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2章14話(32話)

 セピア色の世界はまた新たな風景を映し出す。

 見渡すとそこは、寒村だった。

「アダム王子……!? なぜ貴方様がここへ?」

 村人の一人が恐る恐る声をかけてくる。

 王族が現れたことなどついぞないためか、魔物の襲来を恐れて民家に隠れていた人々はアダムを見て、息を呑んだ。

 アダムはみんなを落ち着かせるようにできるだけ明るい声をかけた。

「防空壕に避難をしてください! 俺がこの近くにあるのを見つけてきました!」

「なにっ……貴重な宝物の貯蔵がなされているがゆえに、王族しか場所を知らないと言う、有神時代の旧防空壕を解放してくださると!?」

「もちろん! 今は人命の方が大切です!」

「本当に!? だったらうちの子が助かるわ!!」

 歓喜する者、そして王族自らが出向いたことにただただ混乱する者がそれぞれにひしめき合い、アダムが案内する方角を目指す。

「で、ですが……王子! 魔物の襲来するなか、ここまでどうやって?」

「魔脳騎乗装置に乗ってきました。魔物はいたけど、どうにか躱しながら! ともかく逃げましょう、早く!」

「ああ……アダム王子はまさに英雄だわっ! さすがはアーサー王とルルド姫の御子! 魔女ヘレナに呪われたこの国も、貴方様のおかげで救われます!」

 魔女ヘレナ……!

そう聞いたアダムは思わず、どきりとして息を呑んだ。クリフのことを思い出したからだ。視察に行っていた父が戻ってきてすぐに話をしようとしたが、その間もなく、アザトースの侵攻が始まった。

父がアダムにすら会わないと宣言し、城の塔にこもりきりになってしまったせいで、まだ彼を解放する手はずをつかめていない。

 父アーサーは、アザトースの侵攻が起こって以来、すっかり変わってしまった。

鮮やかでかつ、隙のない剣技で目の前に立ちはだかるすべての敵を屈服させてきた剣聖、アーサー。彼にとって、通常の武具での攻撃が一切効かない魔物という存在が現れたことは、自らがこれまでに築き上げた武勇と地位、双方が根幹から崩れ去ることを意味していた。

 実際にアーサー王は国民を守るため、自らアザトースの眷属を伏せようと攻めていったが、部下の兵士と共に魔物に嬲られるままとなって重傷を負い、目の前の民は無残に殺された。

 初めて、剣聖は自らの限界と絶望とを知った。そしてマグダラのバックアップから作成した魔脳マリアとの対話によって対策を取り始めた。

 やっとのことで王都には魔脳シールドが形成されたものの、地方では国家からの実質的な遺棄への怒りの声が沸き、各地で暴動が発生した。

 アーサー王は数日で十歳近くも老け込み、変わり果てた姿と化した。

そしてこの問題の解決方法……魔物を倒す方法を探るべく城の塔にこもり、魔脳マグダラの後継にあたる人工知能マリアとの対話をひたすら繰り返すようになった。

 来る日も来る日も……ひたすら手を変え品を変え、マグダラの劣化版とよばれるマリアに解決方法を尋ね続けたのだ。

 アダムは人が変わってしまった父王を見て、初めて恐怖と危機を感じた。それは母を早く亡くしたとはいえ、王族として穏やかに暮らしていた人生においては未知の衝撃だった。

 このままでは、ルルイエは……地方に住む国民はアザトースという宇宙神の目論見通り、皆殺しにされてしまうだろう。そして父はこのまま、新たな時代の到来に耐えられず、壊れてしまうかもしれない。

 そう思った瞬間、アダムの心に灯った火があった。それは、幼いころに聞いた父の諭しだった。

『王族は常に国民の友、そして忠実な奴隷であり続ける。いつ何時も、身を粉にしてでも人に優しくあるべきなんだ。優しさを忘れた王に未来はない』

 父がこもりきって魔脳との対話を繰り返し続けているのも、きっと国民を救うためだ。

 ならば自分は父に代わって、義務を果たさなくてはならない。国民の奴隷として……。

 アダムは幼少期からの教えを守った。寝る間も惜しんで国民の救済に向かった。

 睡眠時間の少なさと疲労から気を失うことがあるほどに、ひたすらに無我夢中だった。

 父の統治の下、誰かが犠牲になることなどあってはならない。今にも息絶えそうな国民を見捨てることはできなかった。

 幾度か魔物に殺されかけたことがある。だがそんなとき必ず、見知らぬ声が聞こえた。

『メルジューヌ、なぜ……君はそうまでして自分を傷つけて戦うの?』

 そして、嘘のように魔物が消え去ることがあった。だが、国民達はその現象に一切気づかず、それどころか魔物が現れたことすら忘却していた。

 理由はわからない。だが、自分は魔物を倒すことはできなくとも、国民を脅威から救える……。

そう確信したアダムは憑かれたように救済に向かうようになった。

『メルジューヌ……ダメ、だよ……ぼくの力が、完全にたりなくなる……』

 そんな声が聞こえた気がしたが、アダムは立ち止まれなかった。

 クリフの誕生日が近づいてきている……それまでに自由にしてあげなきゃ。あの子はきっと、寂しくて泣いてる……。

 そう思いながらも、頭の中の優先順位は常に命を脅かされる民に向かう。シールドが張られた王都にいるクリフは安全だ。後ろ髪を常に引かれながらも、奴隷のように働いた。

 極限まで疲労した心と体は時折、遠く……平和だった過去に思いを運んでいく。

 昔……有神祭で会った、天使みたいな銀髪の女の子。あの子も王都にいるはず。全部が終わったら、会いに行きたい。ちゃんと結婚しよう、そう伝えるんだ。

 いつか訪れる平和。そのためにも、今を乗り切らないと。自分だけが幸せになってはいけない。自分より、誰かの幸せのために努力しないと。

その義務感と、父に誓った思いとが、アダムをひたすらに駆り立てた。

『本当に、そう思うのか?』

 クトゥルーが、頭の中に問いかけてくる。自分の記憶を見つめながら、アダムは震える声で答える。

「…………いや、違う」

 義務感……父への誓い?

 それは、きれいごとだ。本当は……。

 アダムの脳裏にその考えが燃え広がる炎のように、本心がくすぶり、静かに焼き付いていった。

「俺は、嫌われたくなかった……ただ、みんなの期待に応えたかった。とうさま、死んだかあさま、それから国民達に期待される俺でいるために……ただ、それだけのために、大切な人との約束を破ったんだ」

『笑顔の風語り』と呼ばれた母、ルルドと英雄アーサー王の子供として、庶子とは思えぬほどに国民とルルイエ王党派の期待と一方的な愛情を受けて育ったアダムに要求されるのは常に『優しく謙虚で、民に対して最大限に配慮した正しいふるまい』だった。

人を思いやり、相手が民だろうと優しく言葉をかけ、自分以外の者を常にいたわり続ける。そう、はじめは……善を為すことは自己意思ではなく、義務だった。

「やだよ、なんで僕はずっといい子でいなきゃいけないの!? なんで僕だけ大切なものをあげなきゃいけないの!?」

 幼いころ、そう言って母ルルドの胸にすがりついて泣いたことがある。

 それは小さなことだった。母と共に孤児院へ慈善活動に向かったとき、一人の子供がアダムの腕輪を欲しがったのだ。それは母が、祖母の形見だと言って、アダムにくれたものだった。

 だが取材に来た新聞社や見物に来た人間は、アダムを笑って見つめながら、その目の中には無言の圧をにじませていた。

 『笑顔の風語り』の息子ならば、その優しさで、当然のようになんでも譲るはずだ。

「アダム、無理しなくていいのよ」

 母は悲しそうにそう言った。だが……アダムは。本当はどうすべきかを悟っていた。

 母ルルドは国民に好かれてはいるが、それは彼女の献身的な姿勢や、時間を惜しまずに行った慈善活動によって勝ち取った評価だ。

 自分はあくまでも余所者だと謙遜し続け、過剰なまでに善良さと質素な行いを心掛け、へりくだって、誰の機嫌も損ねないようにして……決して正妃になることができない自分と息子であるアダムを守ったのだ。

 アダムは笑顔を作り、大切な腕輪を子どもに渡した。

 表情を悟らせない笑い方は、王族教育で最初に学んだことだった。だがアダムにとってはそれがひどく難しく、何度も訓練役の教員に叱責を受けた。

 感情を隠すのはあまりにも苦しい。だからアダムは意に沿おうと沿わないことだろうと、『自分の取った行動が本心だと思い込む』ことでやがてそれを可能にした。

 それができるようになってから、父にも周囲にも褒められるようになった。自分が感情を押し殺すことが、みんなにとってはいいことなんだ……。アダムはそう確信した。

「ごめんね。私のせいで、我慢ばかりさせて」

 せめてもの慰めか、母は幼いアダムの頭を撫でながら、故郷の古代言語で綴られた不思議な音階で……だが、心にしみわたるような優しい歌を歌ってくれた。

 そういえば……歌は母が精霊と交信する手段の一つであると聞いたことがある。

 たとえ神々は失われても、大地の精霊たちは人々を決して見捨てず、地に還るそのときまで愛を持って守り続けてくれる。神々が死したままであれ、人々から希望が尽きることはないという南方民族の独自信仰。

 その信仰こそが、この国において強大な政治的権力を持つルルイエ純血教団の教義――王族から連なった純血の選ばれし民の子がいつか奇跡を起こし、人々を救う『再臨の御子』になるというものから反することもあり、母は決して正妃になることが叶わなかったのだ。いや……彼らは最初から異民族の人間を受け入れるはずなどない。

 しかし……許されざる精霊との語りを紡ぐ、とうの昔に滅んだ言語。歌詞の意味を理解することはできないが、その歌はアダムの心を癒してくれた。

 それと同時にアダムは、常に不安定な足場に立ち続けるこの優しい母を傷つけるわけにはいかないと決意した。

 それでも、幼いころは母の前だけで本音を言っていたが、やがて……いつの間にか自ら進んで善行を、良き王子としての生き方を心掛けるようになった。

 母が死んでしまってからは余計に、本音が影を潜めてしまった。一体どこにいってしまったのか、自分でもわからない。

 そのかわりに、父にとって、母にとって、国民にとって、期待通りの行動ができるようになった。自分も苦痛を感じなくなった。

 だけど……いつしか、本当にほしいものには、助けたい相手にはうまく手を伸ばせなくなった。

 人目見て好きになったガイアに結婚してほしいと言ったのは、完全に本音を失う少し前だ。

 でも、あのあと、こっぴどく大臣たちに怒られて、父からも叱責された。

 三日間、部屋から出る事を許されなかった。

 父が最高権力者でありながら、周囲の反対から、母を正妃にしなかった理由がそのときにわかった。

 父は確かに母を愛していた。子どもであるアダムのことも愛してくれた。自ら剣の稽古をつけ、城に幽霊が出ると聞いて眠るのを怖がった時は夜通しそばにいて、背中をさすってくれた。

 だが……王である父も、決して自由には生きられなかった。ルルイエの正当な血筋にこだわる大臣や宰相たちは、陰で蛮族と侮蔑してやまない南端の異国の娘が産んだ子を庶子としては歓迎すれど、嫡子として認めることはない。

 本当は、感情のままに怒りたかった。とうさまが少しでも周囲に縛られずに自由に生きてくれたら、かあさまはきっと、絵にかいたような善良……常人ならば発狂するような慈悲深さや清廉さを義務とさせられることもなく、本心から笑えただろう。

 怒ることも、堂々と祖国の懐かしい歌を歌うこともできただろう。

 クリフの母、呪いの魔女と呼ばれたヘレナは逆に、自分の感情を一切隠すことがなかった。

 怒りや憎しみを思うままに人々にぶつけ、薔薇の棘を周囲全てに突き刺しながら死んでいった。

 だが……彼女はその代わりに全てを失った。息子であるクリフは一生自由を奪われた。

 その事実はさらに、アダムに自分が『すべきこと』を確信させる。

 自分が思うままに生きることは、許されない。だったら、ひたすら周囲が思う善良さに従っていた方が楽だ。

 父上にクリフのことをすぐに言わなかったのも、本当は……。

『それで、お前は結局……一体何を守った?』

 クトゥルーは問いかける。その言葉には責めも呆れもない。ただ、事実を確認するように聞いている。

「国民を一人でも多く、生かした。それが俺の義務……いや、建前かもしれない。でも、みんなに生きて欲しいと思ったのは、決して嘘じゃない!」

『あわれな弟との約束を破ってまで、か?』

「助けに行くつもりだった! そう、あの日に……」

 周囲の景色が高速で流れていく。記憶がまた、襲ってくる。

 ああ、きっとこれは脳内でも粉々に砕け散り、もう二度と自分では思い出すことすら拒んだあの日の記憶の欠片だ。

「アダム王子! コランド山にて繭が割れ、巨大なドラゴンの魔物が出現しました!」

「ドラゴン!? 以前、千人を殺した魔物だな! すぐに向かう!」

 城で報告を受けたアダムは急ぎ、武装を整える。魔物にとってはいかなる武器も効かない、攻撃は鎧を貫通してくるとわかりながらも、最大限の防備を行うしかない。

「無謀です! あれに打つ手はありません! 王が、魔物に対抗しうる手段を見つけてから、出向かれなくてはあなた様まで……!」

「それでは遅い! 俺が囮になり、火山の噴射口まで引き付けてみせる! お前たちは待機していてくれ。何とか一人で、食い止めるから!」

『倒せるあてもないというのに、愚かな行いよ。そしてお前は、ドラゴンに単身、向かっていった』

 また、記憶が早送りになる。

 気づけばアダムはコランド山の中腹部でひどく腐臭のする、赤茶けた体をしたドラゴンと一人、対峙していた。ドラゴンの顔と長い首まわりには百近い目がびっしりとある。

「みんな、俺が山頂のほうに引き付ける! 今のうちに逃げてくれ!」

 民は返事をする余裕もなく、ほうほうの体で逃げていく。

 アダムは一切攻撃が届くことのない剣で自分の身だけは守ろうとするが、10メートルほどあるドラゴンの巨体は容赦なく彼を追い詰める。

 ドラゴンはその腕を振りかぶり、爪でアダムの肌を切り裂いた。

「うああああーーー!!!」

 大量に出血したアダムは後ろに倒れ、痛みにのたうち回る。ドラゴンの爪が、瘴気を吐く顎が再び、近づいてくる。

 アダムは無意識に何者かに祈った。

 ――頼む、今だけどうにか、乗り切らせてくれ!!

 これまでも、自身が囮になり魔物から国民を守ってきたが、所詮は攻撃が届かない相手。いつも死ぬような思いをしてきた。

 だが、危機に陥ったときは必ず『奇跡』が起こるのだ。魔物が消え去り、嘘のように、全てなかったことになる奇跡が!

 だが、出血量のせいか体中の感覚が抜けていき……初めて『奇跡』は起こらないかもしれないと思った。

 もしこのまま死んだら、一体どうなるのだろう……? また千人の人が嬲り殺されるのか? そうなったら、義務は、責任は……!?

 こんなときでさえ、アダムの思考は自分の命よりも義務や責任が先行していた。蓋をした感情は、どうやれば戻ってくるのだろう?

「『奇跡』に……頼りすぎたかな?」

 そのときアダムは初めて、自分を永久に呼び続け、守ってくれた存在のことを想った。顔も何も見えない。優しく、せつない声だけを覚えている相手にそっと一人、語り掛ける。

「ねえ、不思議な声で俺を呼ぶ君……奇跡を何度も起こしてくれたのは、君なんだな。どうして、俺を守ってくれるんだ?」

 たまに話しかけることがあった。だが、返事が来ることはたまにだ。それでも、見えない何かにすがりたかった。その願いをくみ取ったように、答えが返ってくる。

『ぼくはずっと、深淵から君を見つめていた。一万年前から、君を愛している。でももう……時の力は限界なんだ。足りない、足りない、休眠しないと……』

 頭の中に反響する声を聞いているうちにも、ドラゴンは襲い掛かってくる。鋭利な爪がアダムの胸のすぐ手前に迫った。

「……ダ、ダメだ……!!!」

『アダム……残った力でどうにか、君の心臓の時を止める……いつまでも待っているよ、極彩色の未来で……』

 チクタクチクタクチクタク……。

 アダムはどこからか時計の音が聞こえるのを感じた。そしてそれは、緩慢に停止する……。何かの時が完全に『止まった』。

 確かに、そう感じた。

 だが、それでいながらも体は動く。爪で破られた肌に痛みを感じつつ、よろけながらアダムは立ち上がる。王子として、すべきことは……このドラゴンをただひたすら、民から遠ざけること!

「たとえ……この命を失っても!!」

 アダムは、山頂を目指してひたすら走り抜く。コランド山は活火山。うまく誘導すれば、噴火に巻き込み、倒せるかもしれない。

 それは無謀な賭けだった。だが、抗わないという選択肢は最初からなかった。

 しかし、ドラゴンは残虐な顎を振りかぶり、アダムに再び迫る。

 ギシャアアアアアアアア!!

「ぐっ……あああああああ!!」

 一瞬、視界が赤く弾けた。正直に目を閉じる。

 何が起こったか理解できない。ただ……ゆっくり目を開けると、鋭い牙がアダムの心臓を貫いていた。

「うっ……はっ……」

 声すら出ない。だがそれでもなぜか、心臓の鼓動は一切高まる事も、止まる事もなかった。

 なぜ……? まるで、時が止まったかのように……?

 その疑問への答えもみつからないまま、アダムの意識は暗転した。

 ザアアアアアア……。

 風景がまた、変わる。

 壁を隔てた外からの激しい雨音が響く。見覚えのある光景。セピア色に染まっているが、ここはおそらく、最初にアダムが目覚めた城の研究室だ。

 誰かが静かに、激しく負傷して気を失っているアダムを見下ろしていた。

 視点はその『誰か』になっている。だが、次に『誰か』から聞こえた声は、聞き覚えのあるものだった。

「アダムは深層意識に眠る『銀の鍵』によってヨグ・ソトースと繋がりを持っている。その力で心臓の『時』が止まった。確かにドラゴンがアダムの心臓を牙で貫いたのに生き残ったのはそのためか……『時』が動き出すまでは昏睡状態だろうけど」

 クリフの声。これは……クリフから見た記憶なのか。よく見ると、クトゥルーの禍々しい触手が研究室を覆いつくしていた。そしてそれは戯れるようにクリフの首に絡みつきながら言った。

『そのようだな。では、こやつから時の改変を可能とする『銀の鍵』を取り出そう。クリフ、その少年、アダムを渡せ。鍵を取り出せば、その瞬間にアダムはヨグ・ソトースの恩恵を失い、『心臓の時』は自動で元に戻る。ドラゴンの攻撃が遅れて心臓に届いて命を失うだろうがな』

 クリフは思わず息を呑む。そして唇を震わせながら言った。

「『銀の鍵』を取り出せば……アダムが死ぬ……?」

『『時の改変』を行うにはヨグ・ソトースの肉体の培養が不可欠。『銀の鍵』だけではどうにもならんが、早く確保しておかねば』

 そのとき、クトゥルーの触手がアダムの頭に伸びる。だが瞬間、クリフの背中から生えた触手が伸び、クトゥル―の倍近くある太い触手にからみついて、必死でとらえた。

『なんのつもりだ。半神の力を得たとて、驕りは身を滅ぼすぞ』

 クリフは顔を青ざめさせながら、必死で訴えかけた。

「そうは、させない……! 僕は彼を利用する……アダムを半神にする! 大切な実験台を奪うのは、やめてくれ!」

『なぜだ? かわりはいくらでもいるぞ? 現にお前はもうすでに、半神生成手術で百人以上の国民を犠牲にしたではないか』

 クリフの首にクトゥルーの触手が巻き付けられ、ぎりりと激しく食い込んだ。クリフは思わず、苦し気に顔を歪めた。

「うっ……あがっ……!!」

『賭けに勝利したからと調子に乗るな。お前は我が憎む人類の一端。いつでもその命を奪えるのだぞ』

 クリフは大きな目に涙をにじませ、息も絶え絶えに訴えかけた。

「国民と彼は全く違う!! アダムは世界にたった一人しかいない、僕の兄さんなんだ……! たとえ、血の繋がりがなくとも……!!」

 絞り出した言葉と共にクリフの目から涙がほとばしる。その涙の意味が苦しみか、怒りか……激しい悲しみなのか、彼はもはや自分で理解できなかった。それほどまでに、自分を救わなかった兄への思いは強すぎた。

『愛している。だから死んでほしくない、とでも? お前を救わなかった兄を』

「違う! 世界で一番憎くてたまらないよ! 僕は絶対に、彼を許したりなんかしない。でも……もう一度だけ、アダムに会いたい……。この目を開けて、僕を見てほしい……話をしたい。一緒に……」

 クリフは自分の口から零れ落ち続け、誰にも受け止められることのない矛盾をただ噛み締めるしかなかった。

 自分を見捨てたこの少年が憎い……憎い……。

 でも、アダムが死ねば、眼前に見えた一筋の光は完全に閉ざされる。その恐怖と悲しみに耐えられる自信がなかった。

 世界でただ一人、自分を見つけてくれた存在が、この世から消えてしまう。

 それはまるで、自分の死以上に、重苦しく恐ろしいことに思えた。

 乾いた笑いが涙と共にひたすら漏れていく。

「ははは……おかしいや……君なんて、大嫌いなのに、僕は今すぐにでもこの世界から消えたいのに……なんで、こんなことを願ってしまうんだろう?」

『人の感情はつくづく理解ができんな。だが……面白い。半神生成手術に失敗した暁には、死体から『銀の鍵』を取り出せばいいだけのこと……』

 クトゥルーは触手をアダム、クリフ、それぞれからゆっくりと放した。

『ならば聖遺物レガシーと適合し、半神となった暁には、この者もいずれ受肉結晶の糧にせよ。よいな?』

 クリフはアダムを見つめた。かつて、誰にも触れられたことがない自分の手を握った手を恐れるように今度は自分が握り、涙をこらえて震える声で告げる。

「早く目覚めてよ、アダム。そして僕が終わるその瞬間まで……そばにいて」

 そのとき、セピア色の世界はゆっくりと静止した。重苦しい沈黙が訪れゆく。

 まるで、その『間』はアダムに何かを問うているようだった。

 クリフの記憶と思念のすべてを知ったアダムはただ、その重さに、愛に、狂気にうろたえるしかなかった。

 そのとき、アダムの意識が闇に覆われた。まるで太い触手が一本一本からみついてくるように……。

『さあ、ここまでだ。戻ってくるがよい……アダムよ』


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