにも無謀だ。首を垂れて、ただの一瞬で人の命を奪うことができる創生神に懇願するなんて。

 だが、創生神の反応は意外なものだった。

『ならば、覚悟を見せるがいい。アーサーは少々足りなかったが、我と賭けをし、偽りの王を演じ続けたお前の度量はそれなりに買っている。一度だけ、機会をやろう』

 アダムはぞわぞわと全身が粟立つのを感じた。それと同時に、腹部の痛みが激しくなる。先ほど触手に貫かれた部分からは絶え間なく血が流れている。だが、その痛みではない。

もっと、根源的な部分を抉るような恐ろしさ……。残虐を好むクトゥルーの好奇をかぎ取ったのかもしれない。

「機会……?」

『お前が求めた唯一の光、アダムを自ら消して見せよ。クリフ……真の光を得るためには、裏切りの輝きなど不要だろう? 触手の力はお前に返してやる』

 父王アーサーに迫った問いと同じだ。アーサーはアダムを守るため、クリフを犠牲にしたが。

 クリフは跪いたまま、動こうとしない。

『どうした? その程度の覚悟で時は変えられぬ!! 我が憎き半身ヨグ・ソトースの『銀の鍵』を我からもらい受けたければ、愛する者と殺し合うがいい!』

「そんな……!!」

 思わず驚愕から、アダムは叫ぶ。だが、クリフは激しくクトゥルーの言葉を否定する。

「愛してなんかない! 僕はただ、アダムになりたいだけ……それだけ、なんだ……」

 クリフはそう言いながら、体を震わせる。激しい迷いが彼の中を渦巻いているようだった。

 アダムは思わず、クトゥルーに真意を問いかける。

「クトゥルー、なぜこんなことを、俺達にさせようとする!?」

『我が半身ヨグ・ソトースを狂わせた巫女メルジューヌの器と魂であるお前を破壊するためだ。我に全ての憎しみを背負わせた元凶を壊せば、そのとき我クトゥルーはようやく『夢見の宿命』から解放されるのだ』

「『夢見の宿命』……?」

 クトゥルーの言葉には真の憎しみがこもっている。しかし、どういう意味だ……?あの東方の興行師が見せた神話にも、『夢見の宿命』と言う言葉はなかった。

『ヨグ・ソトース……奴があの娘を愛さなければ、我は永久に憎しみの業火に体を焼かれながら世界を維持する役目を負わずに済んだ。メルジューヌの魂が生き続ける限り、我は絶え間なく憎む、この世界の夢を見続けなければならない……』

「だったら、俺を今すぐに殺さないのはなぜだ? クリフになぜ殺させようとする!」

『体ならば、我が殺すのは容易だ。だが、人の魂を殺せるのは、その者に底深い愛と憎しみを持った者のみ……。我はクリフがお前に向ける『愛』が満ちていくのを待っていた……その感情は、憎しみによって、より強くなる。アダムが記憶を取り戻せば、なおのことだ』

 記憶? アダムはゆっくりと理解した。

 そうだ……だからこそ、クトゥルーは自分たちに対する、あの長い記憶をわざわざ、自分に見せたのだ。クリフの愛と憎しみが最高潮に高まるように。

「待て! じゃあ……あのとき、アダムを殺すと言ったのは嘘だったのか?」

 クリフは愕然としながら、震える声で問う。

『試したのだ。あのときお前が見せたアダムへの切なる『愛』に、我は大いなる可能性を見た。ゆえにその『愛』がより深まるように、仕向けた。お前達が再会し、共に時を重ねることで、憎しみと愛がねじれ、強くなっていくように』

「だけど……アダムは……僕の、たった一人の……」

冷酷な王を演じ続けた小さな背中が、惑いの中で浅い呼吸を繰り返す。

「クリフ……」

『これこそが我の悲願! この盟約を破ることはないぞ。お前の出生の改変ごとき、我にとっては些細なこと。忌々しいメルジューヌの魂さえ殺せれば、お前の好きにしてやろう』

 どこまでもクトゥルーは残酷に嘲笑う。この言葉は明らかな偽りだろう。だが……クリフは悲願を前に立ち止まる気はなさそうだった。

 自分がクリフに殺されれば、クリフの悲痛な望みは叶うだろう。たとえ、クトゥルーが盟約を守らなくとも……。彼は自分の存在を殺すことができる。

 だけど、それはあまりに寂しい願いだ。

 クリフの、光の消えた紫の瞳を見つめながら、アダムはその悲しさを想った。

 本当に……彼が自分を殺す以外に、幸せになれる方法はないのか? 何も?

 同時に、アダムの頭の中に、銀色の髪の少女が浮かぶ。

 もし自分がここで死んで、『時の改変』を行わなければ、彼女は救えない。

 『今だけは……私を一番、大切にして』

 ガイアにもう一度会いたい。それが叶わなくとも、彼女には幸せに生きて欲しい。あんな死に方、もう二度とさせない。

 でも……目の前のクリフはどうなる?

 愛と憎しみを激しく渦巻かせながら、クリフはずっと、闇の中で自分を待ってくれていた。

 傷つけて独りぼっちにしてしまった彼こそ、一番救うべき存在だったのだ。

 だけど……。

「クリフ。俺は君に償いたい。望みをかなえてあげたい」

「なら、死んでくれるの? 僕のために」

 クリフはうつむいたまま、言った。

「ごめん……それはできない」

 激しい失望と悲しみがクリフの顔に浮かぶ。

「やっぱり……口だけじゃないか。どこまでも君は、僕を苛立たせる!!」

「違う! 『生まれ変わって』、君の存在が消えるなんて悲しいからだ!」

 クリフは顔をゆがませる。憎しみが一瞬絶え、驚きが紫の瞳の中には浮かんでいた。

「クリフがどう思ってるかは知らない。わからない……でも、俺は君に消えて欲しくなんかない!! そんなの寂しいよ……。俺にとっても、君はたった一人の弟なんだ」

「嘘だ! 今更信頼できない……。僕はこんなにも悩んで、苦しんだのに!」

 そのとき力を取り戻したクリフの触手がアダムの肩を突き刺した。

「ぐはっ……!」

 触手がうねりながら、さらにアダムの肉を抉る。

「クトゥルー、アダム……! これが僕の答えだ!! お望み通り、アダムを殺して、『時の改変』の権利を手に入れてやる!」

『ふははははっ! 感じる、感じるぞ……お前の憎しみと愛が滾ってくるのをな! さあ、メルジューヌの魂を壊せ!』

 触手がアダムに四方八方から襲い掛かり、体を貫き、肉を抉る。

 それでも、急所は器用に避けられていた。

「ああ……自分の甘さが憎らしいな……。僕は君なんかよりもずっと、自分が憎い……! 全部全部全部全部全部、消してやるーーー!!!!」

 クリフが怒りと悲しみをほとばしらせながら言い放つ。丸腰のアダムは抗う手段を失い、されるがままに血を噴き出し、串刺しになり、冷たい鉄橋に身を横たえる。

 このままだと、クリフは自分自身を消してしまう。でも、それが彼にとって最大の望みなのだ。自分が何を想おうと、彼が求める唯一の救いはそこにしかない。

 止める権利が、傷つけて永遠の痛みを与えてしまった俺にあるのだろうか?

 誰か、誰か……どうすればいいか教えて欲しい……

 ダメだ!!

 それじゃ、昔と何も変わらない。人の目を気にして、嫌われないように顔色を窺って、人が好むようにふるまって。大切な弟を見捨てた。

 でも、自分の本当の声がどこにあるのか、まだわからない。

 クリフ……ガイア……? どちらを助ければいい。どちらを助けるのが正しい?

 いや、どうあがいても、どちらも助けられないかもしれない……。

 闇の中で伸ばされた細く病的な白い手と、美しい銀髪の少女の姿が瞬くうちに入れ替わりながら脳裏に浮かび、アダムに問いかける。

『やれやれ、見てられんのう。どっちも大事……。そう思っとるくせに』

 聞きなれた、優しい声が響く。冷えた地下に温かい風が吹き込んだような感覚が襲う。ノーデンスは、俺の中にそしてすぐそばにいる。姿すら見えないが、

「ノー……デンス?」

 そう呼んでいいのだろうか? 大国主(テラ=エンリンク)・クニツが本当の名前のはずなのに。

『ふん、どうでもよいことを。んなもん、どっちも儂じゃよ! キメラ善神のノーデンスも、幽世ゴーストワールドの大国主(テラ=エンリンク)・クニツもな。ぶっちゃけ、大国主(テラ=エンリンク)時代のことは忘れた方が何かと楽なんじゃが、儂は忘れることができんかった』

 どうして? そう、頭の中で問いかける。

『同じぐらい、大好きだったんじゃよ。幽世ゴーストワールドに残してきた者たちやウサギとの冒険の思い出も、善神ノーデンスとして送った救世の記憶も。だからどちらも、紛れもなく儂なんじゃ。儂はどっちも手抜きなんぞせず、死ぬ気で時を駆け抜けた……たとえ何があっても、まがい物のデウス・エクス・マキナとなっても、忘れてやるものか!』

 大国主(テラ=エンリンク)・クニツのことも、ノーデンスが一体どんな風に生きてきたのか、俺は知らない。だが、その言葉の中には確かな重みがあった。

 きっと、彼は俺に何かを伝えてくれようとしているんだろう。

『なあ……本当はわかっとるんじゃろ、アダム? 儂にわざわざ聞かんでも、自分の答えぐらい。……まあ、考えてちゃんと決めるがよい。お前が手を伸ばしさえすれば、いつでも儂が掴んでやる』

 そしてノーデンスと入れ替わるように、自ら散っていった赤い髪の剣士が、どこかでそう叫んだ。

『自分の選択に責任を持て! アダム』

 ああ、自分の中に、確かに彼はいるのだ。死しても、溶鉱炉に溶け切っても……。

 ねえヴァルトロ。君の石化の力は本当にクトゥルーや、クトゥルーの力を持つクリフ相手には使えないのか?

『ばーか。そんなのお前次第だ』

 俺次第……? 脳裏に響くヴァルトロの声は、呆れをにじませてアダムを叱咤する。

『なんのために、オレがその力をお前に託したと思ってる! ちったあ自分で考えるんだな! ない頭絞って突破口を探すぐらいしか能がないくせに』

 突破口……。そうだ、突破口は、きっと何かあるはず!!

 クリフやクトゥルーに石化は効かない。でも……?

 ふと我に返る。刃のように尖った触手の一本がアダムの首元につきつけられた。

 クリフは覚悟が決まったように言い放つ。

「今度こそ、最後だ。僕は君と共に……永遠に死ぬ。さよなら……僕の、兄さん」

 クトゥルーの触手に埋もれた目が愉悦を極めたように細められる。

 アダムは目線を落とし、自分の首輪がはまった首筋を一心に見つめる。記憶の中にある、ヴァルトロの赤い瞳を思い出した。

 少しずつ、うつむいたアダムの目が充血し、白目までもが全て赤く染まっていく。

 クリフはわずかな違和感を覚えるも、アダムの首に触手をさらに刺しこもうとしていく。

 だが次の瞬間、喉仏に突き刺さろうとした触手が固く拒まれた。

「なぜ!? 皮膚を貫通しないだと?」

 アダムは赤く染まった目でクリフを見上げ、言い放った。

「確かに、君にこの能力は効かないだろうな。でも……俺自身になら効くかと思ったんだ!」


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